<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あなたがいなければさみしい

2016年05月26日 03時47分01秒 | Weblog

この道を行き来の人はあまたあれどきみしまさねばさみしかりけり    良寛禅師

あなた待っている。あなたが通りかかって来るのを待っている。春の日が暮れる。あなたではない人ばかりがこの道を辿って行く。それを見送って見送ってばかり。さみしい。さみしがっておられる禅師さま。人が声をかける。うつろな返事を返しながら、目は遠いところを見てあなたを探している。あなたの人影さえ捕らえられたらこの寂しさは掻き消えるものを。禅師は70を超えて恋をしておられる。やさしいおんなの人の仄かな影を追っていらっしゃる。さぶろうもさみしいところだけは似ている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グチる

2016年05月26日 03時20分37秒 | Weblog

午前3時を回った。目が覚めてしまった。右手の指の骨が溶けて行く痛みに耐えている。自己免疫不全のリューマチ。リューマチ科専門医のところで両手のレントゲンを撮ってもらった。それらしい影があった。東京から戻って来たら、治療が始まる。でも、無愛想な冷たい医者だった。あんまり行きたくないな。ただでさえ医者嫌いなのに。医者もサービス業。ちょっ。威張るばかりが能じゃないはずなんだけどな。処理すればいいってもんじゃあるまい。などとグチる。愚かな! 患者は不安。心配しいしい訪ねて行く。医者殿を神様ほどにも思って信頼するものだ。やだな。午前3時半をグチに浪費してしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死んだ者はもう死なない

2016年05月25日 16時55分12秒 | Weblog

死んだ者はもう死なない。生きている者にしか死はない。生きている者は死を恐れる。不安がる。死んだためしがないから死というものの実体が掴めないのだ。だが、死者はこれを掴めたことになる。「なあんだ、こんなものだったのか」とほっとしているのか、それとも「なるほど恐いものだった」「予想通り、あるいは予想以上に過酷なものだった」などと述懐する羽目になるのか。どっちにしたって死を体験し体得したのである。もうそこを通過したのである。暗いトンネルを抜けたのである。抜けたらもう未知数ではなくなっている。体験したのだから。少なくとも不安は消去されているはずだ。死者は目を輝かせるかもしれない。「死とはこんなものだったのか」ということが解明されたので、目がきらきらきらきら輝き出すに違いない。それから先にあるのはひたすらな生である。誕生である。これが次の関門になる。これも未知数にされているのなら、やはり生者の死と同じように不安がるものなのかもしれない。恐がるべきものなのかもしれない。いずれにしても、死者には死がないのだ。それを擲って軽くなっていられるのである。死の門を潜ってその先に出ているのである。死から生へ移る期間は案外短くて7日x7週間=49日とする説もある。これは単に準備に要する期間で、実際はもっと長いとする説もある。これも死んでみたら解明されることである。そしてこの解明はすべての人に訪れて来るのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真竹の筍を求めて来た 初物だ

2016年05月25日 16時33分48秒 | Weblog

JAの野菜販売所に真竹の筍が売ってあった。ほうと思って買って来た。大小7本入っていて480円だった。高いのか安いのかは分からなかった。今年初めてお見かけした。帰ってきてすぐに皮剥きをした。剥くのがどうも下手くそで、左右両方の親指の爪に柔らかい白い皮の屑のようなものが刺さってしまい傷めてしまった。そういえば父がうまかったな、と思った。昔、山麓の畑で農作業をした帰りに、真竹の竹林に入り込み、収穫物を藤の蔓で縛り、一抱えほども横抱きにして戻って来ていた。これを土間でさっそく皮剥きをした。さぶろうは包丁で切れ目を入れてから剥くが、父は筍のてっぺんの帽子の方をへし折ったみたいにして、くるくるくると器用に剥いていた。それがいとも素早かった。母が炒り子でこれを炊いてくれていた。それがとってもおいしかった。父も母もいまは居ない。代わって今日は家内が料理をしている。出汁は牛肉の細切れを使うようだ。これが初物になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さぞかし潤ったことであろう

