いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-岡林信康

2021-02-18 08:14:15 | MUSIC

 「岡林信康」

 1946年7月22日生まれの74歳

 岡林信康、23年ぶりとなる全曲書下ろしアルバム『復活の朝』を2021年3月3日にリリース 2020.12.25 18:00

 

 岡林信康が、1998年の『風詩』以来実に23年ぶりとなる全曲書下ろしアルバム『復活の朝』を2021年3月3日(水)にリリースする。

 『復活の朝』は、6月にYouTube上で突如発表されたアルバムタイトル曲でもある「復活の朝」をはじめ、環境破壊、生と死、自身の老い、平凡な日常のありがたさ、画一化する社会やシステム、体制への痛烈な皮肉など、今の時代の空気に切り込んだ岡林信康らしいメッセージ・ソング集。アルバムのラストは1stアルバム『わたしを断罪せよ』(1969年発表)のラストを飾った「友よ」の続編ともいえる「友よ、この旅を」で締めくくられる。

 アルバムのライナーノーツは2020年11月に京都で劇的再会を果たした盟友・松本隆氏が担当。コンサート活動が全面休止に追い込まれたコロナ禍の中でしか生れ得なかった、74歳の等身大の岡林信康の姿が浮かび上がる全9曲が収録されている。

*https://www.barks.jp/news/?id=1000194398 より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<日本酒> 茨城 久慈の山/根本酒造

2021-02-18 08:07:18 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈茨城〉 久慈の山/根本酒造

 

 誠実に 酒と向き合い 酒を想い
 酒造りに全てを捧げてきました
 私ども根本酒造は、この豊かな自然に包まれた奥久慈の地で1603年の創業以来四百年以上にわたって酒造りをして参りました。伝統の技を守りながらも、その年の米、その日の気候に合わせて、酒に心を砕きながら、より美味しい酒を求めて造り続けてきました。これからも酒に頑固に向き合い、お客様に喜んでいただける酒を造り続ける努力をして参ります。

 根本酒造の四百年の歴史「武家発祥の武士の酒」
 当蔵元のルーツは、徳川幕府開幕の頃。常陸国久慈郡を治めていた大名佐竹氏の家臣が慶長八年(1603年)に酒蔵を創業いたしました。藩主へ納める味噌・醤油などを製造していた技術を応用して酒造りを始め、以来20代にわたって伝統と歴史を守りながら酒造りをし続けて参りました。
 経験に裏付けされた酒造りを代々続けながらも、日々研究を重ね、技術や策を革新し続けながらより美味しい酒造りを心がけております。


 根本酒造の『水・米・技』
 当蔵元がある奥久慈(茨城県常陸大宮市山方)は、県立自然公園に属する八溝山を源とする“清流”久慈川が流れる大自然に囲まれた里山の田園風景が広がる中山間地域にあります。昼夜の寒暖差が激しいこの地域では、米をはじめとする農作物が豊かに実り、美味しい酒造りに適した自然の恩恵に包まれた地域です。
 自然豊かな久慈川水系のすぐ傍にある当蔵元で、酒造りに使用している水は名水として誉れ高い駒形神社に湧出する御神水。奥久慈の雄大な山々に蓄えられて湧き出でる清純な水は、酒造りに必要なミネラル(マグネシウム、カリウム、リンなど)を適度に含んでおり、酒造りに非常に好適。当蔵元が代々使用してきた名水です。
 また使用している米は、高品質の酒造好適米(山田錦、美山錦)をはじめ、地元で採れるひたち錦を惜しみなく贅沢に使用しています。
 それらの選び抜かれた水と米、そして長年にわたり培われた酒作りの技術をもって、熟練の南部杜氏と蔵人が丹精込めて酒造りをしております。

 根本酒造株式会社 茨城県常陸大宮市山方630

 ブランド一覧

 「久慈の山」大吟醸・御城 大吟醸・純米吟醸一回火入無濾過原酒

 「奥久慈の香」吟醸

 「カミマル」 純米大吟40・純米吟醸55 など

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 55. 宮崎牛

2021-02-18 07:52:20 | 食品

 登録番号 第55号 宮崎牛

 特定農林水産物等の区分 第6類 生鮮肉類 牛肉

 特定農林水産物等の生産地 宮崎県

 登録生産者団体 より良き宮崎牛づくり対策協議会

 特定農林水産物等の特性 きめ細やかなサシを持ち、口に含むと広がるほのかな甘みと芳醇な香りが特徴。地域を挙げた高品質な肉牛作りが高く評価され、第9回(H19)及び第10回(H24)全国和牛能力共進会において総合優勝。第11回大会(H29)でも肉牛の部で内閣総理大臣賞を受賞。

 地域との結び付き 宮崎県は肉用子牛の生産が盛んであったが、昭和34年に肥育牛の飼料給与基準を策定するなど、肥育牛の振興策にも着手。県内種雄牛の改良にも取り組み、昭和48年には「宮崎方式」と呼ばれる県内種雄牛の一元管理体制を全国で初めて構築。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i55.html より

 

 「宮崎牛」は、宮崎県で生産された黒毛和種の牛肉のうち、 肉質等級(1)が4等級以上のものに与えられる名称です。
 「宮崎牛」の特徴は、極上な肉質ときめ細やかなサシです。口に含むとほのかな甘みと芳醇な香りが広がります。
 5年に1度開催される全国和牛能力共進会(2)では、「宮崎牛」は3大会連続して最高の賞を連続して受賞しました。

 宮崎牛となる子牛は、宮崎県が挙県一致で築き上げてきた県内種雄牛の血統を受け継いだ黒毛和種であることが必要です。また、出生地は宮崎県に限ります。
 さらに、宮崎県における飼養期間が最長であること、そして枝肉の肉質等級が4等級以上であることが、「宮崎牛」となる条件です。

 宮崎県は太平洋に面し、南北400kmにおよぶ海岸線を有します。太平洋を流れる温かい黒潮(3)と冷たい北風を遮る九州山地(4)は、年間を通じ、宮崎県に温暖な気候をもたらしています。
 この気候を活かすことにより、宮崎県は、全国屈指の肉用牛飼養頭数を誇っています。
 宮崎県で生産された肉用子牛の品質は日本全国で高く評価されており、県内で生産された子牛のうち、約4割もの子牛が県外に出荷され、全国各地のブランド牛の素牛として活躍しています。

 このような全国有数の肉用牛生産地で、宮崎県は独自の指針により、「太りやすく、飼いやすく、肉質の良い」和牛への改良を進めてきました。   1973年には、宮崎県家畜改良事業団を設立し、県内各地域で造成・管理されてきた種雄牛の一元管理体制を全国で初めて構築しました。生産者、関係団体及び行政が一体となって、挙県一致で築き上げてきた独自の肉用牛改良体制は「宮崎方式」と呼ばれ、現在に至るまで継続しています。
 また、JA宮崎経済連と各JAの技術員が連携し、各地域における給与飼料の検討や、飼養管理の改善のための研修会の開催、肥育農家における生産技術指導を実施しています。
 このように誕生した「宮崎牛」は、宮崎県内の肉用牛生産者及び関係者等の努力により、数十年を経て、宮崎県内だけでなく県外からも愛される牛肉へと成長し、全国和牛能力共進会の3連覇を達成するまでに至りました。

 1986年に、県やJA宮崎経済連等の関係団体から構成される「より良き宮崎牛づくり対策協議会」を設立し、悲願であったブランド「宮崎牛」が誕生しました。

 (1)肉質等級:牛肉の肉質を示す指標として、「脂肪交雑」「肉の色沢」「肉の締まりおよびきめ」「脂肪の色沢と質」の4項目により1~5の等級(5が最高)で評価されます。
 (2)全国和牛能力共進会:5年に1度開催される和牛(黒毛和種)の品評会です。
 (3)黒潮:東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に流れる海流で日本海流とも呼ばれています。南極環流やメキシコ湾流と並んで世界最大規模の海流です。
 (4)九州山地:大分県南部、熊本県球磨地方、宮崎県北部、鹿児島県薩摩地方に至り、九州の中央部を北東から南西の方向に貫く山地です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/55.html より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<漢字検定> 準1級 四字熟語 45.回答 46.出題

2021-02-18 07:48:36 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 孟母三遷- もうぼさんせん-子供は周囲の影響を受けやすいので、子供の教育には環境を選ぶことが大切であるという教え。▽「孟母」は孟子の母。「遷」は移る、転居すること。 

 


 問2 侯覇臥轍-こうはがてつ-立派な業績をあげた人の留任を要望して引き止めることのたとえ。  

 


 問3 首鼠両端- しゅそりょうたん-ぐずぐずして、どちらか一方に決めかねているたとえ。また、形勢をうかがい、心を決めかねているたとえ。日和見ひよりみ。穴から首だけ出したねずみが外をうかがって、両側をきょろきょろ見回している意から。▽「首鼠」は「首施」に同じで、躊躇するさまともいう。「両端」はふた心の意。 

 


 問4 意気軒昂-いきけんこう-意気込んで、奮い立つさま。元気や勢力が盛んなさまで、威勢のいい様子。▽「意気」はあふれ出る元気、「軒昂」は高くあがる意。  

 


 問5 風餐雨臥-ふうさんうが-意味 旅や野外の仕事の苦痛のこと。または、野宿をすること。風に吹かれて食事をして、雨にうたれて寝るという意味から。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 用管窺天  

 

 問2 教唆煽動  

 

 問3 高軒寵過  

 

 問4 放蕩三昧  

 

 問5 社燕秋鴻


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<経産大臣指定伝統的工芸品> 埼玉・東京 江戸木目込人形

2021-02-18 07:41:50 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「江戸木目込人形」

 江戸木目込について

 木目込とは、衣裳のひだや布切れの境となる部分に細い溝を彫り込み、そこに布を「きめこむ」ことからそう呼ばれております。
 その発祥は、約270年前の元文年間(1736~41)に京都で生まれた木目込人形で、その人形づくりの技法が江戸に伝わり「江戸木目込人形」が誕生しました。
 現在は経済産業大臣指定の伝統的工芸品の「江戸木目込人形」として東京・埼玉でつくられるものが有名です。

 江戸木目込人形の歴史
 木目込人形は、約270年前の元文年間(1736~41)に京都で発祥したと言われています。
 通説によると、当時の上加茂神社の雑掌の高橋忠重という人が、余技で、神社の祭礼用の道具を作った余りで木彫りの人形を作り、それに神社の衣裳の残り裂を木目込んだのがはじまりといわれています。
 この人形は当時、加茂人形・加茂川人形・柳人形と呼ばれ、のちに木目込人形と呼ばれるようになりました。
 その後、江戸の発展と共に、京都から江戸に移り住んだ人形師により、木目込人形は「江戸風」に発達していきました。
 明治の後期になると、木彫りの胴に裂張りという古来からの製造法から、桐塑を型抜きして胴体を作るという現在の製造法が行われるようになりました。
 この技法により、多量生産や形態の多様化が可能になり、様々な種類の木目込人形が作られるようになりました。

 お気に入りのお雛様と一期一会を果たしたい、江戸木目込人形
 人形の街・岩槻では、たくさんの人たちの手によって愛らしい人形の数々が生まれ続けている。雛人形、五月人形、市松人形――健やかにたくましく、見目麗しく育てよと人形に託した親の思い。子供たちを取り巻く環境は大きく変わろうとも、その心は昔も今も変わることはない。

 
 子供のため、そして自分のために人形を飾りたい
 武州・岩槻といえば、名にし負う人形の街。城下町・宿場町として栄えたこの地には、日光東照宮の造営・修築に当たった工匠たちが定住し、人形づくりを始めたという。岩槻周辺は、もともと桐の産地である。工匠たちは、この桐の粉が人形の材料として、また当地の水が胡粉を溶くのに適していることを発見したのだった。
 現在も、300人を数える人が昔ながらの分業体制の下、伝統的な人形づくりに携わっている。「最近では男の子をもつ20~30代の若いお母さんは、武器を連想させる鎧兜よりも、愛らしい木目込人形を好まれるようですね。また40代以上の女性でも、自分のためにと買っていかれる方が多いんです。節句に関係なく、小さめの立ち雛が人気ですね。経済的に余裕ができて、心にもゆとりが生まれたんでしょうか」とは、伝統工芸士・有松寿一さんの談。穏やかで木訥(ぼくとつ)な語り口のなかに、深い人柄が忍ばれる。


 節句に関係なく根強い人気を誇る立ち雛。「自分のために買っていかれるお母さんも多いですよ」と、作者の有松寿一

 今どきの子供たちも、木目込人形に首ったけ
 筆描きされた上品なやさしい顔立ち、配色の妙を尽くした目にも絢なる絹の衣装、すっきり伸びやかな立ち姿。木目込人形は、大人が手にしても思わずため息が漏れるほど、精緻で美しく高級感あふれる工芸品である。
 一方、子供たちも、別の意味で木目込人形に首ったけだ。有松さんは、小学校の体験学習で4、5年生を対象に人形づくりを指導したことがある。どの子も、人形の型抜き作業には瞳を輝かせて大喜び。「今、学級崩壊や多動性症候群などが盛んにいわれていますが、手を使うこと、体で覚えることに子供たちはすっかり夢中。これには、先生のほうがびっくりしていましたね。」


