いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-タモリ

2021-02-12 09:01:19 | MUSIC

 「タモリ」

  1945年8月22日生まれの75歳

 保険外交員→ボウリング場支配人→喫茶店マスターという経歴を持つ。

 福岡で偶然に「山下洋輔」に見初められ、東京に連れてこられる。

 名司会者となるが、元々音楽好き。学生時代のバンド時代、ラジオ番組で司会の大橋巨泉に才能を認められている。

 

ミュージシャンタモリの軌跡(再録)Yuji TANAKA 2017/03/25 21:20
 今でもたまにテレビで、余芸のトランペットを披露するタモリの姿を観ることはあるだろう。元々タモリがミュージシャンを目指していたのは知られるところ。早稲田大学在学中、多くのプロを輩出したモダンジャズ研究会に所属していた。同期には渡辺貞夫バンドを経てニューヨークに渡り、ソニー・ロリンズ・バンドのメンバーとなるギタリストの増尾好秋も。念願のトランペット担当になるも、「マイルスのラッパは泣いてるが、お前のラッパは笑ってる」と酷評され、わずか3日でクビに。マネージャー兼司会者に転向させられたが、ラジオ番組での司会ぶりを大橋巨泉に絶賛されるなど、素人時代から学生ジャズの世界では知る人ぞ知る存在だった。
 山下洋輔との関わりは、別ページで触れられるだろうから簡単に。福岡で渡辺貞夫コンサートの打ち上げに乱入してきた男を「きっとジャズ好きに違いない」と見抜いた山下が、博多のジャズバーを探し回って消息をつかむあたり、常にジャズがスタッフと取り持つ縁になっている。そもそも、森田の名字をひっくり返した「タモリ」の芸名からして、モダンジャズを「ダンモ」、銀座を「ザギン」と呼ぶ、ジャズのギョーカイ用語に由来する。オーディオ通でジャズレコードのコレクターとしても知られ、植草甚一が亡くなったときの遺品だったモダンジャズのコレクション4000枚を譲り受けた人物としても有名だ。
 『オールナイトニッポン』時代はフュージョンに傾倒。番組でもシャカタクやメゾフォルテなどをプッシュしていた。『ラジカル・ヒステリー・ツアー』発売時には、日本のフュージョンの雄、ザ・スクエアをバックに従えてツアーを敢行。ここでもコルネット奏者として腕前を披露している。今でも「俺は元メンバー」というほどザ・スクエアとの交流は深いが、それを聞いたふかわりょうが、「T-SQUAREの“T”はタモリさんのTなのか」と本人に聞いた、笑えるエピソードもある。

(アルバムレビュー)

『タモリ』

高平哲郎監修、鈴木宏昌音楽という、ジャズ人脈のバックアップで完成したデビュー作。ハナモゲラ語による相撲中継、毛沢東やマッカーサーが卓を囲む“四カ国語麻雀”など、当時の持ちネタを中心に構成されている。寺山修司など、いかにも本人が語りそうなことを模写する「思想模写」がインテリ層にバカウケ。アフリカ音楽の贋作「ソバヤ」は『ANN』のED曲となった。音響効果の赤塚不二夫は漫画家と同名異人。村井邦彦と田邊昭知のスパイダースの縁で現事務所に。後にスネークマンショーに流用された「教養講座のテーマ」はこのときの録音。

『タモリ2』

『3』の原型案がボツになり、その安全版として作られたタモリ版『スマイリー・スマイル』。中州産業大学の森田(助)教授が再登場し、27分の音楽の歴史講義をすべて新録のパロディ曲で紹介。鈴木宏昌から交代したクニ河内(元ハプニングス・フォー)のパロディ能力が見事で、この後『夕刊タモリ』(『タモリ倶楽部』の前身)でも音楽で続投。触発された高平哲郎の文芸能力も凄まじく、チンクァエッティ、コサクニン合唱団などレコ倫ギリギリ。同一旋律を編曲で変えて聴かせる趣向は、YMOを起用した近田春夫『天然の美』にも影響を及ぼす。

