いいもの見ぃ~つけた!

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-加古隆

2021-02-21 09:09:08 | MUSIC

 「加古隆」

  1947年1月31日生まれの74歳

 数々の音楽賞を受賞し、日本を代表する作曲家のひとりであり、またピアニストとしては、その音色の美しさから「ピアノの画家」とも形容される。1971年東京芸術大学・大学院作曲研究室修了後、フランス政府給費留学生として渡仏。パリ国立音楽院にてオリヴィエ・メシアンに師事し、在学中の1973年に即興ピアニストとしてデビュー、1976年作曲賞(Prix de Composition)を得て音楽院を卒業。80年に帰国後は映画、舞台、オーケストラなどの委嘱作を含め、作曲及び演奏に、クラシック、現代音楽、ジャズの要素を包含した独自の音楽スタイルを確立した。代表作には、パウル・クレーの絵の印象によるピアノ曲集『クレー』、音楽詩劇『賢治から聴こえる音楽』等があり、特にNHKスペシャル『映像の世紀』(1995-96)など数々のドキュメンタリー番組や、今年3月まで放映されたTVドラマ「白い巨塔」の音楽でも知られる。98年モントリオール世界映画祭のグランプリ作品「The Quarry」[ザ・クゥオリー](ベルギー/マリオン・ハンセル監督)の作曲で最優秀芸術貢献賞を受賞。その後、映画「大河の一滴」(五木寛之原作・神山征二郎監督)、「式日」(庵野秀明監督)、「阿弥陀堂だより」(小泉堯史監督)などの音楽を手がけた。「阿弥陀堂だより」では毎日映画コンクールの音楽賞などを受賞。2003年にパリ・デビュー30周年を記念したCD「アニヴァーサリー」が発売され、通算50作以上のアルバムを発表している。自作品によるコンサートは現在までに26カ国約200都市に及ぶ。

*https://www.universal-music.co.jp/kako-takashi/biography/ より

 ピアノ・ソロに取り組み40年。加古隆が見つけたもの~『ソロ・コンサート2019 加古隆 ピアノと私』を語る
  2019.5.9
 抒情的でドラマチック、加古隆のピアノを聴くたびに心が洗われる。ソロコンサートを始めて40周年の記念となる『ソロ・コンサート2019 加古隆 ピアノと私』がツアー中だ。加古といえば、代表曲であるNHKスペシャル「映像の世紀」のテーマ曲「パリは燃えているか」をはじめ、ピアノ曲からオーケストラ曲、映画や映像の音楽など幅広く手がけてきた。中でも、今ではすっかり加古の代名詞となっているのがピアノ・ソロ。加古がこのスタイルで演奏を始めたのは40年前、ひょんな偶然からだったという。加古に今の想いと、コンサートにかける意気込みを聞いた。

 ■ピアノ・ソロは僕のライフワーク
 ーービアノ・ソロコンサートを始めたきっかけを教えてください。

 1979年、まだパリで暮らしていた頃、突然知り合いのプロデューサーから電話があり、今晩のスケジュールが空いているかを聞かれたんですね。北フランスのカーンで音楽祭があり、そこでピアノ・ソロのコンサートが予定されているが、ピアニストが大雪で来られないので代役で演奏してくれないか?と。

 僕はずっとグループでやってきたので、この日まで自分がソロコンサートをやるなんて思いもしなかった。そんな状況なので、僕は事前の準備や心の準備が何もないままにポンと行って、わけわからず一人でピアノを弾いたわけです。いつもならライブでは即興演奏を始めるモチーフ、テーマをいくつか用意して弾くのですが、この日はとにかく即興演奏が基本。その時、これまで自分が体験したことのないような時間と空間の中にいることができたんです。僕とピアノ、観客の皆さんだけの、特別な時間。本当に不思議な体験でした。

 でも、そこですぐにピアノ・ソロをやろうと思ったわけじゃないんです。僕は1980年に日本に帰りました。そこで、ピアノ・ソロがふと心に浮かんだんです。やってみようと思ったのは、この時の不思議な体験があったから。

