ぬえの能楽通信blog

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『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その9)

2010-07-02 01:07:51 | 能楽

まんまとシテに舟に乗り込まれてしまったワキは、シテを舟から下ろそうと説得に掛かります。

ワキ「これは船路の門出にて候に。何とて聊爾なることをば承り候ぞ。
シテ「この者を賜はり候へ。小袖を召され候上は御損も候まじ。
ワキ「居士のこれまで御出で候ほどに。参らせたくは候へども。我等が中に堅き大法の候。
シテ「何事にて候ぞ。
ワキ「かやうの者を買ひ取って。再び元の手に返さぬ大法にて候ほどに。え参らせ候まじ。
シテ「委細承り候。又我等が中にも 堅き大法の候。
ワキ「そのご法は候。
シテ「かやうに身を徒らになす者に行き逢ひ。若し助け得ねば。再び庵室へ帰らぬ法にて候程に。そなたの法をも破るまじ。又こなたの法をも破られ申すまじ。所詮この者と連れて奥陸奥の国へは下るとも。舟よりは下りまじく候。


「聊爾」は「りょうじ」と読み、「思慮が足りない行い」とか「失礼」という意味。どうもこの二人の会話は、少女を解放するかどうかの駆け引きとして読むべきですので、彼らが言い合う「大法」…つまり「私法」というのも、本当にそんなものが存在するのか、ぬえは疑問ですね。少女を返せないその理由としてワキが思いついた大法かもしれず、またシテも、大法だから勝手には破れない、というワキの論理を逆手にとって、自分の方にも大法があるから、と言って、ワキにとって困る行動を続けるわけです。

これを聞いたワキは逆上して、やっぱり暴力に訴えかけることになります。

ワキ「さやうに承り候はば拷訴致さう。
シテ「拷訴といつぱ捨身の行。
ワキ「命を取らう。
シテ「命を取るともふつつと下りまじい。
ワキ「何と命を取るともふつつと下りまじいと候や。
シテ「なかなかの事。


「拷訴」=「ごうそ」は罪人を責めつけること。痛めつける、と言えば「それは捨身の行(であるから望むところ)」と答えられ、ついに「命を取らう」という所まで言葉がエスカレート。それでもシテは舟より下りようとはしません。

このところ、それまで子方に寄り添っていた(その心で実際には立っているのが常の型ではありますが、実際に子方の後ろに下居していることも)シテは、「命を取るともふつつと下りまじい」と両手を打ち合わせてワキの前にどっかりと安座(あぐら)してしまいます。ワキの言葉によってかえって頑なになるシテ。それは先ほどの「大法」と同じように、ワキの言葉を逆手に取って、かえってワキが困る行動に出る、というのが、シテの一貫した姿勢のようです。

「命を取る」と言っても、かえって前よりもがんばって舟に居着いてしまったシテを見て、ワキも方針転換を余儀なくされます。

ワキ「とにかくこの自然居士にはつたと持て扱うて候よ。まずかう渡り候へ。
ワキツレ「心得申し候。


こうしてワキとワキツレは自然居士の処遇について相談をすることになります。ワキは「とにかくこの…」と謡いながらガラリと棹を捨て、ワキツレに声を掛けると、ワキツレも棹を捨てて、二人は舟から陸に上がった心で大小前に行きます。