『タモリ3』

今では「発売禁止騒動」とともに記憶される、日本の歌謡パロディの金字塔。戦後から昭和56年にいたる昭和歌謡史をシミュラクラする、30曲のパロディ曲が並ぶ。足幸夫、馬木一夫、西小輝彦のニセ御三家や、ドラマ『金玉先生』など、パロディの防波堤決壊。松林痴春「施設の中で」や「ハラをさいた」と、検閲的にヤバいネタばかり。発売延期決定後には、サンプルのコピーが闇市場に流れた。日本レコード協会の逆鱗に触れ、新星堂のみのインディーズ扱いで発売。3万枚以上売れたのでそれほど希少ではないが、永遠にCD化は無理であろう。

『ラジカル・ヒステリー・ツアー』

音楽面でアルファ時代を支えた鈴木宏昌の活動拠点、ソニーに移籍。ディレクターは早稲田の先輩、伊藤八十八。高平哲郎、音響の赤塚不二夫などスタッフは同じだが、タイトルを『タモリ4』とはせず毒も控えめ。曲間を繋ぐのは即興芸ではなく一人複数役のコントで、スネークマンショーの逆影響かと指摘された。バックを務めたスクエアは、仙波清彦、久米大作のはにわちゃん在籍時で、ほんのりテクノポップ風味。同メンバーと全国を巡るギャグツアーも敢行。ソニー時代には大滝詠一プロデュースの幻の第5作の計画があり、実際に数曲録られてるとか。

『HOW ABOUT THIS』

5年振りのアルバムは、話芸一切なしで純粋なジャズ・スタンダード作品として制作。半分はインストで、クルーナー唱法で本人が歌うヴォーカル曲もパロディ要素はない。引き続き鈴木宏昌のザ・プレイヤーズの面々がサポートし、本人はトランペット、コルネット、フルート、ピアノ、シンセサイザーなどマルチプレイヤーぶりを披露している。ボブ・ジェームス風のアーバンな編曲は、大野雄二の劇伴仕事でバンマスを務める松木恒秀の貢献。作詞はゴダイゴのトミー・スナイダー。本盤に呼応するギャグパートは『タモリ倶楽部』の番組内で展開された。

(洋泉社ムック『タモリ読本』より再録)

*https://note.com/ugtk/n/nb1aac50b2889 より

 タモリがオールナイトニッポンを担当していた頃、ジャズだけでなくいろいろな音楽を流し、それをよく聴いていたものだ。本人のレコードも何度もかけられた。またトランペットも聴かせてもらいたいものだ。

 

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<日本酒> 茨城 愛友/愛友酒造

2021-02-12 08:54:24 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈茨城〉 愛友/愛友酒造

 

 「水」へのこだわり神泉の恵み
 清澄な水が白砂の底から呼吸するように湧き出す大生(おおう)七つ井戸の一つ大生神社の神泉「思井戸」。

 酒づくりに最適なミネラル分を含むこの水脈は、古代から潮来の人々の暮らしを支え、江戸時代には、仙台河岸、津軽河岸などの地名が物語るように、東北地方の物資を江戸に回漕する水運の要衝として栄えてきました。

 いまも「嫁入り舟」が行き来する水辺のまちで、愛友酒造はその名のとおり酒を愛する人々の顔を思い浮かべながら、友に愛される地酒をつくっています。

 ふるさとを映す白壁
 源頼朝が鹿島神宮で戦勝を祈願した際に使った硯を祀る硯宮(すずりのみや)神社。
 蔵の鎮守でもある由緒あるこの宮の木々のそよぎを聞きながら、愛友の酒は二百余年、絶えることなく醸されてきました。

 さまざまな時代や折々の想いを映してきた蔵の佇まいが、
 紛れもなくふるさとの風景になっているように、愛友は地域の祝いの酒としてまた、時には哀しみを癒やす酒として人々の暮らしと深く関わりながら長い歴史を刻んできました。

 地域とともに生きる事だけをつくりたいという初心は、この白壁の蔵で脈々と受け継がれています。

 

 芳醇な一献が心を満たす

 いい水、いい米、そして杜氏の技。
 このいずれが欠けてもいい酒はできません。
 丹精込めて仕込む大吟醸や純米吟醸は、
 ここ数年、国内はもとより海外でも高い評価を頂いております。

