国王さまの率いる宮廷内人(つまり、国リハ学院・手話通訳学科)出身ではないけれど、いちおう、日本手話を日本語にしてみました。
2007/03/19 「ハン尚宮(母)の手話語り」
主人から聞いた話を代わりに私が話しましょう。
山口からここに転居してしばらくのことです。
主人が○○駅(個人情報保護法に則り、路上生活者を特定しないように駅名を伏せてありますが、動画では手話でちゃんと表示してあります)に行くたびに駅前の橋上広場で路上生活者を何度か見かけました。
これを見た主人は不憫でたまりません。
ちょうど、山口から戴いたお土産に口が合わずに処分しようと思いましたが、
食品を粗末にすることはできずとしばらくは保管していました。
ちょうどプールに行く機会があり、お土産を持って行きました。
彼に直接手渡しをしてしまうと、顔を覚えられてしまい、出かけるたびに要求されるのはたまらないので、彼が下のロータリーにあるゴミ箱を漁っているのを見計らい、ぽいっと置かせてもらいました。
下から戻ってきた彼が袋の存在に気づき、中を開けると少しは喜んでいたのを遠くから見守り、ほっとしました。
終戦60年経とうとしていますが、主人の母が若かった頃の話。
家に物乞いらしき人が訪ねてきたのですが、主人の父が「働かざるものは出ていけーっ!帰れーっ!」と追い出してしまいました。その一部始終を見ていた母はどうすることもできなかった。
ある日、また同じ人が訪ねてきたとき、(自宅併設の)精米工場でこぼれ落ちたお米があったのは天の助け、父に気づかれないように差し出したのを主人が見ていたので、彼に少しは手助けしたい気持ちはあったのだろう。(赤字の部分は手話が出ていませんが、手話を母語とする方々だとその意味が汲み取れる)
棒のようなものでくさりと突き刺さる場面が出ましたが、これはおコメの詰まっている麻袋に先の尖った筒のようなものを刺さり、中身を取り出すもの。コーヒー党の方がこれを見たらピンと来たかも知れません。だって、コーヒー豆の入っている麻袋に先の尖った筒を刺し、中身を取り出すのが普通だもの(笑)
戦後まもなく路上生活者を見かけなくなりましたが、今でも見かけるのは戦前とは変わらないんだよね。
2007/03/12 「ドックおじさん(父)のお国自慢話」
第1場面(料理前)
「69歳にして790グラムが撮れたのは人生最大でした。8月中旬に二見夫婦岩あたりで獲れたものだったかな、殻にものすごい海草が付いているヤツなんだね。
お正月を前にごちそうを振る舞いま~す!」
第2場面(料理中)
「これは深さ2メートルで見つけたものだけど、すごい海草でカモフラージュしていました。このカモフラージュで他の人は見落としていたかも知れませんね~。でも、私はカモフラージュを少しでも見逃さなかった」
手話だと頭の中でわかっていても、日本語にするのは非常に難しい作業です。
手話通訳者の皆さんって、手話を見て頭の中で日本語に翻訳し、音声にするわけだけど、それは大変な作業だということを改めて知りました。
海外映画やドラマの日本語字幕化も手話通訳者の方々と同じように翻訳に苦労されていたかも知れませんね・・・。