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わたしは思量することが出来ぬ。阿弥陀仏の浄土とその浄土行きを思量することができる。できぬので、阿弥陀仏の方から思量が働きかけられる。
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わたしは思量することが出来ぬ。阿弥陀仏の浄土とその浄土行きを思量することができる。できぬので、阿弥陀仏の方から思量が働きかけられる。
1
非思量底の思量。ひしりょうていのしりょう。ここを今日は味わう。
*
非思量底のわたしの底に、思量が働いている。この思量は阿弥陀如来の仕掛けた思量である。
9
畑のブロッコリーに花が咲き出したらしい。食べられなくなる。そうなっていないのを収獲してしまおう。冷蔵庫で貯蔵しておけばいいだろう。暖冬のせいだろうか。野菜達がはやばやと己の一代を頂点に移動させている。そして子孫作りに熱を込めだしている。
己の隆盛を飾るための花なのか、それとも次世代を産み落とす手段としての開花なのか。そのどちらとものためなのか。はなやかな花の時へと急ぐ
8
不安が止まらない。なんだろう、この不安は。オセロゲームの黒の駒のよう。白の駒の安定と数を競っている。一つ色ではゲームが出来ないのか。
オセロゲームに興じるのは止めて、いっそ、外に出よう。じっとしているから、不安に苛まれるのだ。明るい光が降り注ぐ庭先に出れば、解決できるかもしれない。
7
ほほう。珍しい。庭の梅の木の小枝に小鳥が来て止まっている。鶯だ。鶯色の体をしているから、鶯だろう。梅の木が一輪狂い咲きをしている。それに目が眩(くら)んだのかもしれない。こちらの方をときどき見ている。一羽だけだ。仲間からはぐれたのだろうか。ま、しばらくしたらまた仲間たちの居る方へ戻って行くだろう。日射しが明るい。明るい日射しを鶯の羽根がしばらく此処で静かに受けている。風も吹いていない。鶯は鳴く気配もない。歌を覚えていないのだろう。
6
それからお野菜を収穫して娘の嫁ぎ先に送ろう。それから死んだ弟の、可愛い娘の嫁ぎ先にも送ろう。段ボール箱はスーパーからもらってきてある。大根、白菜、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、九条葱、フカネギ、小葱、ホウレン草、山東菜などなどを、午前中に畑から抜いて来て、洗っておく。午後になれば水気が切れて乾くだろう。箱詰めは家内の方がうまい。クロネコヤマトへはこの老爺が運んで行く。送り賃が高く付くけど、これはしようがない。
5
永代供養ということへの疑問。これはこの老爺の愚問。死者の供養を生者ができるのかという疑問。死者の幸福は仏陀の仕事ではないのか。仏陀の領域のことではないか。それは仏陀にお任せできることなのではないか。阿弥陀仏の救済がすでに完了しているのではないか。こちら側から供養回向をしなければ、死者が迷界で浮かばれないで居ると説く筋もあるが、それは儒教の親孝行の孝の考え方ではないのか。浄土門の教えだと、死者は成仏を果たして浄土にいて、仏としての救済活動に勤しんでいるはずだ。いつまでも供養される側に甘んじているはずがない。
4
今日はお天気がいい。お昼から野原の真ん中にある墓に、墓掃除に行く予定だ。雑草も生い茂っている。「お墓の掃除をする人もやがていなくなるだろうから、この際思い切って、墓なしにしたら」と妻が提案する。そうしてもいいと夫が答える。われらの集落の半分ほどは既にそうされている。お寺にお位牌を預かってもらっている。永代供養もしてもらう。それでいい。死んで冷たい墓石の中にはいない。物質の肉体は死んで滅んでも、非物質の永遠体は生きて明るい大空を高く飛んで舞っているはずだ。成仏を果たして仏としての活動に明け暮れているはずだ。
3
今日はいい日だ。年に一度の年間大賞に選んで頂けた。1席でも2席でも3席でもない、佳作にだけれど。いいじゃん。西日本新聞の読者は広域に及んでいる。詩の作品書く人も、当然、広域に及んでいる。そこでの年間賞佳作は奮闘ものじゃないか。老爺嬉しがる。若返る。いい作品を書きたい。自分自身をうなずかせる作品を書きたい。生きていることはそのままでうっとりできることだ。うっとりできる詩を書けば、ますますうっとりして生きていけることにもなる。
2
昨年から西日本新聞を購読し始めた。詩の投稿も始めた。読者の広場の声の欄の投稿も始めた。毎月購読料がかかる。負担増だから購読は止めようかと思っていた。やっぱり止めるかもしれない。
詩部門の発表はおおむね月の初めの第一月曜日。この日だけコンビニに新聞を買いに行けばいいかもしれない。読者の広場声の欄にも何度か我が投稿作品が掲載させてもらっていた。これは新聞社から報告が来る。親切だ。封筒には報告文と記事のコピーと図書券が入っている。これで掲載作品を見逃さずに済む。