夕方、およそ2時間余り、東京北区、板橋区を流れる石神川の両岸をサイクリングした。川の水量はわずかだが、外壁が高いので川底へは降りていけない。鬱蒼と茂る桜並木が続く。小鳥の声がしている。静かだ。東京にこんな静かな場所があるのかとしきりに感心した。こんなところにだったら住んでもいい。遊歩道・サイクリングロードはタイル張り。それほど広くはない。ところどころ、広いところにベンチが置いてある。小さいが公園ふうにもなっている。さまざまな草花も見受けられる。散歩をしている人、ジョギングをしている人、犬を連れている人、買い物帰り、通勤時らしい人、たたずむ人、学生さん、親子連れ、老若のカップルに擦れ違う。途中、谷津の大観音の像を見つけお参りした。帝京大学にぶつかった。仲宿の商店街も走ってみた。重たそうなモーター付き自転車の後ろに子供を乗せているたくましそうなご婦人を数多く見た。ハンドルのところの前籠には買い物した荷物を載せ、すいすいすいと走って行く。いやはや驚いた。
東京へ向かっている。新幹線は名古屋を過ぎた。もう飯も食った。駅弁幕の内960円を。500mlの缶ビールで喉を潤した。満席だ。3時前には目的地に着く。まだ2時間以上ある。トイレも我慢だ。出発するときには小雨が降っていたが、ここはからりと晴れ渡っている。隣に若い女性が座っている。こんに近くに女性がいたためしがないので、そわそわしている。老爺であることも棚上げして。華やかな花弁の春蜜の匂いがして窒息しそうだ。なんとまあ。なんとまあ。早く降りなくちゃ。
やれやれ。大玉西瓜苗が枯れてしまった。下手だなあ。何をしてもこうだ。ヘマをする。失敗する。得意満面が見せられない。満面が影になる。得意を維持できない。これじゃ西瓜は食べられないぞ。暑い盛りにもぎ取って来て、冷蔵庫で冷やして、がつがつむしゃぶりつこうかと思っていたのに。もう潰えてしまった。愛情のつもりだったのに、肥料の遣りすぎだったかもしれない。濃すぎていたのかもしれない。なんでもほどほどなのだ。
昼間は30度を超えていたのに、一転。この真夜の冷えはどうだ。午前3時。我慢ができなくて、立ち上がり長袖シャツに腕を通した。毛布にくるまる。障子戸を引き、外気をシャットアウトした。これでやっと凌げる。フフ、エッチな夢を見ていたぞ。まだ見ていたかった。現実では立ち入れないところへこうしてのそりと移住して来る。おりゃ、まっこと俗界の俗人だ。夢の中では本能が露わになって獣をしている。おれは獣だったんだ。人間そうなお面をふりかざしているが、霊の進化の深度がやたらと浅い。さて、夜明けまでには間がある。もう一度眠るとするか。よし、夢の自動操縦ができるなら、今度はもっとましな夢のハンドルを握っていたいな。神々の神域を高い空から見下ろす空中ショーの旅に出たい。
明日から東京。駅まで行って新幹線の切符往復を買って来た。指定席も取って不安がないようにした。伊勢志摩G7サミットがあっているもんね。混雑が予想される。
何が起こるか分からない。首都も厳重警戒中。うっかりするとこの野暮天さぶろうは拘束されてしまうかも知れない。人相違反、様相違反、行動不審、目的不定、あれこれの罪がある。これを問い糾されたら無罪主張がむずかしくなりそうだ。
そうじゃなくったって、日頃ぐうたらぐうたらして暮らしているさぶろうが、いきなり神妙になれるのかしらん? 終日人の中に交わって、公衆道徳に締め付けられて呼吸困難を起こさないといいが。束縛は嫌。自由がいい。我が儘をしているのがいい。
14時46分には目的地に到着する。さあて、田舎者が無事に行き着けるだろうか。着いた途端に帰郷心に捕まって胸を掻きむしられるかもしれない。予定では4泊もする。他所嫌いで通して来たこの男。決心をつけたまではよかったのだが。着飾った人間族、はては厳かな人間族に目眩を起こすかも知れない。月曜火曜は雨になるという予報もある。そうしたらどうすればいいのだ。
夏空が広がってきた。夏空にはツバメが似合う。ぴったり来る。相助け合っているかのようにも見える。ツバメが鳴いて渡る。くちゅくちゅうめちゅくちゅ、うちゅるくちゅるへちゅうるちゅうる。さぶろうには意味不鮮明だけど、きっと深い哲学を啓示して回っているのだ。これを夏空が聞いて、うっとりしているのだ。果てから果てまで深々と青まって行く。澄み渡っていく。
行ったり来たりしている。西の端へ行ったり東の端へ行ったり。北の果てから戻って来て今度は南の果てを目指したり。真っ逆さまに堕落したかと思うと今度は青空を目指して駆け上ろうとしたり。とにかく右往左往している。止め処がない。失望したり希望を抱いたり。悲しんだり喜んだり。こう一本スジというのがこの男には通っていない。