 「互いに心を開いて酒を酌みかわせば、世界の人々は、皆、兄弟のよ睦みあえる」という意味の『四海皆兄弟』を創業以来の社是とする愛友酒造。

 小さな流れがいくつも集まって大河となり、やがて海に注いで世界とつながるように、愛飲家たちの心を地酒の魅力で満たしたい・・・、そんな願いを込めて日本の、茨城の、水辺のまち・潮来で、日々研鑽いたしております。

 

 創業以来、愛友酒造は清酒の製造・販売を通じ、
 消費者のみなさまの食文化・生活文化に寄与してまいりました。
 常陸利根川に面した潮来町は古くは、東北地方から江戸へ行き交う水上交通の宿場として栄え花街界限もにぎわいを見せていた。

 現在は、北浦と霞ヶ浦に育まれた水と緑の水郷地帯として穏やかな風情を漂わせ、あやめ咲く六月は観光客で賑わいを見せる。多くの文人墨客にも愛されたこの歴史と詩情豊かな水郷潮来で江戸末期初代常七により創業された「愛友」は、友を愛し相睦み肝胆相照らすという意味が込められ、友と皆が楽しく酒を飲み交わすという、創業者の意志「四海皆兄弟」小印の精神の下広く多くの人々に愛される酒造りの伝統を受け継ぎ、地元の人々に支えられ育まれて来ました。

 自然の恵み、
 人々とのふれあい、
 酒を介し広がる心豊かな暮らし、
 蔵元の心意気の原点
 それが私達の願いです。

 歴史
 江戸時代から「糀友(こうとも)」の屋号で親しまれた糀屋。
 糀づくりで培った技をもとに、愛友酒造は文化元年(1804年)、
 当酒蔵は、歴史と詩情豊かな水郷潮来において初代兼平常七によって創業されました。

 

 愛友酒造株式会社 茨城県潮来市辻205

 ブランド一覧

 「春しぼり」純米吟醸

 「愛友」大吟醸・純米しぼりたて 本生原酒

 「酒蔵の粋」 など 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 49. 八丁味噌

2021-02-12 08:48:28 | 食品

 登録番号 第49号 八丁味噌

 特定農林水産物等の区分 第27類 調味料及びスープ類 豆味噌

 特定農林水産物等の生産地 愛知県

 登録生産者団体 愛知県味噌溜醤油工業協同組合

 特定農林水産物等の特性 赤褐色で色が濃く、適度な酸味、うまみと苦渋味といった他の味噌にない独特な風味を有する。愛知県民の濃い味を好む嗜好と相まって「名古屋めし」の代表的な調味料として定着。

 地域との結び付き 愛知県は高温多湿な気候であり、製麹過程で腐敗しやすい自然条件の下で、天保、弘化、嘉永頃(約200年前)には、塩と大豆を用いて安全に味噌作りができる味噌玉作り製法が定着した。気温が高いことにより、熟成において大豆の分解が進みやすい。高温多湿な環境では、塩分・栄養価の高い味噌が好まれた。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i49.html より

 

 「八丁味噌」は、赤褐色で色が濃く、適度な酸味、強いうまみ、苦渋味といった他の味噌にない独特な風味を持った愛知県で生産されている味噌です。
 他の産地の味噌は米(又は麦)、大豆、食塩を主原料として作られているのに対し、大豆と食塩のみで作られているのが特徴です。
 愛知県民の濃い味を好む嗜好を反映した、「味噌かつ」「味噌おでん」「味噌煮込み」「味噌鍋」などの、いわゆる「名古屋めし(1)」と呼ばれる料理に使用される代表的な調味料として、愛知県内に定着し、特産品として広く認知されています。

 先ず、蒸した大豆を原料として、直径20mm以上、長さ50mm以上の大きさの味噌玉を作り、その表面に麹菌を繁殖させて豆麹を作ります。
 次に、豆麹、塩、水を混ぜてタンク(醸造桶)に仕込み、重しをのせて一夏以上熟成させ製品とします。
 最後に、「八丁味噌」の特徴である独特の風味(酸味、うまみ、苦渋味)及び色(赤褐色)を呈していることを確認した後、出荷されます。

 愛知県は高温多湿な気候であり、味噌造りで重要な製麹過程で腐敗することが多いことから、安全に味噌造りができるよう、塩と大豆だけで味噌玉を作って麹菌を付ける製法(味噌玉造り製法)により作られてきました。この製法は、天保、弘化、嘉永頃(約200年前)から地域に定着してきた歴史があります。
 また、愛知県は気温が高く、味噌の熟成において大豆の分解が進みやすいといった自然的な条件を備えていることから、他の産地の味噌にはない、色が濃く、適度な酸味、強いうまみ、苦渋味を有する「八丁味噌」の特性が生まれました。

(1)名古屋めし:愛知県名古屋市の名物料理を指す造語です。豆味噌や溜り醤油などを使い、全体的に濃い味付けが特徴です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/49.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 39.回答 40.出題

2021-02-12 08:28:07 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 九品蓮台-くほんれんだい-極楽浄土に往生するときに座る蓮台。9種の別があるとする。また、往生後に化生 (けしょう) する浄土の蓮台。九品の蓮 (はちす) 。九品の台 (うてな) 。九品。  

 


 問2 鱗次櫛比- りんじしっぴ-きっちりと整って並ぶこと。魚の鱗や、髪をとかす櫛の歯のように整然と並んでいる様子から。 

 


 問3 国君含垢-こっくんがんこう-君主は将来のことを考えて、一時的な恥は耐えるべきであるという教え。または、君主には臣下の失敗を許す度量が必要であるという教え。「垢」は垢、汚れという意味から、恥や失敗のたとえ。「国君垢を含む」とも読む。  

 


 問4 梓匠輪輿- ししょうりんよ-「梓」は家具職人、「匠」は大工、「輪」は車輪を作る職人、「輿」は車台を作る職人のことで、これらの総称。 

 


 問5 竹頭木屑-ちくとうぼくせつ-役に立たないもののたとえ。また、細かなもののたとえ。転じて、つまらないものでも、何かで役に立つかもしれないから粗末にしないこと。廃物利用すること。▽「竹頭」は竹の切れはし。「木屑」は木のくず。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 欣喜雀躍  

 

 問2 夢幻泡沫  

 

 問3 剛毅直諒  

 

 問4 良禽択木  

 

 問5 出谷遷喬

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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訃報<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-チック・コリア

2021-02-12 07:56:39 | MUSIC

 「チック・コリア」

  1941年6月12日生まれの79歳

 

 チック・コリアのおすすめ作品 ─60年のキャリアとともに振り返る

 チック・コリア(1941-)はアメリカの鍵盤奏者/作曲家。1960年代の初頭にジャズピアニストとしてキャリアをスタートし、以降もジャズの歴史上きわめて重要な作品に関与。多くの名作、名演奏を世に送り出しています。

 プロデビューまでの経緯
 チック・コリアは1941年、アメリカのマサチューセッツ州チェルシーに生まれます。ジャズ・トランペッターだった父親の影響で、4歳のときにピアノ、8歳でドラムを始めます。

 高校卒業後はニューヨークのジュリアード音楽院に進学。20歳になった頃、パーカッション奏者のモンゴ・サンタマリアのバンドに加入し、モンゴのアルバム『Go! Mongo』(1962年)の録音に参加。このラテン音楽作品で、チック・コリアは最初のレコーディングを経験します。


 モンゴ・サンタマリア『ゴー・モンゴ!』(1962年)を皮切りに、ソニー・スティット『スティット・ゴーズ・ラテン』(1963年)、デイヴ・パイク『マンハッタン・ラテン』(1964年)、ハービー・マン『ラテン・マン』(1965年)など、ラテン作品のピアニストとしてレコーディングに起用され続けた。
 その後も、アフロ・キューバンやブーガルーと呼ばれるラテン音楽のレコーディングに数多く参加。60年代に経験したレコーディングのほとんどは、ラテン系のダンスミュージックが中心でした。

 そんななか、彼は自身のバンドを率いて初のオリジナル・アルバム『トーンズ・フォー・ジョーンズ・ボーンズ』(1966年)を発表します。 このデビューアルバムは、陽気なラテン風味は一切なく、シャープでシリアスな雰囲気のジャズ作品。当時25歳の彼が、収録曲のほとんどを自分で書き上げています。

 

 マイルス・デイビスのグループに参加
 デビュー・アルバムを発表後、さらに大きな転機が訪れます。彼が28歳のときでした。当時のジャズ界を牽引していた有力プレイヤー、マイルス・デイビスのグループに加入し、アルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』(1969年)や『ビッチェズ・ブリュー』(1970年)などに参加します。

 これらのアルバムは、エレクトリック楽器を大胆に導入し、旧来のジャズとは一線を画すものでした。ジャズ界だけでなく、ファンクやロックミュージシャンたちにも刺激を与えた本作は、フュージョンと呼ばれる新しい演奏スタイルが勃興する、ひとつの契機になりました。こうした話題作に参加したことで、チック・コリアの名はさらに多くの人に認知されます。

 ちなみに、前出のアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』(1969年)でチック・コリアは、マイルス・デイビスの指示によりフェンダー・ローズというエレクトリック・ピアノを演奏しています。この楽器は、その後のチック・コリア自身の作品でも、大きな力を発揮します。


 リターン・トゥ・フォーエヴァーの大ヒット
 1972年、チックは『リターン・トゥ・フォーエヴァー』というアルバム発表し、新境地ともいえる音楽世界を表現。大きな話題になります。やがて、このアルバム・タイトルはバンド名となり、ベーシストのスタンリー・クラークらとともにリターン・トゥ・フォーエヴァーとしてのグループ活動を開始。

 このバンドのセカンドアルバム『ライト・アズ・ア・フェザー』に収録された「スペイン」という曲は、のちにチック・コリアの代表曲として広く知られることになります。

 その後も、同グループで発表したアルバム『ノー・ミステリー』(1975年)が、アメリカの音楽チャート「ビルボード200」で39位にランクイン。また、グラミー賞の最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞も獲得します。こうした一連の “リターン・トゥ・フォーエヴァー作品“は、当時のジャズ・フュージョン界で最大級のヒットを記録し、チック・コリアのキャリアを語る上で、もっと大きな成果の一つとして評価されています。

 チック・コリアの名を世に知らしめ、商業的にも成功を収めたリターン・トゥ・フォーエヴァーでしたが、1977年のアルバム『ミュージックマジック』を発表後に解散。その後の彼は、「チック・コリア・エレクトリック・バンド」というグループを発足し、ロック的なアプローチを加味しながらフュージョン的な表現をさらに推進します。

 また、これと並行して「チック・コリア・アコースティック・バンド」も始動。こちらは、エレクトリック・バンドとのバランスを取るかのような内容で、いわゆる “ジャズの定型” に寄り添ったスタイルの演奏。両ユニットは90年代の半ばまで精力的に活動します。

 2000年以降の活動と現在
 2001年、チック・コリアは60歳を迎えますが、さらに意欲的な音楽活動を展開します。アルバム『過去、現在、未来(Past, Present & Futures)』(2001年)のリリースを皮切りに、21世紀以降も次々と新作を発表。それらのアルバムには世界各国の若手からベテランまで広い世代のミュージシャンが登用されており、日本人ピアニストの上原ひろみや小曽根真ともデュエット作品を制作しています。

 その作風も多彩で、ピアノの独奏や、トリオ(3人編成)、管弦楽団との共演など、編成もさまざま。音楽性においても、古典的なジャズに立脚したスタイルから、現代音楽のような先鋭的なサウンドまでバラエティに富んでいます。

 こうした、チック・コリアの多様な活動形態をおおまかに分類すると、以下のようにグループ分けできます。

 ●サークル(フリージャズの奏者として知られるアンソニー・ブラクストンらと結成したグループ。1970年に初作を発表)

 ●リターン・トゥ・フォーエバー(ベーシストのスタンリー・クラークらと結成したグループ。1972年に初作を発表)

 ●チック・コリア・エレクトリック・バンド(1986年に初作を発表)

 ●チック・コリア・アコースティック・バンド(1989年に初作を発表)

 ●チック・コリア & オリジン(ベーシストのアビシャイ・コーエンらとともに1999年に初作を発表)