 ーーそれまでジャズグループで演奏していた加古さんがソロに挑むようになったわけですね。それもピアノ一台で。ソロとグループでの演奏は違うものですか。

 はい。グループを組んでやっている時の楽しみは相手の音を聞いたり、会話を楽しむ感覚です。ソロでは具体的な対話や会話は望めない。もちろん、ピアノと対話するという言い方はありますが。ソロでは自分の全てを出さないと成立しない。他に助けてくれる人はいないのですから。

 ただ、ジャズのグループでやっていた時は前提としてジャズがあり、その音を出すわけですが、ソロになった途端、その前提が取っ払われたわけです。存在するのはピアノと僕だけ。そこで持っているものを全て出す。80年代に始めてすぐ、ピアノ・ソロは僕のライフワークだと思うようになりました。自分に適していると思ったのでしょう。それから長い間やってきて、ソロがライフワークという気持ちは動かなかったです。

 ーーピアノのソロを続けながら、映画・映像音楽の作曲活動と両輪で活動されたわけですね。どちらにも良い効果があると思われますが、いかがでしょうか。

 言い方を変えると、ピアニストと作曲家という二つの立場があることが鮮明になってきました。作曲の仕事をする中に、ピアノのソロコンサートでも弾ける曲があるわけで、それらをコンサートで披露するようになりました。ピアノ・ソロを始めたことで、ジャズや即興音楽にこだわらなくなり、ピアノのソロのための曲を書くようにもなりました。一番の代表例は「グリーン・スリーブス」をモチーフにして書いた「ポエジー」です。それまで即興を中心としていた僕が、全てを譜面に書いて演奏する。これは僕にとっては画期的なことでした。大学では作曲のクラスにいましたから、曲は書いていました。だけど、自分がコンサートとして弾く場で、全てが譜面になった曲を弾いたのは「ポエジー」が初めてでした。

 ーーある意味、原点に戻ったと言えそうですね。

 結局、そうかもしれません。それまでアバンキャルドな音が自分のスタイルだと思っていましたから、逆に加古隆が「グリーン・スリーブス」みたいなメロディを弾くのはちょっと違うんじゃない?と自分では思っていたんです。ところが実際にコンサートで弾いてみたら、そんなことは全くないことがわかりました。逆に、これは素晴らしい可能性がある!と。「ポエジー」を弾いて、自分がもっと大きな扉の前に立った気がしたのです。僕の音楽がもっとたくさんの人に広まる可能性がある。しかも自分らしさを何一つ失っていない。

 自分らしさとは即興、或いは前衛的なものとはもっと別なところにあり、シンプルなメロディを弾いても何も変わらない。それどころか、シンプルなメロディのほうが、僕が持つ趣向と合っているかもしれない。そのことに徐々に気がついていったのです。「ポエジー」を書いたことで世界が広がり、その後の加古隆の音楽スタイルに繋がっていきました。同時に作曲の仕事は並行してありましたから、ピアノのソロ活動と作曲の仕事を行き来する形で進んできた感じです。

 ■曲は演奏することで命が吹き込まれ、未来へと繋がる
 ーーコンサートでは、「散り椿」など映画の曲も披露なさいます。映画音楽はどのようなプロセスで作られているのですか。映像を見てイメージするとか?

 映像を見て作るのは物理的に無理なんですよ。撮影が終わってから音楽を作るのでは間に合わないし、ロケに行く前にテーマ曲を聴きたいとおっしゃる監督さんも多い。そこで何をもとにするかというと、台本です。台本から、こんなタッチの音、例えば「ポエジー」みたいな爽やかなタッチか、もっと重い「パリは燃えているか」のような重厚な世界かを掴みます。

 何と言っても監督や演出家との話し合いは大切です。思っていることがあったらなんでも言ってくださいとお願いします。何なら世間話でもいい。会話の中で僕のイメージを話すと、ぽろっと思いがけない言葉が聞こえてきたりするんです。例えば、「映画は風が大切なんです」と一言おっしゃる。すると、森の中を風が吹き抜けるシーンを撮りたいんだなと伝わってきます。それをヒントに、風を思わせるような楽器を使おうとパンフルートを取り入れたことがありました。

 場合によっては台本を読んで、読み終わった時にすごく感動して涙が出てきて、即ピアノの前に座り、気持ちがそのまま音でパッと出てきたこともありました。映画「博士の愛した数式」です。これは珍しいケースです。とにかく映像から音楽を作っているわけではないです。

 ――そうなんですね。台本からというのは演劇と同じで、ちょっと驚きました。

 ただし映像を見ないで全て完結するのかと言われたら、そんなことはなくて。メインテーマを作って、その後完璧な映像が完成する。それから、ここに何秒の音楽が必要だとか、映像に合わせて細かく音楽をつけていきます。そのためには、いつも同じ音楽ではダメ。新しい曲も必要だし、ここは薄い音が要るからピアノのソロにしよう、ここはオーケストラにしようなど。音楽と秒数を合わせることは映像には不可欠です。だから作り方としては、二段構えですね。原点はどこといえばやはり台本です。映像につけていく段階では、アレンジや編集に近いセンスが必要になります。

 ーー特に指定されたストーリーなしに曲を書くことはありますか。

 はい。例えば、お琴奏者の方にお琴のコンチェルトを書いてくださいとお願いされたこともあります。その場合、題材はお琴とオーケストラ。同じように、ピアノのソロ曲はピアノ一台で最もピアノにふさわしいフレージングや書き方がある。具体的なストーリーでなくてもいいんです。稀にポーンとメロディができてから、この楽器で奏でるといいかな?とか考えることもあります。いろんなケースがあり、一概にこういう手順というわけではありません。

 ーー今まで何曲お作りになりましたか。数百曲はありますよね?

 数えたことがないからわからない(笑)。かなりの数だと思います。

 ーー曲数は気にならないのですか。

 僕は作家として、たくさん書くことも大事だと思っています。だけど今の僕はたくさん書くことより、書いたものを生きた状態にする。つまり演奏してあげることが大事なんです。こういう曲がありました。昔何かで一度流れましたが、もう二度と世で聞くことはない。そんな曲はいっぱいあるはずです。曲を演奏することで命が吹き込まれて、また未来へと繋がる可能性が出てくる。今回のソロコンサートもそういう視点で選曲しています。

 ■ノートルダム寺院は毎日のように見ていた
 ーーパリに留学なさっていた加古さん、ノートルダム寺院の火災はショックだったのでは? 

 僕、歩いて数分のところに住んでいて、毎日のように見ていたんですよ。悲しいですね。僕が一番美しいと思っている大聖堂ですから。正直、僕は東京よりパリのほうがまだわかるんですよ。東京は変化が激しいけど、パリはそれほど変わらない。24歳でパリへ行って、10年間暮らして。楽しい時ですよね。向こうでデビューしたわけですし。

 ーー加古さんの音楽を聴くと、なぜかフランスを思い出します。

 よくフランス的だと言われます。当然、そういう時期もあったでしょう。でもある時期から、やはり日本的な感性がより多くを占めるようになりました。音の選び方には、今でもフランス的な指向性があるかもしれない。

 ーー今回のソロ・コンサートはクラシックの殿堂であるサントリーホールの他、地方も回られますね。観客との心の交流もお感じになりますか。

 コンサートとはそういう場でもあります。トークでの皆さんと触れ合いもあります。音とは瞬間に生まれて、瞬間に消えるもの。それをコンサートでお客さんと共有するわけです。僕だけが出しているのではない、会場全体から生まれる心のエネルギーみたいなものはあると思います。聞いている人に励まされて、演奏がよくなることもあります。

 ーー今はライブコンサートが大人気ですね。その場を楽しむスタイルが皆さん、お好きなのでしょうか。

 ライブには他の複製物ではできないものがありますね。僕は今、全部曲を自分で書き、演奏したCDもあります。しかし、コンサートにいらっしゃる皆さんは「生演奏ってこんなに強いんだなぁ」とおっしゃる。やはりライブは魅力ありますよ。ある意味、今のライブ人気は健全かもしれません。生の音で生の時間だから、ちょっと聞き忘れたからといって、巻き戻すわけにはいかないんです。生演奏は一期一会。まして生きている人間が演奏するわけで、その時間は帰ってこない。そういうことをみんな、どこかで感じているんでしょう。コンサートは大事です。

 ――加古さんがコンサートで伝えたいメッセージはありますか。

 僕は主義主張を伝えたいというのはないです。しいて言えば、僕はコンサートで一番大事にしているのが、感動していただくこと。メッセージに感動する人もいるでしょうが、もうちょっと消化された形で、ピアノの美しさや響きに耳をすませていただけたら。人間が情念を込めて弾いているわけですから。ベートーベンの曲を聴けば誰もが感動するのと同じ、感動していただけるのが一番の喜びです。

 ――最後に読者の皆様に一言お願いします。

 一台のピアノでこれだけの幅広い表現ができる、そしてピアノの音はこんなに美しいということを、楽しんでいただけたら嬉しいです。

 取材・文=三浦真紀

*https://spice.eplus.jp/articles/236955 より

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<日本酒> 栃木 燦爛/外池酒造店

2021-02-21 09:00:53 | 東京五輪延期

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 燦爛/外池酒造店

 

 外池酒造店は1937年(昭和12年)創業。

 外池家の歴史を辿ると、江戸時代の1829年(文政12年)に近江商人が栃木に来て造り酒屋を創業したことに始まります。

 近江商人は、今をさかのぼること数百年前、豊臣秀吉が活躍したころ、近江の国の殿様蒲生氏郷が福島に国替えになったときに、殿様が多くの職人、商人を商工業の振興のために連れて行ったことから、関西の近江の国と関東・東北の国との間を行き来する商人が生まれたことが起源と聞いております。

 酒造りを始めた近江商人が生まれたいきさつを聞いたところによると、行商をしていた商人が米を買って、付加価値の高い酒に加工したことから始まったようです。

 1829年(文政12年)に栃木県宇都宮市で始まった造り酒屋外池荘五郎商店。

 その5男として1904年(明治37年)に生まれた外池逸五郎は、学校卒業後、家業の造り酒屋を兄と一緒に営んでいました。

 そして外池逸五郎は、1937年(昭和12年)に益子の地に分家という形で「外池酒造店」を創業。

 当初の銘柄は「八千代鶴」。しばらくして「燦爛」に変わりました。

 現在の蔵元は3代目の外池茂樹。
 日本酒以外にも米を原料とした焼酎、リキュール、どぶろくなど様々な商品を開発し、製造販売しております。

 日本酒コスメも開発し、オリジナルのブランド「蔵元美人」も全国展開しております。

 2012年からは、明日の日本酒への挑戦として新ブランド「望bo:」の製造を始めました。

 2015年からは、伝統的な酒造りの技術を学び、下野杜氏と南部杜氏の資格を持つ杜氏小野誠が先頭に立って全力で酒造りを行っております。

 2019年には日本酒の価値観・未来を見据えて本物を追求した新ブランド「外池 AUTHENTIC」の製造及び販売を始めました。

 2019年は全国新酒鑑評会6年連続金賞をはじめ、IWC、KuraMaster(フランス)等、国内外のコンテストにおいて40タイトル以上受賞しており、全米日本酒歓評会では1社だけに授与されるエメラルド賞も受賞するこができました。

 また、国内外のコンテストで最も評価された酒蔵を選ぶ「2019年 世界酒蔵ランキング」では第4位をいただくことができました。

 海外輸出にも力を入れており、2020年現在13ヵ国(台湾、香港、韓国、シンガポール、ベトナム、マレーシア、イギリス、オーストリア、フランス、イタリア、アメリカ、カナダ、オーストラリア)へ出荷しております。

 また、酒蔵には年間約7万人が訪れ、観光酒蔵として観光地である益子町を盛り上げています。心温まるおもてなしを心がけ、お客様に日本酒の楽しさ、益子町の魅力を発信していける蔵でありたいと思っております。

 株式会社外池酒造店(とのいけしゅぞうてん) 栃木県芳賀郡益子町大字塙333番地1

 ブランド一覧

 「燦爛」大吟醸 金賞受賞酒・大吟醸 雫酒・大吟醸 など

 「外池AUTHENTIC」 純米大吟醸 袋吊り雫酒 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 58. 鹿児島黒牛 

2021-02-21 08:15:50 | 食品

 登録番号 第58号 鹿児島黒牛

 特定農林水産物等の区分 第6類 生鮮肉類 牛肉

 特定農林水産物等の生産地 鹿児島県

 登録生産者団体 鹿児島県肉用牛振興協議会

 特定農林水産物等の特性 肉質はきめ細かく柔らかい。霜降りのバランスが良く、融点が低い不飽和脂肪酸を含むため、とろけるような食感。統一的な指導方針のもと、飼養管理技術や種雄牛の改良を継続して推進してきた結果、第11回全国和牛能力共進会(H29)において、最優秀枝肉賞を受賞し、総合優勝。

 地域との結び付き 昭和37年より種雄牛の県有化を進め、昭和60年に鹿児島県種雄牛協会を設立。飼養管理マニュアルを作成・普及するとともに、研修会を毎年開催するなど、県をあげて生産技術の向上に取り組んでいる。昭和61年に「鹿児島黒牛」としてブランド化。
*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i58.html より

 

 「鹿児島黒牛」は、鹿児島県における飼養期間が最長で、かつ鹿児島県を最終飼養地とする黒毛和種の牛肉です。
 肉質は、きめ細かく柔らかいことに加え、バランス良く織り込まれた不飽和脂肪酸を多く含むことで融点の低い霜降りが織りなすとろけるような食感と、繊細ながらもしっかりとした肉と脂の旨みが特徴です。
 2017年9月に開催された第11回全国和牛能力共進会(1)においては、出品した9部門のうち4部門(「種牛の部」3部門、「肉牛の部」1部門)で農林水産大臣賞を獲得し、「肉牛の部」において最も優れた枝肉に授与される最優秀枝肉賞も受賞しています。

 鹿児島黒牛の品種は、黒毛和種(未経産雌または去勢)です。
 また、鹿児島県における飼養期間が最長で、鹿児島県が最終飼養地であることも、鹿児島黒牛の条件です。

 鹿児島県では、もともと牛は役牛として飼育されていました。1950年代に入り、耕運機などの農業機械が普及するにつれて、役牛から食肉用に変化しました。
 鹿児島県では、県の機関と民間事業者がそれぞれ種雄牛を管理し、産肉能力に優れた種雄牛造成と優良雌牛の増殖が進められてきました。
 1985年には県種雄牛協会を設立し、県と一体となって、本県肉用牛の改良方針の検討や「鹿児島黒牛」の銘柄確立を図ってきました。

 1995年に、県内の肉用牛に関係する全ての機関や団体で構成する「鹿児島県肉用牛振興協議会」(以下、肉振協)が設立されました。
 肉振協は、1997年に県内の繁殖農家を対象とした手引書を作成し、肥育農家が求める子牛づくりを推進してきました。また県内の肥育農家に対しては、基本的な飼養管理や発育生理、ビタミンコントロール、疾病、飼料成分等について取りまとめた資料を1998年に作成し、普及・定着を図りながら、「鹿児島黒牛」の肉質向上に繋げてきました。

 鹿児島県の黒毛和種の飼養頭数は、肉振協設立時から現在(2017年のGI登録時点)まで、繁殖雌牛だけでなく肥育牛の頭数も全国1位です。
 以前は「鹿児島牛肉」などと称されていた県産和牛肉について、統一銘柄として「鹿児島黒牛」を定め、その使用を開始しました。

 (1)全国和牛能力共進会:5年に1度開催される和牛(黒毛和種)の品評会です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/58.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 48.回答 49.出題

2021-02-21 08:07:13 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 百舌勘定-もずかんじょう-みんなでお金を出し合うときに、うまいことを言って、自分ができるだけ払わなくてすむように仕向けること。また、その仕方。  

 


 問2 資弁捷疾- しべんしょうしつ-「資弁」は生まれつき弁舌が達者、「捷疾」は速いや素早いことから、生まれつき弁舌が達者で、行動が素早いこと。
中国古代の殷の紂王を評した故事が由来。 

 


 問3 素波銀濤- そはぎんとう-白い波。または、白い雲や、白いもやなどのこと。「素波」は白い波。「銀濤」は大きな波の波頭。どちらも白い波を言い表す言葉。 

 


 問4 池魚籠鳥- ちぎょろうちょう-不自由な身の上・生活のこと。また、宮仕えのこと。▽「池魚」は池の中の魚。「籠鳥」は籠の中の鳥。 

 


