親鸞聖人の和讃の中に「不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てり」とある。
「仏徳が、いまだ仏でもないわたしの身に満ちているが、これを一つ一つ称えることも説き明かすことも思議することもできぬ」という述懐である。しかし、我が身に満ちて満ちて満ちているのである。
功徳は仏徳である。仏さまの徳である。これをそのまま念仏の行者に授けられるのである。それで、さぶろうが今日の一日を過ごせたのである。大空を美しいと見ることができたのである。五濁にまみれながら、悪世に居て悪をなしながら。これは本願のしかあらしめる力である。さぶろうは僧ではない。だから行者とは言えないかもしれない。でも仏は平等である。念仏を称える称えないには拘っておられない。みな導いておられる。守っておられる。仏の救済は平等である。どんな条件もつけてはおられない。だから、さぶろうがいながらにして五月の風を涼しいと思うことができたのである。だから、さぶろうは嬉しいのである。仏の功徳が我が身に満ちていたからである。
*
その和讃を挙げてみる。
五濁悪世の有情の/選択本願信ずれば/不可称不可説不可思議の/功徳は行者の身に満てり 浄土真宗経典中「五十六億和讃」より
*
ごじょくあくせの・うじょうの・せんじゃくほんがん・しんずれば・ふかしょう・ふかせつ・ふかしぎの・くどくは・ぎょうじゃの・みにみてり
*
これはさぶろうに言い聞かせるための解釈文です。曲解ですから、ご用心。みなさんはみなさんで読み取ってみてくださいね。
*
ここから後は蛇足です。字義を電子辞書を参考にして確かめます。
「五濁悪世」とは5つの濁りの現れた悪世。末法の末世。五つの濁りとは、1)劫濁。時代の汚辱。飢饉、悪疫、戦争に苦しめられる。2)衆生濁。身心が衰えてさまざまに苦しむこととなる。3)煩悩濁。愛欲が盛んで互を憎しみ争いが絶えなくなる。4)見濁。誤った思想・見解が氾濫してこれに汚される。5)命濁。寿命がしだいに短くなって行く。
「有情」は生存する者の意。サンスクリット語のサットバア。こころの働き・感情を持つ者。衆生に同じ。
「本願」は菩薩・如来が過去世に於いて建てた衆生救済の誓い。誓願。本誓。阿弥陀仏は四十八の誓願を建てられた。「選択」は「せんじゃく・せんちゃく」の読みがある。修行中の法蔵菩薩は四十八の誓願を選び取られたが、それを絞り込むと第十八願の一つになる。
「たとい我,仏を得たらんに,十方の衆生,至心に信楽 (しんぎょう) して我が国に生れんと欲し,乃至十念せん,若し生れずば正覚を取らじ」これが眼目とされる第十八願である。
「行者」は修行中の者。阿弥陀仏を信じてひたすらに仏道を歩む者。「功徳」は善行の果報。神仏の恵み。ご利益。
*
ほんとうは善行をしないさぶろうがもらえる功徳はない。功徳はすべて仏さまの功徳である。これを横取りしているのである。申し訳がない、そういう気持ちがいっぱいである。念仏は自力で称えることはできない。念仏は他力である。阿弥陀仏のおはからいである。称えさせられて称えているに過ぎない。