2016年05月25日 06時59分29秒 | Weblog

雨。一晩ずっと降っていて、今朝もまだ降っている。洪水になるほどではなかったが、乾ききっていた土がさぞかし潤ったことだろう。健康増進した植物がいよいよもってわいわいがやがや。ひしめき合って活発におしゃべりしている。僕は、でも、外には出られない。閉じ籠もっていなくちゃならない。6時起床。ズッキーニがにょきにょき成育している。雌花をたくさんつけている。その数だけ実になる。いくらおいしいと言っても、毎日ズッキーニの天麩羅料理とはいかないだろう。油炒めもさっと簡単にできておいしい。近隣にもお分けしよう。西洋南瓜と胡瓜の合いの子なんてキライと仰る方もおられるかもしれないが。雨。人も動植物も、生命体は、おおよそが水から出来ているのだ。その水を提供してくれるのはこの雨なのである。恵まれた今日の一日、こころもしっとり潤っていよう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京はひさしぶりだな

2016年05月25日 00時43分20秒 | Weblog

おやすみなさい。もう明日になっています。そろそろ1時です。Yahooで路線を開き、東京往復の切符を取る準備にかかっていました。新幹線で王子駅まで7時間かかります。長いなあ。まあいいや。寝ている内に着くだろう。こちらを8時に発つ。途中で駅弁を買おう。おいしい駅弁を。ついでに缶ビールも。午後3時ごろには到着だ。乗り換えが3回。麻痺の足だから、走ったりはできない。余裕があるだろうか。ちょっと心配。東京にいる間に、八王子の高尾山山頂にある薬王院を訪ねてみたい。ケーブルカーは山頂まで連れては行かないようだ。降りて歩くとなると随分の時間がかかりそう。タクシーがあったら助かる。訪ねてみたい。ここは真言宗の一本山である。古刹だ。天狗で有名だとか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ズッキーニの天麩羅、こりゃ、ううっ、うめ

2016年05月24日 21時56分12秒 | Weblog

ズッキーニの天麩羅。こりゃ、うめえ。「うまい」や「おいしい」を通り越している。今日のは厚めに切ってあった。1・5cmくらいもあった。これを高温で揚げてあった。てひひひひ。畑のを収獲してすぐだものなあ、うめえはずだよ。あっつあっつで食べた。論より証拠。論が要らなかった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それがしかし宇宙の意思なのである

2016年05月24日 21時43分19秒 | Weblog

誤解が生じるかも知れない。

仏徳がわたしの身に満ちている、という受け取りは傲慢かもしれない。傲慢である。横着である。悪の権化のさぶろうにありうることではない。それがありえているのである。

仏にしか徳はない。功徳はない。しかし、その功徳がわたしの身に満ちているのである。

さぶろうに赤い血が流れているのは仏徳である。さぶろうが空気を吸うと生きていることが出来る、これも仏徳である。さぶろうが立っているところは大地である、これもさぶろうが授けられた仏徳である。それが全部、全部が全部満ちたので、さぶろうがここにいるのである。仏を念うことができているのである。

虫のよすぎる話なのである。阿弥陀仏の救済のただ取りは虫がよすぎるのである。横取りなのである。

それがしかし宇宙の意思なのである。わたしをこの宇宙の生命とされた宇宙の、意思なのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏徳が、いまだ仏でないわたしの身に満ちている

2016年05月24日 20時37分22秒 | Weblog

親鸞聖人の和讃の中に「不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てり」とある。

「仏徳が、いまだ仏でもないわたしの身に満ちているが、これを一つ一つ称えることも説き明かすことも思議することもできぬ」という述懐である。しかし、我が身に満ちて満ちて満ちているのである。

功徳は仏徳である。仏さまの徳である。これをそのまま念仏の行者に授けられるのである。それで、さぶろうが今日の一日を過ごせたのである。大空を美しいと見ることができたのである。五濁にまみれながら、悪世に居て悪をなしながら。これは本願のしかあらしめる力である。さぶろうは僧ではない。だから行者とは言えないかもしれない。でも仏は平等である。念仏を称える称えないには拘っておられない。みな導いておられる。守っておられる。仏の救済は平等である。どんな条件もつけてはおられない。だから、さぶろうがいながらにして五月の風を涼しいと思うことができたのである。だから、さぶろうは嬉しいのである。仏の功徳が我が身に満ちていたからである。

その和讃を挙げてみる。

五濁悪世の有情の/選択本願信ずれば/不可称不可説不可思議の/功徳は行者の身に満てり        浄土真宗経典中「五十六億和讃」より

ごじょくあくせの・うじょうの・せんじゃくほんがん・しんずれば・ふかしょう・ふかせつ・ふかしぎの・くどくは・ぎょうじゃの・みにみてり

これはさぶろうに言い聞かせるための解釈文です。曲解ですから、ご用心。みなさんはみなさんで読み取ってみてくださいね。

ここから後は蛇足です。字義を電子辞書を参考にして確かめます。

「五濁悪世」とは5つの濁りの現れた悪世。末法の末世。五つの濁りとは、1)劫濁。時代の汚辱。飢饉、悪疫、戦争に苦しめられる。2)衆生濁。身心が衰えてさまざまに苦しむこととなる。3)煩悩濁。愛欲が盛んで互を憎しみ争いが絶えなくなる。4)見濁。誤った思想・見解が氾濫してこれに汚される。5)命濁。寿命がしだいに短くなって行く。

「有情」は生存する者の意。サンスクリット語のサットバア。こころの働き・感情を持つ者。衆生に同じ。

「本願」は菩薩・如来が過去世に於いて建てた衆生救済の誓い。誓願。本誓。阿弥陀仏は四十八の誓願を建てられた。「選択」は「せんじゃく・せんちゃく」の読みがある。修行中の法蔵菩薩は四十八の誓願を選び取られたが、それを絞り込むと第十八願の一つになる。

「たとい我,仏を得たらんに,十方の衆生,至心に信楽 (しんぎょう) して我が国に生れんと欲し,乃至十念せん,若し生れずば正覚を取らじ」これが眼目とされる第十八願である。

「行者」は修行中の者。阿弥陀仏を信じてひたすらに仏道を歩む者。「功徳」は善行の果報。神仏の恵み。ご利益。

ほんとうは善行をしないさぶろうがもらえる功徳はない。功徳はすべて仏さまの功徳である。これを横取りしているのである。申し訳がない、そういう気持ちがいっぱいである。念仏は自力で称えることはできない。念仏は他力である。阿弥陀仏のおはからいである。称えさせられて称えているに過ぎない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨に濡れながらは快感

2016年05月24日 20時24分03秒 | Weblog

夕方、暗くなり際に雨が落ちてきた。作業を続けた。いい気持ちだ。雨に打たれながらは快感だった。といってもわずかな時間だった。すぐに本降りになったし、暗くなってしまった。とにかくよく働いた。夜明け早々の6時から外に出ていた。

今日は曇り日だったので、お昼ご飯の時間を除いてはほぼ野良仕事をしていた。ときおり涼しい風も吹いて来た。前日とは大違いだった。前日はあまりの暑さにばててしまった。一挙に食欲不振になった。食べ物が喉を通らなかった。昼からはしばらく寝て過ごした。今日はそういうことはなかった。食欲も回復して素麺を半把茹でてするする啜った。

夕食は、友人が釣ってきたキス(奥さんが散歩がてら届けて下さった)を天麩羅にしていただいた。白身の魚がおいしかった。ズッキーニ、黄色人参、大蒜、玉葱、蒲鉾もいっしょに天麩羅にしてもらった。みな我が家で収獲したものばかりだ。いきなり上がってしまった血糖値を気にしながらも、缶ビールの金麦を一缶飲んだ。どうなったっていい、ここで終わっても文句なし。だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする