シテ「あゝ船頭殿の御顔の色こそ直つて候へ。
ワキ「いやいやちつとも直らず候。
…これだけの事なんですけどね~。居士がからかい、人商人が顔を赤らめて怒る、そんな図式なんだと思っていました。ところが何年か以前に拝見した『自然居士』のお舞台でワキの宝生閑師は「いやいやちつとも…」と軽く謡うことで、あっさりとシテの挑発をかわしておられました。「いやいや♪」という感じに ぬえには聞こえました。「ふん、その手には乗らないよ。これからじっくり嬲ってやるからな」という含みを ぬえは感じました。ほかの場面でも宝生閑師は ぬえが台本を読んで受けた印象とは ちょっと違った謡い方をされていましたが、これがまた、ぬえが読んだよりも 台本にずっと深みを与えていましたね~
さて「またこれなる船子の申し候は。居士は舞の上手の由申し候。舞を舞うて御見せ候へ」と言われた シテは、自分がなぶりものにされることを警戒して、ワキの言葉を否定します。
シテ「総じて居士は舞 舞うたる事はなく候。
がしかし、ワキはちゃんと証拠? を用意しています。
ワキ「あら偽りを仰せ候や。一年今のごとく。説法を御述べ候ひし時。いで聴衆の眠りを覚まさんと。高座にてのひと指し。奥までもその隠れなく候。ただ舞うて御見せ候へ。
ここまで言われた居士が答えた言葉がこれ。
シテ「おうそれは狂言綺語にて候程に。さやうの事も候べし。舞を舞ひ候はゞこの者を賜り候べきか。
ワキ「それはその時の仕儀によって参らせ候べし。
「舞を舞えばこの少女を返すと約束するか」…どう考えても身も蓋もない問いで、完全にワキに主導権を握られたやりとりです。
そのうえ、ワキはシテの舞の扮装まで指定します。すなわちシテに烏帽子を着せるわけですが、宗教者であるシテにとって、それは芸能者になりきって舞を見せる屈辱を受けることになります。ワキが仄聞したという居士の舞…説法の場に集まったけれども居眠りなどして集中できない聴衆を目覚めさせるために居士が見せた「狂言綺語」としての舞では、居士は烏帽子を着て舞ったわけではないでしょう。
「舞を舞うたることはなく候」と言ったのを「偽り」と喝破された居士は、「狂言綺語」であるから「さやうの事も候べし」と認めます。「狂言綺語」とは空想的な(=狂った)言葉や、飾り立てて偽った言葉の意味で、すなわち仏の戒律の「妄語戒」に反するものですが、ここで居士は『白氏文集』などに現れる、狂言綺語を転じて讃仏乗の因となすという思想を利用して、自分が舞を舞った事を正当化しようとしたものでしょう。
もとより目前に人生を捨ててしまおうとする少女を見て、たちまちにその救出に走るほどのアクティブな居士であれば、当然あり得るエピソード。禅僧の中には歴史的に座禅の床を離れて市井の人々に交わって説法唱道をした者があったそうで、さらに彼らの中には遊芸を以て仏道を説く者もあったそうです。自然居士もそうした説教者の一人なのかもしれません。
ワキ「いやいやちつとも直らず候。
…これだけの事なんですけどね~。居士がからかい、人商人が顔を赤らめて怒る、そんな図式なんだと思っていました。ところが何年か以前に拝見した『自然居士』のお舞台でワキの宝生閑師は「いやいやちつとも…」と軽く謡うことで、あっさりとシテの挑発をかわしておられました。「いやいや♪」という感じに ぬえには聞こえました。「ふん、その手には乗らないよ。これからじっくり嬲ってやるからな」という含みを ぬえは感じました。ほかの場面でも宝生閑師は ぬえが台本を読んで受けた印象とは ちょっと違った謡い方をされていましたが、これがまた、ぬえが読んだよりも 台本にずっと深みを与えていましたね~
さて「またこれなる船子の申し候は。居士は舞の上手の由申し候。舞を舞うて御見せ候へ」と言われた シテは、自分がなぶりものにされることを警戒して、ワキの言葉を否定します。
シテ「総じて居士は舞 舞うたる事はなく候。
がしかし、ワキはちゃんと証拠? を用意しています。
ワキ「あら偽りを仰せ候や。一年今のごとく。説法を御述べ候ひし時。いで聴衆の眠りを覚まさんと。高座にてのひと指し。奥までもその隠れなく候。ただ舞うて御見せ候へ。
ここまで言われた居士が答えた言葉がこれ。
シテ「おうそれは狂言綺語にて候程に。さやうの事も候べし。舞を舞ひ候はゞこの者を賜り候べきか。
ワキ「それはその時の仕儀によって参らせ候べし。
「舞を舞えばこの少女を返すと約束するか」…どう考えても身も蓋もない問いで、完全にワキに主導権を握られたやりとりです。
そのうえ、ワキはシテの舞の扮装まで指定します。すなわちシテに烏帽子を着せるわけですが、宗教者であるシテにとって、それは芸能者になりきって舞を見せる屈辱を受けることになります。ワキが仄聞したという居士の舞…説法の場に集まったけれども居眠りなどして集中できない聴衆を目覚めさせるために居士が見せた「狂言綺語」としての舞では、居士は烏帽子を着て舞ったわけではないでしょう。
「舞を舞うたることはなく候」と言ったのを「偽り」と喝破された居士は、「狂言綺語」であるから「さやうの事も候べし」と認めます。「狂言綺語」とは空想的な(=狂った)言葉や、飾り立てて偽った言葉の意味で、すなわち仏の戒律の「妄語戒」に反するものですが、ここで居士は『白氏文集』などに現れる、狂言綺語を転じて讃仏乗の因となすという思想を利用して、自分が舞を舞った事を正当化しようとしたものでしょう。
もとより目前に人生を捨ててしまおうとする少女を見て、たちまちにその救出に走るほどのアクティブな居士であれば、当然あり得るエピソード。禅僧の中には歴史的に座禅の床を離れて市井の人々に交わって説法唱道をした者があったそうで、さらに彼らの中には遊芸を以て仏道を説く者もあったそうです。自然居士もそうした説教者の一人なのかもしれません。