 問5 洞房花燭-どうぼうかしょく-新婚のこと。また、新婚の夜のこと。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 優孟衣冠  

 

 問2 門前雀羅  

 

 問3 万劫末代  

 

 問4 蓬頭乱髪  

 

 問5 夙興夜寝


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 埼玉 行田足袋

2021-02-21 07:49:23 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「行田足袋」

 行田足袋とは
 埼玉県行田市で足袋が作られるようになったのは、行田市が木綿の産地であった事が関係しています。
 更に近くには中山道も通っており、旅人たちが多く行き交っていました。

 そこで、旅人達にも販売出来るように、旅行や作業に使用する足袋作りが行われるようになっていったのです。

 明治に入るとミシンの導入によって生産量は飛躍的に増加します。
 1938年には足袋の全国シェア8割を占めるほど、行田の足袋は定着していきました。

 行田足袋が出来るまで
 足袋は一見シンプルな作りに見えますが、実はとても奥が深いものでもあります。
 準備から完成まで、行田足袋の製造工程は下記の13に分かれています。

 【行田足袋の作り方】
 1.準備:ひきのし布を裁断する為、10枚重ねる
 2.通し:足袋の型をあて、布を裁断する
 3.かけとおし:コハゼをかける糸を通す
 4.押さえ:通した糸が動かないように止める
 5.ハギマチ:コハゼをつける箇所の裏に布を縫いつける
 6.コハゼつけ:コハゼを縫いつける
 7.羽ぬい:表地と裏地を縫い合わせる
 8.甲ぬい:甲の部分を縫い合わせる
 9.尻どめ:かかとを丸く縫う
 10.つまぬい:爪先を縫う
 11.まわし:爪先以外を縫う
 12.千鳥:まわし縫いした所をギャザーにからみ縫いする
 13.仕上げ:最後に形を整える
 

 陸王と行田足袋

 2017年に放送された池井戸潤さんの小説原作・TBSドラマ「陸王」では、行田市が足袋の町として登場しました。

 埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」の4代目社長である宮沢さんを主人公として、需要が減っていく足袋をなんとかしようと、足袋作りの技術を活かしたランニングシューズの開発に挑むという物語になっています。

 このモデルになったのは実際に存在する「きねや足袋株式会社」で、ランニング足袋の販売も行っています。

*https://shikinobi.com/gyoda-tabi より

*https://kougeihin.jp/craft/0300/ より

 Description / 特徴・産地

 行田足袋とは?
 行田足袋(ぎょうだたび)は、全国一の足袋生産を誇る埼玉県行田市で生産される特産品です。
 利根川、荒川の二大河川に挟まれた行田市周辺地域は、水や堆積した砂質土が豊富な場所。さらに夏場は高温になるため綿の栽培に適しており、木綿の生産が盛んとなりました。また、それに加えて近くに中山道が通っていたことなどから、足袋の製作が隆盛していったと考えられています。
 生地は木綿、こはぜは真鍮もしくはアルミ(または同等の素材)を使い、指の収まりがよくなるよう、ふくらみをつけながら立体的に縫製されているのが特徴。現在でも和装文化に欠かせないアイテムです。

 History / 歴史
 行田足袋 - 歴史

 享保年間(1716~35年)ごろに描かれた『行田町絵図』には3軒の足袋屋が記されていることから、行田足袋の生産はそのころから開始されていたと考えられています。
 100年ほど経過した天保年間(1830~44年)になると、足袋屋は27軒に増加。さらに近代に入ると足袋は大衆化して需要が拡大し、行田の足袋商人は東北地方や北海道へも販路を広げます。また、作業工程に合わせて特殊な専用ミシンが導入されるなど製作面も進化。それに加えて日露戦争の好景気もきっかけとなり足袋工場建設が進みました。
 生産量の増加とともに製品を保管するための足袋蔵も数多く建造されましたが、そのうち約80棟の足袋蔵は現存。行田の町に趣きある景色をもたらしています。
 昭和13~14年(1938~39年)の最盛期には全国の約8割の足袋を生産し、“日本一の足袋のまち”と呼ばれるまでになりました。
 靴下が普及した現在も、行田では足袋の生産が続けられ、国内外へ新製品をを発信し続けています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/gyodatabi/ より

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