 岩槻では、分業体制がしっかりと敷かれている。こちらは面相描きをしているところ。集中力がものをいう仕事だ

 職人としての技、問屋としての経営感覚
 有松さんは、中学生の頃から人形師の父を手伝っていたという。縁あって、15歳である親方の元へ。修行を始めて3年ほどで、経営も手伝うようになった。20歳のとき、親方が42歳の若さで急逝。遺された家族を放っておけず、人形づくりを一時中断して問屋業に精を出す。後に親方の息子へ経営をバトンタッチ、晴れて人形師として独立した。
 「この道一筋、とはいかなかったことが、かえって視野を広げてくれたみたいです。」
 今や世を挙げてのIT時代、有松さんもパソコンをフル活用している。写真撮影もデザインも自らこなしたパンフレットを制作して営業で活用、問屋の人たちからは機能的でかつ美しいと大評判だ。ホームページも自分で立ち上げた。が、こちらは啓蒙の意味合いが強い。
 「あくまでメーカーとしての領分を守りつつ、問屋さんのじゃまにならないようにね」
 経営時代に身につけた各方面への気配りとバランス感覚が、今ここで生きている。むろん、先を読む視点も忘れてはいない。将来、職人の数は確実に減っていくだろう。息子は跡を継がないと言っているし、無理強いするつもりもない。だからこそ、今まで自分が作ってきた木目込人形はかけがえのない財産。データベースとして保存し、後の代に人形を作りたいという人が出たとき役に立ってくれれば、という。


 頭の取りつけ作業を行う有松さん。「衣装の選定にはとにかく悩みますね。毎年、京都の西陣織の展示会に顔を出しています」

 人と人形にも一期一会がある
 あるとき有松さんのサイトに、面識のない女性から一通のメールが届いた。それは、有松さん作の慶雲雛を購入した若い母親から寄せられたものだった。――店にはたくさんの作品が飾られていたのですが、どうしてもあなたが作られた慶雲雛へと目が吸い寄せられていくのです。子供のためにと求めたものですが、今では見るほどに愛着が湧き、このお雛様に出会えてよかったと、満ち足りた気持ちです。ありがとうございました。
 一期一会、であろう。人の人との間だけでなく、人と人形との間にも、そう呼ぶべきものが存在するのかもしれない。人形師は、わが子を育てるかのごとく一体一体の人形と向き合い、その慈みで人形に魂を吹き込み、見る者の心を動かす。子を思う親の心ある限り、人形づくりの技が途絶えることはない。


 御所風シリーズの一つ「吉祥果」。中国風の髷(まげ)が愛らしい。どの人形を見ても、衣装の柄と配色の妙はうっとりするほどの美しさだ。


 有松さん作「初陣」。顔はぽっちゃりとしてかわいらしいのに、凛々しさをも感じさせる。

 職人プロフィール

 有松寿一

 1941年生まれ。
 目下、3Dソフトを人形づくりに活用すべく研究中。
 一方で、テラコッタ(塑像)の技法を今なお学び続ける努力の人。

 四季を愛でる日本人のこまやかな感性が息づく、江戸木目込人形
 春夏秋冬、日本列島の自然は刻々と移ろっていく。その生命力の微妙な変化を受け取る感性が、木目込人形づくりにも大きく反映される。名匠の人形を通して、大人も子供も、日本人なら本来備わっているはずの感性を思い出し、大切に育んでいきたいものだ。

 
 人形に託した親心
 寒さがゆるみ桃の蕾もほころぶ春弥生、女の子の健やかな成長を願って飾られるお雛様。青々とした皐月の空に勢いよく泳ぐ鯉幟(こいのぼり)、たくましい男に育てよとの願いをこめて飾られる武者人形。時は移ろうとも、人形に託した親心は変わらない。
 少子化の進む昨今、親御さんたちは子供が少ない分、一人ひとりにこまやかな愛情を注ぎ、この子のためにいいお人形を、という気持ちになるらしい。一昔前は、おじいちゃんおばあちゃんが初節句のお人形を贈るケースが多かったようだが、今は若いお父さんお母さんが自ら子供のために選ぶことが増えているときく。


