2月11日(土)。この日の2つめの公演は、陸前階上(はしかみ)駅が最寄りの景勝地・岩井崎がある波路上(はじかみ)地区に建つ臨済宗のお寺、地福寺さんが会場です。
気仙沼の「うを座」さんから最初にここでの上演の話をメールで伺ったときは ぬえ、我が目を疑いました。なんせ6月からここは訪れていまして、津波被害の甚大さは目を覆うほどでした。気仙沼港、奥松島とここ波路上地区は壊滅状態で、市街地に近い気仙沼港以外は瓦礫の撤去もほとんど手つかずの状態(と言っても程度の差、でしかありませんでしたが。。)でした。正直、この地区でお寺が残っているとは にわかに信じがたいほど、それはめちゃくちゃで、まさに惨状と呼ぶべき状態だったのです。このときはその恐ろしい光景に写真を撮ることさえ忘れていました。。
ところが地福寺さんでの公演が決まってから調べてみると、ご住職の片山秀光さんは驚くことにものすごく多彩な活動をされているのですね。鎮魂のためのコンサートや大法要。そして弟さんであるプロのジャズ・ドラマーである(!)パイソン片山氏を作曲に迎えた被災地応援歌「あいことば」の作詞をしたり。ご自身も震災から命からがら生き延びて避難所で生活され、そこで大書して貼りだした言葉「めげない にげない くじけない」はこの応援歌のサビになっていますし、ご本人の活動の基盤となっておられる精神であるようです。
それでも地図を見て、どうしてもそこに活動や生活ができるほど傷の浅い建物があるとは思えない地区なんですよね。何度も現地を実見している ぬえには信じることはできませんでした。
で仮設住宅での公演のあと、それこそ 恐る恐る波路上地区に行くと。。なんとあれほど瓦礫の撤去が手つかずだったこの地区は、すっかり平地になっていました。
そうして、平地となった低地からほんの少し上がったところに地福寺は堂々と建っておりました。いまだ修復中とはいえ、まさに被害の程度は紙一重。そして冠水に限っていえばこのお寺でも1階のかなり高いところまで水に浸かり、多くの備品が流されてしまったのだそうです。
ご住職の片山秀光さんにお目にかかると、「ああ、本日はありがとうございます」とご丁寧に迎えてくださいました。が、「ええと、うを座の方は。。誰も? スタッフは何時に。。いない?? 二人だけですか??」と驚かれてしまいました。(^◇^;) ああ、やっぱり ぬえたちって慰問ボランティアとしては かなり異質なのね。
ご住職も「いったいコイツら、何をやるんだろう?」と、さぞや初対面でたった二人で現れた能楽師をいぶかしんでおられたと想像しますが、実際にはまだまだ修復中のお寺の中をあちこち工夫されて控室をご用意頂いたり、舞台と客席の配置、展示品(今回は面をたくさん持参して展示に供しておりました)の置き場所など、ご家族ともどもご一緒に立ち働いてお手伝い頂きました。ぬえとTさんもご本尊にご挨拶させて頂いたり、このへんからご住職も ぬえたちのことを理解してくださったように思います。
ご本尊のおわします内陣の隣の小部屋には遺影と位牌がぎっしり。。そうして参拝に訪れる方も何人かおいでになりました。と、お寺の方とご遺族のお話が自然に耳に入って参ります。「まあまあ、今日は月命日ですもんねえ。こうして毎月欠かさずにお出でになって。。」
「!!」
今度で5回目になる ぬえの被災地訪問。しかし、このときまで気がついていなかった事を白状しなければなりません。この日は震災のちょうど11ヶ月目のその日だったのです。これまでの訪問では11日という日に現地に滞在していることはありませんでした。たまたまその日にここにいた ぬえが、まさかお寺にいるとは。。そうしてこの波路上地区に津波が押し寄せた午後3時26分は、能の上演の30分前に当たるのでした。
急遽 Tさんと相談して、その時刻に合わせて ぬえたちもお手向けのために何かをしよう、ということになりました。
→地福寺サイト
気仙沼の「うを座」さんから最初にここでの上演の話をメールで伺ったときは ぬえ、我が目を疑いました。なんせ6月からここは訪れていまして、津波被害の甚大さは目を覆うほどでした。気仙沼港、奥松島とここ波路上地区は壊滅状態で、市街地に近い気仙沼港以外は瓦礫の撤去もほとんど手つかずの状態(と言っても程度の差、でしかありませんでしたが。。)でした。正直、この地区でお寺が残っているとは にわかに信じがたいほど、それはめちゃくちゃで、まさに惨状と呼ぶべき状態だったのです。このときはその恐ろしい光景に写真を撮ることさえ忘れていました。。
ところが地福寺さんでの公演が決まってから調べてみると、ご住職の片山秀光さんは驚くことにものすごく多彩な活動をされているのですね。鎮魂のためのコンサートや大法要。そして弟さんであるプロのジャズ・ドラマーである(!)パイソン片山氏を作曲に迎えた被災地応援歌「あいことば」の作詞をしたり。ご自身も震災から命からがら生き延びて避難所で生活され、そこで大書して貼りだした言葉「めげない にげない くじけない」はこの応援歌のサビになっていますし、ご本人の活動の基盤となっておられる精神であるようです。
それでも地図を見て、どうしてもそこに活動や生活ができるほど傷の浅い建物があるとは思えない地区なんですよね。何度も現地を実見している ぬえには信じることはできませんでした。
で仮設住宅での公演のあと、それこそ 恐る恐る波路上地区に行くと。。なんとあれほど瓦礫の撤去が手つかずだったこの地区は、すっかり平地になっていました。
そうして、平地となった低地からほんの少し上がったところに地福寺は堂々と建っておりました。いまだ修復中とはいえ、まさに被害の程度は紙一重。そして冠水に限っていえばこのお寺でも1階のかなり高いところまで水に浸かり、多くの備品が流されてしまったのだそうです。
ご住職の片山秀光さんにお目にかかると、「ああ、本日はありがとうございます」とご丁寧に迎えてくださいました。が、「ええと、うを座の方は。。誰も? スタッフは何時に。。いない?? 二人だけですか??」と驚かれてしまいました。(^◇^;) ああ、やっぱり ぬえたちって慰問ボランティアとしては かなり異質なのね。
ご住職も「いったいコイツら、何をやるんだろう?」と、さぞや初対面でたった二人で現れた能楽師をいぶかしんでおられたと想像しますが、実際にはまだまだ修復中のお寺の中をあちこち工夫されて控室をご用意頂いたり、舞台と客席の配置、展示品(今回は面をたくさん持参して展示に供しておりました)の置き場所など、ご家族ともどもご一緒に立ち働いてお手伝い頂きました。ぬえとTさんもご本尊にご挨拶させて頂いたり、このへんからご住職も ぬえたちのことを理解してくださったように思います。
ご本尊のおわします内陣の隣の小部屋には遺影と位牌がぎっしり。。そうして参拝に訪れる方も何人かおいでになりました。と、お寺の方とご遺族のお話が自然に耳に入って参ります。「まあまあ、今日は月命日ですもんねえ。こうして毎月欠かさずにお出でになって。。」
「!!」
今度で5回目になる ぬえの被災地訪問。しかし、このときまで気がついていなかった事を白状しなければなりません。この日は震災のちょうど11ヶ月目のその日だったのです。これまでの訪問では11日という日に現地に滞在していることはありませんでした。たまたまその日にここにいた ぬえが、まさかお寺にいるとは。。そうしてこの波路上地区に津波が押し寄せた午後3時26分は、能の上演の30分前に当たるのでした。
急遽 Tさんと相談して、その時刻に合わせて ぬえたちもお手向けのために何かをしよう、ということになりました。
→地福寺サイト