地球のようにくるりと自転しているのだ、きっと。それから太陽の周りを大きく公転しているのだ。太陽系だって銀河無限軌道を回っている。銀河系だってゆっくりゆっくりだが大宇宙を走り回っている。これが万物運動の法則なのだ。行ったり来たりするのが運動になるのだろう。などと開き直っても見せる。まったくしたたか者だ、この男。
もうしばらく。もうしばらく。兎にも角にももうしばらくでいいのだ。ごねてごねて、泣きを通して、悪ふざけが過ぎて我が儘の言い放題、し放題だった。
それももうしばらくでいい。ここまで来た。ここまで来たのに俎の鯉にはなっていない。まだばたばた跳ねている。何があってももういいはずなのだ。いい目を見てきたのである。なにしろここまでを無事に生き延びて来たのだ。懇望して生かされ、わめき散らして生かされ、受けるべき罰則を不問にされて、生かされて来たのだ。
まだ頼み事をしている。幸福が通せますように、怪我をしませんように、病気が酷くなりませんように、いつまでも死なないで済みますように、できるだけおいしいものが食べられますように、お酒が飲めますように。神さまに遇えば神さまにお頼みし、権現様、明王様、菩薩様、仏さまに遭えばまたまたお頼みごとをしている。欲張りが止まない。
1日に3食食べて1年で、3食x365日=1095食。これを70年積み増してきたので、1095食x70年=76650食。これだけの食糧を咀嚼してきたのに、己の胃袋はまだ飽き足りないらしい。周りにどれだけの代償を支払わせてきたことか。魚様、獣の肉さま、野菜さまのお命を喰って喰って来たのに、オレサマはまだそれでも生きたいと願っている。元気を通したいとおねだりしている。
もうしばらく。もうしばらく。もうしばらく。我が儘はいつまでも果てることがない。オレサマが100日を生き延びたら、だったら、どうなるというのだ? 何か利益があるのか。この地球に幾ばくかの利益が増すのか。この宇宙が進歩の速度を速めるとでもいうのか。傲慢な!
*
この問いをここで打ち切る。空しい。喉がからからに乾燥してしまった。這いずり回っても出口が見えない。もうしばらくこうしていよう。もうしばらくであることに間違いはないのだから。
病むことは辛いことだ、たしかに。でも、ここに至らないと<わたしは健康であった>ということが体得できない。それでもなおよろこびを引き出すことは難しい。それでも、というのは<せっかく病になってからでも>という意味だ。
つまり、健康であったということをよろこぶことが、鍵になるのだ。病を癒す鍵は、<それまで健康であった>ということをよろこぶことなのである。そうではないか。健康を維持してこれたからこそだったのではないか。病はそこにしばらく継ぎ足しされているいわば鉛筆の先のキャップなるものに過ぎないのだ。
感謝すべきことの上に成り立っているものなのだ、すべからく。その土台をさぶろうは忘却してしまっている。100分の99の秩序と調和と安定があったのに、それを当然として無視してしまっていて、そして100分の1ほどのアンバランスを歎いている。悲しんでいる。辛がっている。
老いるということもそうなのだ。死ぬということもそうなのだ。そこに至るまでの盤石の基盤があってのことだったのだ。ここまで十分に満足できていてよかったのに、それを素知らぬげに隅に追いやっておいたのだ。それでちっとも満足できていなかったのだ。そしてバランスが崩れた途端に一挙に不満だけを募らせているのだ。
健康を保って暮らしていたときも何食わぬ顔をして平然としていたのだから、今度だってそうしていたらいいいのだ。感謝すべきはずの感謝をしないでおいて、わずかばかりの不調に対して、いきなり不満だけを凝縮しないでもいいはずではないか。よろこぶべきをよろこべ、さぶろう。悲しみを悲しみとしないでいいのではないか、さぶろう。
2016年、5月26日、木曜日、天気予報では雨になっていたが、雨は降っていない。曇ったり照ったりしている。青い空が見えたり、隠れたりしている。でも吹いてくる風は涼しい。半袖シャツではひんやりとする。向日葵が咲いている。先ながら草丈を伸ばしている。白い蝶が青葉の上をひらひら舞っている。今日を喜べ。今日を喜べ。よろこぶべきことは無限にある。
小数点以下の悲しみをピンセットでつまみ上げないで、差し出されているよろこびの大海原を片っ端からよろこんでいけ、さぶろう。いまからでも遅くはない。
待つ人がいる。待っている。するとそこでたちまち感情が火をなして来る。その火に手をかざしてあたたまろうとするけれど、却って寒い。春の夜更けの嵐。嵐が来て煩悩を蹴散らしにかかる。高いネズミモチの木の梢がしきりに揺れている音。午前四時半になろうとしている。もう待たない。天女が降りてくることはない。