 「大空の夢」。今にも童たちの歓声がきこえてきそうだ

 「邪まな心があったら人形さんは作れないよ」
 人形師の柿沼東光さんは、15歳のときこの道に入った。もともと手先を使うことが大好き、仕事を覚える間も楽しくて、とくに苦労した覚えはないという。
 「あたしはのんびりした性格だからね。だいたい人形を作る人は、温和で心静かな人が多いんじゃないのかい。邪まな心なんかあったら人形さんは作れないし、仮に作ってもお顔に現れてしまうだろうよ」生き生きとした動き、独創性あふれる意匠が、柿沼さんの作る木目込人形の真骨頂だ。熊を投げ飛ばす金太郎、お兄ちゃんに背負われて万歳する童、桃の上にちょこんと腰かけてこちらを見つめる童、竹の子の隣で成長を競うかのように体を伸ばす童、鯉幟にまたがるやんちゃ坊主たち。自然のなかで無心に遊ぶ人形たちは、どの子もかわいらしく、見ているだけで思わず口元がほころんでしまう。


 柿沼さんの仕事部屋。「何だか世の中のテンポが早くなっちゃってねえ。昔は、気が向いたら仕事、そんな感じだったよ」

 新しい時代のニーズに合った木目込人形を
 お母さんの世代が交替していけば、必然的に人形の好みも変わってくる。柿沼さんは、伝統的な人形を作り続ける一方で、新しい時代のニーズに合った木目込人形をも手がけている。そのためには、あちこちを旅して各地の伝統工芸品に触れたり、日常のどんな些細なことにもアンテナをはることを忘れない。
 最近、新しい感覚の雛人形セットを発表した。季節(五節句)によって人形や背景の飾り、台座などを取り替えて楽しむものだ。これが、世代を越えて好評なのだという。正月は、門松と鏡餅を飾り赤い毛氈(もうせん)の上で初春を祝う雛たち。背景には、雲間からおめでたいご来光が指している。桃の節句は、お内裏様とお雛様。その周りで、楽しそうに楽を奏で舞い踊る童たち。端午の節句は、男の童たちの饗宴。背景にはもちろん、鯉幟と花菖蒲である。七夕の節句は、織り姫と彦星のロマンスを祝うように、天の川のせせらぎで無邪気に戯れる童たち。中秋の名月の頃は、団子を囲んで月見する雛たち。隣にちょこんと兎が座り、薄の穂が秋の風情を醸している。


 柿沼東光さん作、童人形。ほかにも動物に乗っている童たちの作は、どれもほほえましいものばかり


 新しい感覚の雛人形セット、夢小雛「祭遊」

 木目込人形を通して、季節の変化を楽しむ
 「節句」はもともと、「節供」と書いた。「節」は季節の節目を表し、「供」は食物を供えるという意味。つまり節供は、季節の変わり目に八百万(やおよろず)の神々への感謝をこめて旬の食べ物をお供えし、人々も一緒にいただいて健康を祈る行事だったのだ。
 お祭りや行事は晴れ(ハレ)の日、その日を思いきり楽しむことで生命力が再生産され、翌日からの日常生活が活力に満ちたものとなる。そう、暮らしにめりはりがあったのだ。
 「だけど今は、年中行事そのものも、それがもつ深い意味合いもだんだん忘れられて、日々の暮らしがのっぺらぼうになってしまったね。あたしは人形さんを通して、伝統文化の底に流れる日本人の細やかな感性を子供たちに伝えていきたいんだよ」
 柿沼さんの手によって生み出された木目込人形たちは、愛くるしいなかにも溌剌とした生命力が秘められている。存在感が濃厚なのだ。大人も子供も一緒になって木目込人形を飾りつけ、四季折々の変化を感じて楽しむ――。そんな心のゆとりや豊かさこそが、今切実に求められているのではないだろうか。


 「斑鳩(いかるが)聖星」。古代飛鳥の風を感じる作品

 職人プロフィール

 柿沼東光

 1920年生まれ。
 盛り上げ加工を施した手描き模様、金箔押し、螺鈿(らでん)など、常に新しい技術や感覚を取り入れている。

 こぼれ話

 江戸木目込人形のふるさとは、京都の上賀茂神社

 上賀茂神社。じつはこれは通称で、正式な名前は賀茂別雷(わけいかずち)神社といいます

*https://kougeihin.jp/craft/1302/ より

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする