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光は、悪人の暮らす地獄へ射してこないのである。そこへ光が射して来る。うっすらとではあるが悪人が光に、遭う。そして光の源を思い遣るのである。手を合わせて、対極にいる仏陀を思い遣ってみるのである。
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光は、悪人の暮らす地獄へ射してこないのである。そこへ光が射して来る。うっすらとではあるが悪人が光に、遭う。そして光の源を思い遣るのである。手を合わせて、対極にいる仏陀を思い遣ってみるのである。
3
わたしに向かい合っていて下さる方がおられるのである。それを思うと忝(かたじけな)いのである。会えるべき相手ではないのである。そもそも極重悪人は深い深い地獄の底に沈んでいて、浮かぶことはないのである。
2
「極重の悪人にして我は唯(ただ)仏を称(とな)う」こうわたしは読んでみた。これはわたしの受け取りであって、正しい受け取りではない。
極重悪人と仏は両極端である。西と東である。それが相まみえ、照らし合う世界が宗教世界である。
1
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 親鸞聖人の「正信偈」より
ごくじゅうあくにん ゆいしょうぶつ がやくざいひ せっしゅうちゅう
6
里芋はいかにも原始時代、古生代の生き残りという面構えをしている。全真髭もじゃだ。ぶ厚い皮をつけている。どす黒い。子孫繁栄が上手だ。子芋に孫芋がぶら下がる。たいした生命力だ。それが、近現代の容赦ない地球温暖化に音を上げるのである。
これから冬に入る。今年は暖冬だそうだ。豪雪地帯は豪雪を免れていいだろうが、北極南極の氷が解け出している。ヒマラヤの氷河も流れ出している。
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朝の味噌汁の具になっていた里芋からこんなことを考えてしまった。だらだらだらとブログも流れ出してしまった。
5
凡そ、暑さを耐えられるだけの丁度いいくらいの日射しでなければならなかったのだ。今年の暑さは度を超していた。
「丁度いいくらい」に保たれてきたのだ、これまでは。格別、こちらから丁度いいくらいに保っていて下さいと頼んだわけではなかったが、そうなっていたのだ。
異常になると、恐い。里芋が立ち枯れる。人間の食べる食べ物である植物が枯れると人間も怪しくなる。そういう構図が浮かび上がる。
4
今年の里芋は成績不良だった。掘り上げてみても、新しい子芋は申し訳程度にしかついていなかった。この夏は酷暑だった。猛暑だった。里芋の葉っぱはでかい。そのでかい葉っぱに熱射を浴びて火傷状態だった。青い葉は枯れて黄色くなった。これでは光合成はできない。野生児の里芋が無抵抗を表明して白旗を揚げたのだから、いわんや文明人のニンゲン様は。いわんやよろよろの老爺様は。
3
芋は、我が家の畑で掘って来た芋だ。皮剥きをしたのは僕だ。家内は手が痒くなるから、この作業をボイコットする。僕は嫌がらない。むしろ楽しんで、する。どうしてそれが楽しいのか、肝心の僕にも分からないけど。ともかく、にこにこ顔でコツコツとする。野蛮人の僕の手はいっこうに痒くならない。野蛮人にも時には「よさ」がある。ふっふっふ、だ。
2
朝食は7時半に食べた。客人の出勤に合わせて早起き、早くテーブルに着いた。いしょに頂いた方がおいしいだろうと。ねばねばの納豆ご飯にして食べた。味噌汁の具は薄く切った里芋だった。やわらかく煮えていた。それに小葱を浮かばせてあった。蕪大根も少しだけ加えてあった。全体、淡泊な味でおいしかった。客人にも弁当が用意されていた。
1
雨は一晩降っていたようだ。しかも大雨だった。闇の外に雨音を響かせていた。夜中に何度も目が覚めた。午前9時。ようやく小止みになってきた。空はまだその鬱陶しさを重たくして垂れている。この分じゃ、今日は一日足止めだろう。それでいい。久しぶりにクレヨン水彩画でも描いてみようか。