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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-細野晴臣

2021-02-28 07:00:37 | MUSIC

 「細野晴臣」

 1947年7月9日生まれの73歳

 細野晴臣 “巻き込まれ型の50周年”記念インタビュー 2019.12.09
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 今年(2019年)はデビュー50周年。はっぴいえんど、YMOといった伝説のバンドのメンバーとして活動し、1980年代には松田聖子や中森明菜など歌謡界のトップアイドルに楽曲を提供。『万引き家族』など映画音楽も手掛け、小山田圭吾や星野源など後続からの熱いリスペクトも集める。長年一貫して音楽シーンに多大な影響を与え続ける希代の音楽家、細野晴臣。

 今回のアニバーサリーイヤーに際しては、セルフカバーアルバム『HOCHONO HOUSE』の発売、アメリカ公演や展覧会『細野観光1969-2019』があり、ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』が上映された東京国際映画祭ではレッドカーペットを歩いたり……。

 ファンにはお祭り騒ぎだが、ご本人は「巻き込まれ型の50周年」とあくまで淡々とほほ笑むばかり。どこまでもそのたたずまいは軽やかだ。そんな細野さんの、“いま”の音楽づくり、そして、ひょうひょうと自由に「いま」を旅する秘訣(ひけつ)をインタビューした。前後編に分けてお届けする。

 “巻き込まれ型”で迎えた50周年
 デビュー50周年記念のイベントなどが目白押しだ。ファンとしては非常にうれしいが、シャイなイメージもある人だけに、細野さんがこれだけ人前に出られることが続いているのは意外な気もする。

 「自分がいちばんびっくりしてます(笑)。最初は他人事のようなつもりだったんですけど。のんびり構えてたら、だんだん巻き込まれていって。巻き込まれ型の50周年ですね」

 “巻き込まれ型”。つまり、周りが細野さんを放っておかない、ということだろう。ともあれ結果的に、50年の軌跡を概観する機会の中で、過去のご自身と向き合う時間が続いたのではないか。

 「できれば向き合いたくないんですよ。僕は普段、鏡を見ずに暮らしていますから。それは比喩的な意味じゃなくて、実際に鏡を見るのが好きじゃない。自分の姿をいいと思ったことがないんで」

 本当ですか? と思わず返してしまった。今日もモノトーンのセットアップスーツにハンチング帽を合わせた独特のスタイル。いつも気負わず圧倒的におしゃれな細野さんである。

 

 自分に向き合いたくないという細野さんだが、音楽では、今年、1973年のファーストソロアルバム『HOSONO HOUSE』をリメイクしたアルバム『HOCHONO HOUSE』を発売している。セルフカバーの制作過程はどんなものだったのか。

 「『HOCHONO HOUSE』を気軽にやり始めたんだけど、だんだんその難しさがわかってきてね。自分の過去の作品と向き合うっていうツラい作業を、なんでやり始めちゃったんだろうって……(笑)。まずは後悔したんです。本当は過去の作品は過去のままで放っておくべきなんです。でも、なんか魔が差したというかね。『HOSONO HOUSE』は自分ではあまり聴かないアルバムなんですよ」

 とはいえ、『HOSONO HOUSE』は、今の若いリスナーにも、とても人気があるアルバムだ。

 「それをここ数年、だんだん知るようになって。若手のミュージシャンたちから言われることが多かったんです。『音が良い』とかね。『どこが良いんだろう?』とか思いつつ(笑)。自分ではわからないけど、みんなコレ好きなんだな、っていうことがわかってきたんで。じゃあちょっと……『からかいたいな』っていうか(笑)、『HOSONO HOUSE』が好きな人たちの反応を見たくて」

 人生、退屈しちゃうのが嫌
 細野晴臣の50年を見て改めて驚かされるのは、その大胆で柔軟な「変化」だ。「日本語ロック」を立ち上げた「はっぴいえんど」から、エキゾチックな音楽の桃源郷を探し求めたハリー細野の時代、テクノポップの旗手として国際的な活動を展開したYMOなどへと、長らく時代の先端で日本のポップ・ミュージックをリードしながら、音楽性と共にルックスまで変わっていく。

 そんな細野さんからはいつも「いま」の匂いがする。”変わらずに、変わり続ける”という柔軟な変化と一貫してブレない定点を両方持続していくコツはあるのだろうか。

 「大ヒットしないことですね」

 このひと言。思わず笑ってしまった。しかし1980年代には松田聖子や中森明菜など歌謡界のトップアイドルに提供し、大ヒットした楽曲はたくさんある。

 「曲はあるんですけど、個人のキャラクターがヒットすると、そこから抜けられなくなるんですよね。もちろん歌謡曲の歌手の皆さんは、一曲大ヒットすれば一生食べていけるっていうメリットはありますよ。ただその替わり、そのヒット曲をずーっと歌い続けなきゃいけないし、他のことが自由にできなくなるんですよね」

 ピークをあえて作らない、と。どこか心に留めているのだろうか。細野さんは「いや、作らないのではなく、作れない」と苦笑いした。でも細野さんがずーっと時代の中で気ままに横滑りしていく感覚というのは、僕らが追体験しても面白い。

 「たぶんね、アーカイブが進んだ今の時代だからこそ、僕の50年の活動なんかも俯瞰(ふかん)できるんです。自分の音楽的変化の様子を皆さんが一望できるし、自分でも見ることができる。そういう動きのおかげで、過去の活動や作品も楽しんでいただけるようになってきたのかなと。でも自分がその時代時代で一所懸命やっている最中はね、50年の全体像なんて当然まったくわからないですから。リアルタイムでは“細野さん、急に変わっちゃったね”とかいろんなこと言われてきました(笑)。全然違うように見えるフィールドに突然行っちゃうものですから、後をついてくる人があんまりいなかった」

 失礼な言い方をすると、興味や好奇心の赴くまま遊んでいる子供みたいな感じ。

 「全然失礼じゃないですよ。その通りです。僕の場合は自然にそうなっちゃうんですね。飽きちゃったことを続けるのが本当に好きじゃないんで。人生、退屈しちゃうのが嫌なんですよ。さすがにこの年齢(72歳)になると、別になにもしなくてもいいかなって、やっと思い始めたんですけど。若い頃は“退屈したくない”っていう気持ちが強かったし、実際好きなことが次から次へと出てきちゃう。基本的には今もそうなんですけどね」

 細野さんは、実生活でも引っ越しを繰り返すことでも知られる。都市に住みながら、旅人のようでもある。

 「生活していると、日々の生活の雑多なものはどうしても溜まっていきますよね。それがたまりすぎると、引っ越しのチャンス(笑)。でも、なかなか自由になりきれないのが悩みなんですよ」

 試みが新鮮なうちは面白いけれど、それが次の段階に移ったときにはもうつまらなく感じる。それが細野さんの「飽きる」ということだろうか。「心が躍るかどうか」に忠実になる、それが「いま」を渡り歩く秘訣(ひけつ)なのだろう。

 

細野晴臣 いまの音楽には何かが足りない感じがする 2019.12.11
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 今年、デビュー50周年を迎えた細野晴臣さんへのインタビュー。後編は、細野さんの音楽の聴き方や、自身のドキュメンタリー映画『NO SMOKING』で語っていた、今のバンドに欠けている“秘伝のタレ”について深掘りして聞いた。細野晴臣さんが思う、いまの音楽の面白いところ、足りないところとは?

 好きな音楽を聴く時は音質にこだわらない
 音楽の聴き方について――。例えばオーディオにこだわる人もいる中で、細野さんはどうなのだろうか。

 「場合によるんですけど、だいたい、その音楽が好きな場合は音質にこだわらないんですよね。例えば『あの曲、何だったかな?』とか気になったことはインターネットで検索して、そのままYouTubeで聴いちゃったりするんで。あとはiTunesとか」

 特に細野さんの世代で、パソコンから流れてくる音をこれだけポジティヴに捉えている音楽家は珍しいのではないか。

 「かもしれないですね。ひとつには、聴く立場と作る立場で違うんですよ、音に対する接し方が。作る時は大きなスピーカーをフルボリュームにして、良い音を作ろうという気持ちが強い。常に良い音を探している。

 ただリスナーとしては、良い音楽はちっちゃい音量で聴いても良いから。あるいは『つまんない曲だな』と思ってボリュームを上げて聴くと、『ああ、音は良いんだ』とかね(笑)」

 昔、評論家・コラムニストの植草甚一が安価で小さなレコードプレイヤーでジャズを聴いていたというエピソードを思い出す。

 「ああ、わかるなあ。僕自身、本当にそうやって一般の人々と同じように音楽を聴いてますからね。特殊な聴き方をしてるわけじゃなくて。オーディオマニアの人には憧れますよ。自分のリスニングルームを作って、理想的な音でレコードを聴くのは、なかなか贅沢な趣味ですよね。でも自分はやらない、というか、やれない(笑)。

 今はCDやレコードは専用の倉庫に入れてあるんですよ。自分のアーカイヴはいっぱいありますから、全部データ化して保管してあります。だからパソコンさえあれば大丈夫なんです」

 音楽ビジネスの変化でいうと、最近またアナログレコードの復権の動きもあるが、レコード、CDから、ダウンロードやストリーミング配信へ……特にここ10年くらいは劇的な変化が進んでいる。この流れを細野さんはどう見ているのだろうか?

 「僕はもともとレコードで育ったんで、アナログ再生の音は大好きなんですね。ちっちゃい頃はSP盤(1970年頃まで生産されていたシェラック素材の78回転レコード)でしたし。それでアナログからCDに変わった時にちょっと抵抗があったんですよ。『音があんまり良くないな』って。でもだんだん耳が慣れてきちゃって(笑)。『ま、いっか』みたいな。

 流れには逆らえない。こちらの耳も現在に至るまでの聴き方の層が重なっていくもので、“慣れ”も含めてリスナーとしての耳の感覚も勝手にアップデートされちゃうんでしょうね。善し悪しは別にして、ですけど」

 音楽も、二番煎じ、三番煎じはおいしくない
 「今の時代の音はすごく面白いなって思うんですよ。いろんな意味で変革期だなって。今までと違う音が聴こえてきたりするんです。“音像”が変わってきたってことですかね。

 ヘッドフォンで聴くと良く分かるんですけど、最初、その変化に気づいた頃は耳が取りつかれましたね。聴いたことのなかった音像の心地よさに、心が奪われるんですよ」

 細野さんは一時期、流行音楽の“音像”が変わってきたことに注目(注耳?)していたという。

 「例えばマイケル・ジャクソンの晩年の作品とかブリトニー・スピアーズの最盛期とか、あの頃から今までになかった音の表情が聴こえるようになってきて……。最近はもっと進化していて、例えばテイラー・スウィフトもすごい音がする。ちっちゃい音量で聴くとわりと普通のポップスなんだけど、実は音が複雑にデザインされているというか。

 一時、そういった音像の変化にすごく心を奪われていたんですけど……。ただね、しばらくするとちょっと飽きてきて(笑)。自分の興味はそんなに長くは続かなかったですね。

 もう一方では非常にパーソナルな音世界を作ってくる作家主義があってね。インターネット世代と言いますか、若い皆さんがそれぞれのやり方で良い音を作ってるんで、今はそちらに可能性を感じています。ただ僕自身の音作りと言えば……どっちつかず(笑)。どのスタンスで行くかは固定していないというか、まだ決めかねてる」

 メジャーな音とインディーな作家主義の音の両方に刺激を受けた細野さんの、その狭間にある何か鳴ったことがない音……。

 「そんな感じです。だから『HOCHONO HOUSE』の音作りに関しては、迷いながらやってたってところもありますね」

 思えば自身の半生と音楽活動を振り返ったドキュメンタリー映画『NO SMOKING』の中で「今のバンドには“何か”が欠けている。秘伝のタレのようなもの」という印象的な発言があった。その“何か”にはどんな思いが詰まっているのだろう。もうひと言付け加える言葉はないか聞いてみた。

 「う~ん、ひと言はないな……(笑)。足りない感じがするかな?っていう程度で。難しい。わからないですよ。僕はわりと衝動的なところが強いですからね。音楽を聴いて“これ良いな”って思う瞬間があるんですけど、それは分析じゃないんですよ。感覚なんです。匂いとか触覚とかと同じで、心が躍るとか、感情が揺さぶられるとか。非常にフィジカル(肉体的)な感覚。それが今の音楽にはちょっと足りないなっていう感じです。

 子供の頃はブギウギを聴いて、反射的に踊り出しちゃうってことがあったので。ロカビリーもロックンロールもそうでした。面白いポップ・ミュージックってみんなそうだったんで。理屈の前に気持ちやカラダが動くというか。それが当時の“新しさ”だったんですね」

 なるほど、この音像の問題は映像に似ているかもしれない。テクノロジーの進化に連れて映像の質はどんどん更新される。ただしCGIやVFXの発展と共に失われていくのは、まさに生身の肉体性だ。

 「ただヴァーチャル的な映画も素晴らしく成長する時はいろいろ発見があって面白い。そういう時期もあるでしょ? だけど最新の手法をみんなが使い出すと、何か平均化されて面白くなくなるっていう。音像も映像も、それが今の感じですよね。お茶と同じで二番煎じ、三番煎じはおいしくないんです」

 最後に、細野さんの音楽に影響を受けたと自ら語る“フォロワー”のアーティストたちの音楽を、細野さん自身はどのように聴いているのだろうか。

 「うーん……あんまり聴かない(笑)。というか、僕に影響を受けたと言ってくれる人の音楽を聴いても、『どこに自分の影響があるんだろう?』ってわからないことが多いんです。

 ただ最近、15歳のキーポン(KEEPON)君っていう子がね、いろいろ自分の音源を送ってきてくれて、それはびっくりしました。僕の曲のカヴァーを送ってきてくれて。『パーティー』と『終わりの季節』。オリジナルも面白いですね。それが非常にはっぴいえんど的だったり、大瀧詠一にそっくりの声だったり。僕が作るような曲だったりね。こんな子がいるんだなって、それは非常に面白かったですね」

 この音楽界の軽やかな巨人は、きっと今日も、そして明日も何かに夢中になったり、飽きたりして、退屈するヒマもなく時を重ねていくのだろう。細野さんの自由な旅はひたすら「今」を楽しみながらずっと続きそうだ。

 (取材・文=森直人 撮影=野呂美帆)

 細野晴臣(ほその・はるおみ)
 1947年東京生まれ。音楽家。1969年、エイプリル・フールのメンバーとしてデビュー。1970年、はっぴいえんど結成。73年にソロ活動を開始。同時にティン・パン・アレーとしても活動。78年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。また歌謡界での楽曲提供を手掛け、プロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散会後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探究、作曲・プロデュース、映画音楽など多岐に渡り活動。2019年にデビュー50周年を迎え、3月にファーストソロアルバム『HOSONO HOUSE』を新構築した『HOCHONO HOUSE』をリリースし、6月にアメリカ公演、10月4日から東京・六本木ヒルズ東京シティビューにて展覧会『細野観光1969-2019』を開催。自身の半生と音楽活動を振り返ったドキュメンタリー映画『NO SMOKING』が公開中。

*https://www.asahi.com/and_M/20191209/7696736/ より

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<日本酒> 栃木 澤姫/井上清吉商店

2021-02-28 06:50:28 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 澤姫/井上清吉商店

 

 澤姫のふるさと 「白澤宿」
 奥州街道の宿場町・白澤宿は、古来より生活用水・農業用水として活用されてきた水路が街中を巡り、今も水車が廻る水の街として知られ、宇都宮市の景観形成重点地区として指定されている。その中心地に位置する当蔵・井上清吉商店は、その肥沃な土壌と豊かな水資源を活かし、地域に根差した日本酒造りを営んでおります。

 銘柄の由来
 「地域に愛される酒を造りたい」という願いから、地元の地名・白澤から「澤」の字を譲り受け、そこに愛される象徴である「姫」の字を合わせ「澤姫(さわひめ)」と命名したとされています。商号である「井上清吉商店」は2代目当主の名から。そして「下野」とは我々の愛する地元・栃木県の旧称。古来より「名は体を表す」との諺がありますように、「澤」という字の持つ清冽で爽やかなイメージと、「姫」という字の持つ優しく優雅なイメージが共存するような美酒造りを追及しています。

 澤姫のこだわり
 コンセプトは「真・地酒宣言」!!
 澤姫は普通酒から大吟醸・鑑評会出品酒まで、全製品の原料米に栃木県産米を100%使用しており、とことんまで地元・栃木県産素材にこだわります!
 全国に目を向ければ、兵庫県産「山田錦」や岡山県産「雄町」など、素晴らしい酒造好適米が存在し流通しているのは百も承知ですし、それらの優良品種の育種に関わられた先進県の技師の方々や、その品種を用いた王道的酒造法を編み出した先人たちには畏敬の念を抱いてやみません。

 だからこそ、我々は地元産米のみを用い、伝統の技術に革新というスパイスを加えながら、誇りをもって王道に挑み続ける酒蔵でありたいと考えています。いや、決して反骨精神ではありません。アンチテーゼでもないんです。栃木に生まれ育った酒造家としての必然的な宿命であり、本当にごく自然な挑戦であると感じています。

 仮に我々の酒造りがある一定の評価をされたとすれば、当然用いている原料にもスポットが当てられます。県内外からの酒米の受注が増加することで栃木県産酒造好適米の需要と生産量が伸びれば、地元農業への貢献ができるかもしれません。我々の蔵の周りの田んぼが酒造好適米になれば、当然我々にもメリットはあります。酒処のイメージが増し、酒蔵自体が観光資源として地域貢献なんていうのもいつかはできるかもしれません。何と言いますか…まあ夢を語ればキリがありませんが、地域資源にとことんまでこだわることで、我々の酒造りが名実ともに地元に笑顔を生み出す源になるんじゃないかなってのを、我々は大真面目に考えている次第です。そして、それこそが我々の信じる製造コンセプト「真・地酒宣言」の基本指針であり、我々を様々な挑戦に駆り立てるエネルギーの源なのです。

 ・・・とは申し上げましたが、基本的に我々は奇抜な酒造りを追い求めているわけではありません。
 杜氏をはじめとした蔵人は若手職人が中心ではありますが、伝統を重んじ、日本文化の担い手として、後世に残せる酒造りを常に追い求めています。決して器用な蔵人ばかりではありませんし、斬新な設備があるわけでもありません。だからこそ、我々にできる精一杯を、愛する地元産素材の持つ潜在能力を引き出すという一点に注いでいる次第です。日本中の名だたる酒米を使いこなすことはできなくても、地元・栃木の厳選素材だけは世界中の誰よりも上手に使いこなせる、無骨ではあれ実直な積み重ねを活かす、そんなスタイル・社風でありたいと考えています。皆様に美味しいと喜んで頂ける美酒造り。そして新・地酒王国とちぎ確立へ。澤姫の挑戦は日々続いています。

 ◆こだわりのポイント◆
 古きを訪ねて新しい知見を得るという意味の「温故知新」という言葉がありますが、澤姫では古来伝統の天然醸造法である「生酛(きもと)造り」と「山廃造り」にも同時に取り組んでいます。目指す酒質は必ずしも昔ながらの重厚なタイプではありませんが、失敗を恐れず古き技術を積極的に実践することで、いわば「澤姫スタイル」の復活醸造酒が近年確立しつつあります。また、近年では超濃醇酒質である「試験醸造純米酒 GOLD」のような新しいタイプの日本酒も発表し、国内外から大きな評価を得ています。これからも澤姫蔵人達の挑戦にどうぞご期待ください!

 

 澤姫は、「後味の軽さ」にこだわります!
 日本酒は、食べ合わせによっては一緒に楽しむお料理の旨味を格段に膨らますことができる「究極の食中酒」であることが知られています。私どもの作品「澤姫」も、ご家庭やレストラン・酒宴の場で食卓に彩りを加える食中酒でありたいと考えています。過去のワインブームの影響もあり、食中酒の条件として「酸味」が注目されていますが、かつて日本酒業界では過ぎた酸味をタブー化していた時期もありましたので、現在のこの風潮には酒造家として純粋に楽しさ、そして喜びを感じています。表現の幅が広くなり、様々なタイプのお酒の提案が可能になりました。

 私どもは決してトレンドを追いかけているわけはありませんが、長いスパンで考えると、全国的に日本酒の味わいはライフスタイルの変遷に伴い、時代と共に常に変化していると言っても過言ではありません。かつて隆盛を極めた淡麗辛口スタイルから濃厚芳醇型にシフトし、近年は甘口傾向が顕著になり始めているのも感じています。旨味や香り、甘さ辛さなど、何かしらの極端かつ強烈なストロングポイントを持つニューウェーブ系の日本酒も目立つようになりました。

 例え話になりますが、現在の斬新なインパクトを持つG系ラーメンブームの中で、「古き良き昔ながらの中華そば」という古典王道的スタイルを売りにして、毎日長い行列を作っている話題の名店の主人に繁盛の秘訣を尋ねたところ、「スープや具材の見直し、追加の努力を見えない所で毎日怠らないことだ。」との答えがあったと聞いたことがあります。つまり常に更新するレシピでありながら、オールドスタイルという不変カテゴリーの作品を時代に合わせて作り上げていたということです。目からウロコ、とはこの事だなと思った瞬間でした。考えてみれば当たり前ですよね。戦前のように屑野菜とダシガラだけから取ったスープで、現代のラーメンファンの舌を魅了させることができるわけありませんから。

 さて閑話休題。「澤姫のお酒は甘口ですか?辛口ですか?」という質問をお客様から非常に多く頂きます。香り華やかで口当たりソフトな甘口タイプに仕上げている純米大吟醸酒や、爽やかな香味でキレの良い辛口タイプに仕上げている純米吟醸酒など、澤姫でもジャンルによって様々なタイプをご用意させて頂いております。淡麗、濃醇にしても、香りの高さ・要素にしても然り。同じタイプの味はひとつとして存在しません。製品個別の味わいについては、各種製品のご案内ページをご覧ください。しかしながら、前述の例のように澤姫にもブランドとしての共通不変のカテゴリーがあります。それは「後味の軽さ」。我々が大切にこだわり続けている澤姫の「個性」です。

 余韻が長いタイプのお酒も時には魅力ですが、万能的な食中酒であるためには、ある程度お料理の味わいを膨らませたところで、潔くスッと消える後味の軽さが重要ではないかと我々は考えています。そして、「もうひと口お料理を食べたい!」、「もうひと口お酒を呑みたい!」と思わせるお酒。決して飲み飽きせず、杯を重ねるごとに魅力が高まる。そんなお酒が食中酒として最高であり、それこそが「澤姫」の理想形なのです。

 ◆こだわりのポイント◆
 後味の軽さを生み出すポイントは、その蔵の水質や環境などによる蔵グセも含めて多くの要素がありますが、我々澤姫蔵人が最も意識しているポイントは「菌糸の繁殖量に関わらず、使用時に硬く締まった清潔な米麹を造る」ことにあります。そのため、澤姫の米麹を造る麹室(こうじむろ)は湿度が極端に少ない超乾燥環境にしています。

 株式会社 井上清吉商店 栃木県宇都宮市白沢町1901-1

 ブランド一覧

 「澤姫」大吟醸 真 地酒宣言-「ひとごこち」使用・吟醸酒 真・地酒宣言・大吟醸
平成30年全国新酒鑑評会 金賞受賞酒 など

 

 「ひとごこち」とは、

 長野県農事試験場にて、信交酒437号と信交444号を交配させ誕生した酒米が「ひとごこち」です。ひとごこちは、美山錦よりも米粒のサイズが大きいこと、心白の発現がはっきりしていること、そして、栽培及び生産性に優れていることから非常に酒造適性が高く、たとえ50%まで搗精したとしても、美山錦よりも淡麗かつ幅のある清酒に仕上げることが出来るという特徴を有しています。そのため、ひとごこちを使用している蔵元によってはひとごこちを「新美山錦」という名でラベルに表記している場合があります。
 長野県オリジナルの酒造好適米ですが、現在では山梨県や栃木県などでも栽培が行われています。

*関東地方の酒造好適米② より

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 65.  岩出山凍り豆腐

2021-02-28 06:32:47 | 食品

 登録番号 第65号 岩出山凍り豆腐
 
 特定農林水産物等の区分 第16類 豆類調整品類 凍豆腐

 特定農林水産物等の生産地 宮城県大崎市岩出山
 
 登録生産者団体 新みやぎ農業協同組合
 
 特定農林水産物等の特性 色が白く肌理が整っており、弾力に富んだ硬めの歯触りと滑らかな舌触りを有している。独自の製法により雑味が少なく、大豆の風味が豊かで、煮崩れせずに形が整ったまま出汁がよく染み込む。郷土料理に欠かせない伝統的な具材として重宝されている。

 地域との結び付き 生産地は奥羽山脈の東側にあり、乾いた厳しい寒さにさらされるが、周囲の町に比べて雪が少なく、風もそれほど強くないことから、湿気や強風を嫌う凍り豆腐造りに適している。明治期の記録にも残る地域の伝統産業(最盛期:昭和35年に86戸)。現在、5戸の生産者により、年間およそ10万袋(20枚入り換算)を生産。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i65.html より

 

 「岩出山凍り豆腐」は、弾力に富んだ硬めの歯触りと滑らかな舌触りをもった凍り豆腐です。
 地域独自の製法により、雑味が少なく、大豆の風味が豊かで、色が白くキメが整っていることが特徴です。
 煮崩れせずに形が整ったまま出汁がよく染み込むことから、地域では、郷土料理に欠かせない伝統的な具材として重宝されるとともに、その品質が高く評価され、市場での商品価格は一般の凍り豆腐に比べて2倍以上となっています。

 「岩出山凍り豆腐」は、先ず、ニガリと宮城県産大豆のみを原料として豆腐を作ります。出来上がった豆腐を5cm平方の形に切りそろえ、約-3℃の冷凍庫内で15日程度熟成させます。
 次に、一度水にさらして解凍し、水分をしぼり、アクや雑味をぬいた後、冷凍庫で2回目の凍結を行います。
 その後、戸外又は乾燥庫で乾燥を行います。
 出来上がった製品は、目視で外観を確認し、形状が不良なものを取り除いた後、金属探知機で異物混入の有無を確認します。
 以上の生産工程を、生産地内で行います。

 「岩出山凍り豆腐」の生産地は、奥羽山脈(1)の東側に位置し、乾いた厳しい寒さにさらされる地域ですが、周囲に比べて雪が少なく風もそれほど強くないことから、湿気や強風を嫌う凍り豆腐造りに適しています。
 「岩出山凍り豆腐」の生産は、明治期(2)の記録にも残る地域の伝統産業として位置づけられ、1960年の最盛期には86戸の生産者がいました。現在は5戸の生産者に留まりますが、当時の製法が受け継がれ、年間約10万袋の生産が維持されています。
 地域では郷土料理を始め、おでん(3)や鍋の具材として重宝されるほか、特に正月の仙台雑煮(4)(5)には欠かせない食材として利用されています。

 (1)奥羽山脈:日本の東北地方の中央部を縦断する日本最長(およそ500km)の山脈です。青森県から、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、栃木県に至ります。
 (2)明治期:1868年~1912年。日本の時代区分の一つ。日本が幕府による封建制から近代化に移行した時代です。
 (3)おでん:一般家庭や飲食店で作られる日本の代表的な鍋料理のひとつ。豆腐、がんもどき、こんにゃく、はんぺん、イモ、ダイコンなどの具材を、醤油や味噌で煮込んだもので、地域によりさまざまな作り方があります。
 (4)雑煮:餅に数種の野菜、鶏肉、魚介類、魚肉練製品、豆製品などを加えて煮た汁物の料理です。日本では正月三ヵ日(1月1日から3日)に食べて新年を祝う習慣があります。
 (5)仙台雑煮:ハゼの焼き干しをダシに使った仙台地域の雑煮です。千切りにした大根、人参、ごぼう(No.40「美東ごぼう」参照)を具材に醤油で味付けをします。最後にだしをとった焼きハゼを飾るのも特徴的です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/65.html より

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<漢字検定> 1級 読み 3.回答 4.出題

2021-02-28 06:30:50 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 咫尺-しせき-
 1 距離が非常に近いこと。

 2 貴人の前近くに出て拝謁すること。

 

 問2 稼穡- かしょく-穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。 

 


 問3 刈穫- がいかく- 穀物をかりとる。

 


 問4 浅葱-あさぎ-

 1 緑がかった薄い藍色 (あいいろ) 。

 2 《着用する袍 (ほう) の色が浅葱であるところから》六位の人の称。

 また

 -糸=葱-あさつき
 1 ユリ科の多年草。地下茎はラッキョウに似る。葉は淡緑色の筒状でネギに似る。食用として栽培。せんぼんわけぎ。せんぶき。

 2 葉ネギを若いうちに収穫したもの。小葱。  

 


 問5 仇讐-きゅうしゅう-あだ。かたき。仇敵。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 煢然  

 

 問2 飛礫  

 

 問3 関雎  

 

 問4 顧眄  

 

 問5 臚列

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・学研漢和大字典 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 東京手描友禅

2021-02-28 06:19:32 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「東京手描友禅」

 東京手描友禅(東京友禅・江戸友禅)の由来
 友禅染は、江戸時代の貞享(じょうきょう)年間(1684-1688)に京都の扇面絵師であった宮崎友禅斎(日置清親_ひおききよちか)により創始されたと伝えられています。

 扇面絵師として名を知られていた友禅斎が呉服屋の依頼により、小袖に小紋模様の多彩色の図案を描いたのが評判となり、友禅模様として脚光を浴びることとなりました。

 徳川家康が江戸幕府を開設したこと(1603年)を契機に大名家の参勤交代制度に伴って、絵師や染師も他の職人達と同様に京から江戸に移り住むようになりました。京のみならず各地方の各種技術・技法の交流がはじまり伝承され、江戸特有の文化にも育まれて、より洗練されたものづくりがされるようになりました。染物には水資源が欠かすことのできない重要な要素となり、このため隅田川や神田川の河川流域には多くの染師や職人が住んでいました。

 延宝元年(1673年)に日本橋に越後屋呉服店(現在の日本橋・三越)が開設されて、近年には、その染工場が神田川上流域の高田馬場付近に造られ、多くの染師や染物関連の職種に携わる人達が移り住むようになりました。

 特に関東大震災や第二次世界大戦を契機に東京の地場産業として、目覚ましい発展を遂げて来ました。その中にあって東京手描友禅は構想・図案・下絵・糸目糊置き・友禅の色挿し・仕上げまでの工程がほぼ作者の一貫作業となっており、華やかさを抑えて単彩のなかにも秘められた美しさと溢れる気品は、江戸の粋を現代に伝えています。

*https://tokyotegakiyuzen.or.jp/yurai より

*https://kougeihin.jp/craft/0202/ より

 江戸っ子の反骨精神を表していた、江戸友禅
 「昭和も早い頃までは、川で友禅流しをする光景が見られたんですよ。今はもう、古き良き時代の遠い記憶になってしまったけれどね……」
物心ついたときから絵を描くことが好きで、おもちゃのかわりに白い紙ばかりほしがっていた、という安達雅一さん。神田で染色工芸を創業した父に触発され、大学を卒業するとすぐ友禅染めの技法の手ほどきを受けた。
 京友禅が多色多彩できらびやかであるのに比べ、江戸友禅は渋くて地味である。江戸の町で友禅が町民の間に広く行き渡ったのは文化文政(1804~30)の頃。武士が凋落して商人が台頭し、江戸の文化は爛熟期を迎えていた。幕府は階級ごとに食事や着物などについて厳しい規制を敷き、とくに町人には華美な服装を禁じたのだ。町人たちは表向きはお触れに従ったかのように、無難で地味な縞模様などの着物をまとった。
 「ところが、吉原へ遊びに行くときなど、羽織りの裏をひょいと返せば華やかな金銀をあしらった生地がお目見えする。きっかけは権力に対する反骨精神だったものが、ふだんは隠れていて見えないところにこそお洒落をする、江戸っ子の粋に通じていったんだねえ」


 後継者育成のため心動かされるものを着物に写しとっていく
 爾来200年。今、東京の友禅は、多分に現代絵画の発想に近づいている。そもそもは「何を描くか」がテーマだったが、現代では「いかに描くか」に焦点が当てられるのだ。図案は花鳥風月であっても、単なる写実に終わるだけではない。自分ならではの花や鳥を表現するため、目に見えない発想の部分を重視し、着物自体に物語性をもたせるのだという。
 「もちろん、写実という基本的な技術をなおざりにしてはいけません。私自身、デッサンの練習は今でも欠かさないしね。向島の百花園、本郷の後楽園、六義園、皇居の東御苑なんかに、よくスケッチしに出かけていきますよ。」
技術の上に何を積み重ねていくか。それは、職人個人個人の感性と発想力の豊かさにかかっている。安達さんは、どこへ行くにも常にアンテナを張り巡らせているという。
 「麗しいもの、哀れを誘うもの……その瞬間瞬間でたくさん感じるものがある。たとえば、京都からの帰り道、ふと目に止まった黄昏時の近江富士、どんな名所旧跡よりも心に響いてきたね。そんなふうに心動かされるものを、着物に写しとっていきたいんですよ。」


 伝えるためには、変わっていくことも必要
 安達さんには、友禅を通して世の中に語りかけたいことがある。もはや右肩上がりの経済成長はありえない、ゼロ成長の時代をどう生きるか――。
「本物の技術でつくられたいいものを大切にして、あなた一人の代で終わらせず、子供さんやお孫さんに手渡すことを考えてほしい。ものと一緒に価値観をも次の世代へ伝えていく。それが本当に豊かだということなんじゃないでしょうか。」
そのためには、伝統工芸も変わっていかねばならないというのが安達さんの持論だ。伝統の技法を用いながらも、新しい時代の感覚に添うよう自己改革すべきではないか、と。ときには、既製の概念をいったん壊すことも必要になるだろう。発想の豊かさを強調する安達さんの創造力は、とどまるところを知らない。何と今、縄文にハマっているという。
 「縄文文化に触れていると、肌で土の匂いを感じて胸が高鳴りますね。デザインソースは1万年前のものだけれども、友禅という作品として高めるときは私独自の表現でなければならない。一度壊して再びつくり上げていく、それは心踊る仕事ですよ。」
かつて京から江戸へと伝わったとき、友禅は土地の気風に合わせ融通無碍(ゆうずうむげ)に変化していった。今また、時代は大きな変わり目を迎えている。どうやら東京の友禅には、時空を軽々と飛び超える翼があるらしい。友禅を愛したゆまぬ創造を続ける人、その物語に引き込まれ袖を通したいと願う人の対話が途切れぬ限り、東京手描友禅は再生を繰り返しつつ後の世まで伝わっていくことだろう。

 一筆一筆、丹念に色を挿していく。

 安達さん独特の「うつし糊絵」技法。糊と染料を混ぜ合わせたものを糊筒に入れ、乾いては挿し乾いては挿しを繰り返す。友禅では重ね挿しは色が濁るから邪道とされていたが、あえて伝統の禁忌(タブー)に挑戦した

 職人プロフィール

 安達雅一

 1935年生まれ。
 父とともに完成させた「うつし糊絵」は、従来の友禅の既成概念を打破する画期的な技法。友禅染だけでなく、染屏風の分野でも活躍。

*https://kougeihin.jp/craft/0202/ より

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