 加えて、上記に該当しない自身のリーダー作や共同名義のアルバムも数多くリリース。その傾向を大まかに分類すると、以下のようにカテゴライズできます。

 ●ソロ(チック・コリアのピアノ独奏。1971年の『ピアノ・インプロビゼーション』や、99年の『ソロ・ピアノ』など、ソロピアノ作品だけでも10作ほどリリースされている)

 ●デュオ(二重奏作品。ビブラフォン奏者のゲイリー・バートンとの共作が最多。ハービー・ハンコックや小曽根真、上原ひろみといったピアノ二ストとのデュオも多い)

 ●トリオ(ピアノ、ドラム、ベースによる三重奏作品。1968年の『ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス』や、2013年の『トリロジー』などの、いわゆる“モダンジャズ的なピアノトリオ”作品も多くのファンに支持されている。これまでに “チック・コリア・トリオ” や “ザ・チック・コリア・ニュー・トリオ”といった名義も使用し、多様なトリオ作を制作)

 ●室内管弦楽(クラシックの楽団とのコラボレーション。1999年の『コンチェルト』など。また、上記のソロやデュオ、トリオなどの少人数編成で、クラシック音楽をテーマにした作品も多数)


 もちろん上記以外でも、カルテット(4重奏)やクインテット(5重奏)、セクステット(6重奏)など、多種多様なフォームでいくつもの作品を発表しており、これまでにリリースしたアルバムは90作以上。2020年現在、23の部門でグラミーを獲得しています。

 さらに、チック・コリアの作品を説明する上で、大きなポイントと言えるのが「ラテン」です。前項で紹介した代表曲「スペイン」を含め、これまでにラテン音楽を主題にしたアルバムや楽曲を多数制作しており、1976年の『マイ・スパニッシュ・ハート』や、82年の『タッチストーン』などが、その代表作です。

 これらの作品では、ブラジルやキューバといった中南米/カリブ諸島の音楽だけでなく、フラメンコなどのスペイン舞踏音楽なども含めた、広義の「ラテン音楽」をテーマに据えています。

 最新のオリジナルアルバム『アンティドート』(2019年)でも、スペイン語圏のさまざまな伝統音楽を採用。本作はかなり本格的なラテン音楽バンドを率いて制作され、第62回グラミー「最優秀ラテン・ジャズ・アルバム」を受賞しました。本稿の冒頭で紹介した「チック・コリアのプロデビュー最初期はラテン音楽バンドだった」ことを鑑みると、まるで原点に立ち帰ったような作品です。

 また、こうした音楽作品を発表する一方で、オンラインで学べる音楽アカデミーも設立(2020年6月)するなど、後進の教育にも意欲的。2021年には80歳を迎えるチック・コリアですが、今後も新たなプロジェクトの発足や、旺盛なライブ活動が続きそうです。

*https://www.arban-mag.com/article/60635 より

2021-01-30 08:52:56 に投稿。

 

 訃報

 2月9日に逝去されたと・・・

 公式ページの発表によると、コリア氏はまれな種類のがんを患っていたことがごく最近になって発覚していた。発表文では、コリア氏が生前に残したメッセージも掲載された。

 同氏は「私と旅を共にし、音楽の火を明るくともし続けることに協力してくれたすべての人に感謝したい。私の願いは、演奏や制作、パフォーマンスなどをしたいという気持ちがある人には、それをしてほしいということ。自分のためでなくとも、ほかの人々のために。世界にはもっとアーティストが必要だというだけでなく、単に本当に楽しいものなのだから」とつづっている。

*https://news.livedoor.com/article/detail/19683394/ より

 残念です。ご冥福をお祈りします。

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 茨城 笠間焼

2021-02-12 07:48:59 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「笠間焼」

 笠間焼とは
 多様な顔を持つ、関東で最も古い焼き物産地

 関東でもっとも歴史の古い焼き物産地、笠間。その作風は窯元ごとに多様です。

 今日はそんな笠間焼の歴史と特徴について見ていきましょう。

 笠間焼とは。関東で最古。益子焼とは兄弟産地
 笠間焼は茨城県笠間地域で採れた粘土を使って作られる、関東で最も古い歴史を持つ焼き物である。

 江戸時代中期、笠間藩・箱田村の名主であった久野半右衛門が、信楽焼の陶工 (長右衛門) から教えを受け開窯。

 江戸時代末期になると笠間焼の技術は他の地域にも広がりをみせ、焼き物産地の成立に一役買うこととなった。

 特に栃木県益子町の益子焼は笠間焼の製法を受け継いでおり、笠間焼とは兄弟産地の関係にある。このほか、山形県山形市の平清水焼、栃木県馬頭町の小砂子焼などが笠間焼と関わりを持つ産地として知られている。

 現在焼き物としては、主に生活雑器 (皿、カップ、鉢、湯呑、酒器等) 、その他人形やオブジェ、モニュメントなども製作されている。

 ここに注目。作り手の95%は作家?
 戦後の生活様式の変化とともに笠間焼は急速に衰退したものの、市が笠間焼に活気をもたらすための政策を打ち出し、「陶芸団地」や「窯業団地」を建設。

 1960年代時に巻き起こった民藝ブームの際に、多くの作家志望者や若手の陶芸家たちを呼び込んだ。

 その名残で、現在の窯元の95%は作家系で占められているといわれている。

 「◯◯焼はこうあるべき」といった型にとわられず、作家たちが自由な活動を行ってきたことが、窯ごとに表情が異なる、現在の笠間焼の幅広さに繋がっている。

 笠間の焼き物あれこれ
 笠間焼に使われる笠間粘土は、花崗岩 (かこうがん) (※)質であり鉄分を多く含む。そのまま焼くと赤黒い陶器が出来上がる。

 ※花崗岩 (かこうがん)
 石英・長石・雲母などからなる火成岩の一種。石碑などに広く用いられる。別名 : 御影石

 江戸時代は釉薬の一種である「柿釉」と呼ばれる、赤みを帯びた色合いに仕上がる薬を使い水甕や壺を主に作った。明治時代には飴釉や青釉などの色味が加わり、すり鉢と茶壺が主力製品となる。

 昭和以降は新たな陶芸家を誘致し、伝統的な製法だけでなく個性あふれる作品が増え、インテリア製品までアイテムの幅が広がった。

 現在の笠間焼は、制作される焼物の種類も一層広がりを見せ、近年では、贈り物や結婚式の引き出物などといったオーダーメイドの受注が人気の窯元も登場している。

 笠間焼の歴史
 ◯信楽焼の流れをくむ関東最初の焼き物産地の誕生

 江戸時代中期の安永年間 (1772〜1781年) 、笠間藩・箱田村 (現在の笠間市箱田地区) の名主であった久野半右衛門 (くの・はんうえもん) が、信楽焼の陶工の指導を受けて開窯したことが始まりとされる。

 その後、久野家を含む6窯元が笠間藩の御用窯である「仕法窯」に選ばれ、藩の保護下で産業として発展した。

 江戸時代末期の1850年頃には、関東の伝統ある焼き物産地笠間で修行した陶芸家たちが笠間焼の技術を近隣へ広めていった。なかでも益子焼は笠間の陶芸家が栃木県益子で開窯したこときっかけに生まれたとされ、産地として兄弟関係にあたる。

 ◯明治維新後

 江戸時代に発展していた笠間焼も、明治時代に入ると一時低迷。

 そんな中で復興に尽力し中興の祖と呼ばれた人物に、行商の身であった田中友三郎がいる。

 田中友三郎は笠間焼の主力製品としてすり鉢と茶釜の知名度を上げ、積極的に販売した。それまですり鉢は備前産が名をあげていたが、努力の甲斐あり「頑丈で安い」と高い評価を受けるようになった。

 1868年 (明治10年) の内国博覧会では、笠間焼の茶壺が一等を受賞。全国で笠間焼の名が知られるようになり、さらに知名度を上げた。

 1889年 (明治22年) の水戸線開通で列車を使っての運搬が可能になったことで販売経路が東日本一帯へと広がり、笠間焼は隆盛期を迎える。

 販売の増加に伴って、主力製品のすり鉢・茶壺にとどまらず、甕・壺・徳利・行平・火鉢・土瓶・湯たんぽなどの様々な日用品が生産されるようになった。

 ◯戦後

 終戦後、プラスチックの登場や工場での大量生産など、時代の変化によって笠間焼の需要は減り、今までに無いほどの窮地に追い込まれる。これは焼き物需要の低下だけでなく、産地のまとめ役である「問屋」が笠間に無かったことが大いに関係すると言われている。

 そこで動いたのが行政である。茨城県は業界の要望で1950年 (昭和25年) に県立窯業指導所を設立し、試験・研究・指導機関としてスタートした。また笠間市は地場産業の窮地を救うべく「芸術の村」建設の政策に踏み切った。

 「芸術の村」を作り上げる政策のなかで、陶芸家を誘致するため、1963年に陶芸団地、1972年に窯業団地を建築。そのお陰で若手の陶芸作家たちが集まり、笠間焼の活気を取り戻すとともに、伝統に縛られた作風だけではない自由な制作を可能とする風潮を作り出すことに成功。

 1992年 (平成4年)、笠間焼は国の伝統的工芸品に指定された。

*https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/116949 より

*https://kougeihin.jp/craft/0403/ より

 

 「笠間焼(かさまやき)」は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器。

 概要
 江戸時代中期の安永年間(1770年代)から作られ始めた。箱田村の名主久野半右衛門道延が始めた「箱田焼」と山口勘兵衛が始めた「宍戸焼」が笠間焼の源流と言われている。後に、笠間藩の牧野貞喜や牧野貞直は窯業を重要視し、生産増加と陶技を後世に継承する目的で御用窯「仕法窯」が指定され、甕やすり鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治にかけては江戸(東京)に近い利点から大量生産の機会を得て、技術者や従事者も飛躍的に増えた。特に、陶器商の田中友三郎の活躍は笠間焼の販路を広げる役割を果たした。以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。

 1992年(平成4年)に経済産業省より、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づく経済産業大臣の指定を受けた工芸品に指定されている。

 特徴
 関東ローム層から出土する笠間粘土によって作られる。笠間粘土は笠間地区から筑波山にかけて産出する花崗岩(御影石)が風化堆積して生じた粘土であり、粘土は粘りが強く、成形しやすいだけでなく、鉄を含むため焼成後には有色となる特徴がある。

 「特徴がないのが特徴」と言われているが、これは太平洋戦争後、先人の仕事を尊重しつつも伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて、各地から若い陶芸家たちが集まったためである。現在では安価で実用的な水瓶や徳利から、芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれている。

 笠間焼はイノベーションの成功例として高く評価されている。「差別化・高付加価値化」による競争優位を形成し、産地の競争力を高めた点や、企業数の増加や生産額の増加、観光客の増加などを通じて地域経済産業の活性化に貢献した点、作家が中心となったイベントや祭りなどを契機として地域コミュニティの再生や地域文化の創造などといった地域の活性化にも寄与した点が評価されている。

 イベント・施設
 笠間焼は観光資源にもなっている。春に行われる陶炎祭(ひまつり)には約50万人、秋に行われる陶器市である笠間浪漫にも多くの観光客が足を運ぶ。

 JR笠間駅の東側にある「笠間芸術の森公園」は陶炎祭の会場に使われるほか、茨城県陶芸美術館、「笠間工芸の丘 KASAMAクラフトヒルズ」、作品の野外展示エリア「陶の杜」、茨城県工業技術技術センター 窯業指導所「匠工房・笠間」がある。芸術の森公園や笠間駅には「笠間やきもの散歩道」が整備されているほか、陶芸体験を受け入れる窯元もある。

 著名な作家
 松井康成

*Wikipedia より

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昨日の藤井二冠-2/11

2021-02-12 07:42:17 | 将棋

 2021/02/11(木祝)

 第14回 朝日杯本戦トーナメント 準決勝(持ち時間:40分)

 VS 渡辺明名人

 138手で勝利!

 

 続いて行われた決勝

 VS 三浦弘行九段

 101手で勝利!

 これで2年ぶり通算3回目の優勝。

 第14回となった今大会だが、優勝回数は通算5回で羽生善治九段がダントツ。

 

 次戦は、

 2021/02/18(木)
 第34期 竜王戦 2組ランキング戦 二回戦(持ち時間:5時間)

 VS 広瀬章人八段

 

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