いいもの見ぃ~つけた!

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-宇崎竜童

2021-02-14 07:55:31 | MUSIC

 「宇崎竜童」

 1946年2月23日生まれの74歳

 1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。妻は作詞家の阿木燿子。「作詞・阿木、作曲・宇崎」のコンビで商業主義的な歌謡曲界においても、数多くの楽曲をヒットさせると共に山口百恵の全盛期を支えた。*Wikipedia より

 

 今月の音遊人:宇崎竜童さん「ライブで演奏しているとき、もうひとりの宇崎竜童がとなりでダメ出しをするんです」 2020.6.1

 1973年のデビュー以来、演奏活動の他、作曲家としても数多くのヒット曲を世に送り出し、さらに映画・舞台音楽の制作や俳優まで幅広い活動を展開する宇崎竜童さん。2020年で74歳になったと聞いて驚かずにはいられない、あふれるエネルギーで第一線を走り続ける宇崎さんに音楽との出合いや思いについてうかがいました。

 Q1.これまでの人生の中で、一番多く聴いた曲は何ですか?
 自分の意思で一番多く聴いた曲は……覚えていないですね。でも、インタビューやラジオ、テレビのトーク番組などで「あなたが最初に意識した音楽は何ですか?」と質問されたときには、エルヴィス・プレスリーの『ハート・ブレイクホテル』と答えています。そして、答えるたびにもう一度聴いてみたり、歌ってくださいとリクエストされたりすることもあるので、結果的には数多く聴いたのはこの曲になるかもしれません。
 最初に聴いたのは小学生のとき。兄、姉がいて、当時、家で流れているのはFEN(米軍の極東放送網、現在のAFN)でした。巷では三橋美智也さんや春日八郎さんの歌が流行っていて、子どもたちが意味もわからず口ずさんでいると、学校の先生に注意されたような時代。エルヴィスを聴いている小学生なんてまわりにはひとりもいなかったし、いわゆるマセガキでしたね。
 その後、ローリング・ストーンズやザ・ビートルズ、レッド・ツェッペリンなんかが出てきたりして、僕のヒーローは折々で変わっていきます。こうした音楽は僕の根底にあるとは思いますが、一方で影響はほとんど受けていない。なぜなら、本当に影響を受けていたら、彼らのような曲が書けていただろうから。
 自分が歴然とつくってきた音の世界は、それしかできなかった。でも、そこから抜け出して、自分にとっての新しいものを発見していきたいという思いは強いです。70歳を過ぎようが80歳になろうが、音楽家として日々成長したいんです。

 Q2.宇崎さんにとって「音」や「音楽」とは?
 難しい質問です。でも、もし音楽を仕事にしていなかったら、ただの“ろくでなし”でしょうね(笑)。僕は阿木燿子と結婚して1~2年後にプロの作曲家、バンドマンになれたのですが、もし音楽をやっていなければただの“ヒモ”になっていたと思います。といっても、飯もつくれないし、掃除もできない。こんな“ヒモ”は、とっとと追い出されているでしょう。学生時代から今にいたるまで、一日一善ならぬ「一日一曲」を自分に課しているのも、そういう癖をつけないとダラダラしてしまう人間だからですね。
 弾き語りライブのとき、お客さんからはひとりでやっているように見えるでしょう。でも実は僕のとなりにもうひとりの宇崎竜童がいて、「今、音程狂ったね」「そのトークは何だ!?」などいちいち僕にささやくものだから大変です。それでも、オファーしてくださる方がいる以上は、求められたら答えたいという思いで一生懸命やっています。なので、これまで音楽から離れたい、やめたいと思ったことはありません。でも、本音を言えば、なぜ今でも生で歌っているんだろうと思いますよ(笑)。
 そして、作曲家・宇崎竜童としては、地球のどこかの見知らぬ子どもが、誰の歌か知らずに口ずさんでしまうような……地球規模で愛される音楽がつくれたらいいと思っています。楽しみにしているなんて言わないでくださいね。プレッシャーになってしまいますから。

 Q3.「音で遊ぶ人」と聞いてどんな人を想像しますか?
 幼児です。子ども向けの番組を見て飛び跳ねている子どもたちを見ると、あの子たちが最も音に敏感で、一番音楽を楽しんでいるように思います。ある若い俳優さんと映画の仕事でご一緒した時、彼が最近よく聴いているという『パプリカ』をロケ先で聴かせてくれました。この曲を聴くと、子どもたちがぴょんぴょん跳ねるのだと。やっぱり子どもってそうやって音を楽しんでいるのだな、と思いましたね。
 僕はインスタグラムをやっていて、子ども支援のボランティア活動をしているアメリカ在住の方からのコメントでもそれを実感しました。その方は、僕がデビュー当時結成したダウン・タウン・ブギウギ・バンドのファンとのことで、そのリズミカルな曲を聴かせると子どもたちが飛んだり、跳ねたり、踊ったりするそうです。ただ、その曲は『ほいでもってブンブン』という暴走族の曲なので、いくら意味がわからないとはいえ変えた方がいいとお願いしたのですが(笑)。でも、子どもたちはブンブンといった擬音語に敏感に反応して、リズムとして体の中に入れるようです。意味もわからず、純粋に音と遊べるのは、やっぱり子どもですよね。

 宇崎竜童〔うざき・りゅうどう〕
 1973年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドでプロデビュー。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』『スモーキン’ブギ』などヒット曲を生み出す。作曲家としても多数のアーティストへ楽曲を提供。阿木燿子とのコンビで『プレイバックpart2』をはじめ山口百恵の多数のヒット曲を手掛け、その黄金時代を支えた。阿木とともに力を注いでいるライフワーク作品『Ay曽根崎心中』では音楽監督を務める。2019年阿木燿子と共に岩谷時子賞特別賞受賞。

*https://jp.yamaha.com/sp/myujin/monthly_myujin/ryudouzaki より

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<日本酒> 茨城 渡船/府中誉

2021-02-14 07:53:11 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈茨城〉 渡船/府中誉

 茨城県石岡市にある、府中誉酒造さんに行ってきました。
 地元が中心の「府中誉」、濾過前取りシリーズでお馴染みの「太平海」、復活栽培米を使用した吟醸酒 「渡舟」の3銘柄のお酒を造っています。
製造量約500石(一升瓶換算5万本)で小さな蔵元ですが約8割が地元で消費され、県外にはほとんど出荷されてい ないとのことです。(横浜では当店のみ、川崎でも2件のみです)
 原料米は地元茨城産の契約栽培米五百万石の他、平成2年より、一度栽培が途絶えた「渡船」 (山田錦の親に当たります)を復活させ、山田錦とは違う独特の味を生み出しています。
 平成8年には全国新酒鑑評会で金賞に輝いていますが、山田錦以外の酒 米ではほとんど例がないそうです。
 平成12年より代表の山内 孝明さんが杜氏として酒造りの責任者となり、茨城の気候、大地、水の恵みを糧に茨城が誇る真 の地酒を造り続けています。

*https://jizake-ya.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=1488925&csid=13 より

*https://jizake-ya.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=1488925&csid=13 より

 府中誉株式会社 茨城県石岡市国府5丁目9番32号

 ブランド一覧

 「渡舟」Premium30・純米大吟醸・大吟醸・ふなしぼり 無濾過原酒 など

 「太平海」無加圧・純米おり絡み・1314純米吟醸 など

 「府中誉」特醸酒・からくち など 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 51. ひばり野オクラ

2021-02-14 07:50:09 | 食品

 登録番号 第51号 ひばり野オクラ

 特定農林水産物等の区分 第2類 野菜類 その他果菜類(オクラ)

 特定農林水産物等の生産地 秋田県雄勝郡羽後町

 登録生産者団体 JAうご新成園芸組合

 特定農林水産物等の特性 身が大きいにもかかわらず、柔らかいオクラ。多彩な調理方法の料理に使用できる点や、安定した品質が評価されて、他産地オクラの3割~5割程度高値で取引されている。

 地域との結び付き 産地は秋田県内でも日照量が多い地域であり、ハウス栽培による温度管理が容易、これにより、オクラの生育に適した温度での栽培が可能。生産者が互いの圃場を巡回しながら栽培技術を改良し、地域として栽培技術の向上を図ってきたため、安定した品質のオクラの生産が可能。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i51.html より

 

 「ひばり野オクラ」は、身が長くて太く、青臭さがないオクラです。また、施設(ハウス)で栽培されるので露地栽培のものより短期間で成長するため、大きくてもふっくらと柔らかいという特徴があります。
 実が硬くなり難いため、多彩な調理方法の料理に使用できる点が評価されていることから、他産地のオクラに比べ3割~5割程度高値で取引されています。
 産地である秋田県ではなじみ深く消費者から人気がある逸品で、毎年5月頃から出荷されます。

 「ひばり野オクラ」の苗はポットで育苗されます。育苗時には、電熱線を利用して発芽温度を保ち、乾き過ぎないようにきめ細かい潅水を行い、その後、ハウスに移植し栽培を行います。
 オクラは暑さに強く寒さに弱い野菜であるため、夕方早めにハウスを閉めて、温度を確保するなど、定植後もきめ細かい栽培管理を実施します。
 「ひばり野オクラ」の出荷規格は、全長10cm~12cm、切口の長さは8mm~1cmとしています。

 「ひばり野オクラ」の名称は、羽後町内にある「雲雀野(ひばりの)」という地名に由来します。
 羽後町は奥羽山脈(1)と出羽丘陵(2)に囲まれた盆地です。このため、県内でも日照量が多く、ハウス栽培による温度管理が容易で、オクラの生育に適した温度での栽培が可能です。

 1976年に栽培を開始して以来、生産者が互いの圃場を巡回しながら、地域で栽培技術の改良、向上を図ってきたことが、食味の向上や収量の安定等に繋がっています。
 「大きくて柔らかい」特性にこだわり、これまで40年間生産活動を続けてきました。併せて、地域での消費拡大にも取り組んできた結果、生産量は2016年で37tに達しています。

(1)奥羽山脈:日本の東北地方の中央部を縦断する日本最長(およそ500km)の山脈です。青森県から、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、栃木県に至ります。
(2)出羽丘陵:東北地方の日本海側に南北に断続して分布する山地や丘陵地の総称で、出羽山地とも呼ばれます。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/51.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 41.回答 42.出題

2021-02-14 07:47:07 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 明明赫赫-めいめいかくかく(めいめいかっかく)-はっきりと非常に明るく光り輝く様子のこと。「明明」ははっきりとしている様子。「赫赫」は非常に明るく輝く様子。  

 


 問2 彊食自愛-きょうしょくじあい【彊食自愛】
つとめて食事を取って、からだを大事にすること。  

 


 問3 鉤心闘角-こうしんとうかく-高い建物がいくつも並んでそびえ立ち、密集しているさま。また、それぞれが智略をふるって争うことのたとえ。  

 

 問4 蓬莱弱水- ほうらいじゃくすい-はるか遠く離れていること。「蓬莱」は東にあって仙人が住んでいるとされる伝説の島。「弱水」は西にあるとされる伝説の川。「蓬莱」と「弱水」の距離は三十万里離れているとされていることから。 

 


 問5 支葉碩茂-しようせきも-本家と分家、一族の全てが繁栄すること。「支葉」は枝と葉のことで、本家と分家のたとえ。「碩茂」は大きく繁栄すること。「枝葉碩茂」とも書く。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 容貌魁偉  

 

 問2 尭年舜日  

 

 問3 甲論乙駁  

 

 問4 釈根灌枝  

 

 問5 楚材晋用

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 栃木 益子焼 

2021-02-14 07:42:15 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「益子焼」

 益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。以来、優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげます。

 現在、窯元は約250、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市が開かれます。
 用の美
 1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に 民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は 「芸術品」としての側面も、もつようになります。

 「濱田庄司」(1894-1978)
 民芸運動を推進した陶芸家。
 「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と書き残す。
 1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
 1968年文化勲章受賞。

 「島岡達三」(1919-2007)
 独自の「縄文象嵌」の世界を築いた陶芸家。
 1946年濱田庄司門下に。1962年日本民芸館賞を受賞。
 1996年重要無形文化財保持者認定を受ける。

*http://www.mashiko-kankou.org/pottery/ より

*https://kougeihin.jp/craft/0404/ より

 益子焼の起源は、笠間(茨城県)で陶技を身につけたといわれる大塚啓三郎が、現・栃木県茂木町から益子町にやって来て陶土を発見し、やきものを作りはじめた江戸時代の末期、1853(嘉永6)年の開窯とするのが一般的です。
 明治時代になっても陶業は順調に発展し続け、地の利を活かして広く関東一円をマーケットとして出荷されるようになっていきます。後に濱田庄司に激賞されることになった素朴な絵付が施された山水土瓶はこの当時誕生し、盛んに作られました。ところが明治末期になって、近代化を迎えた大消費地・東京の人々の生活様式が変化しはじめ、また、京焼など完成度の高い食器が台頭、さらにライバルでもあった笠間焼の製品もより多く市場に出廻り、益子焼の製品に影響をおよぼすようになります。益子にとっては、冬の時代の到来でした。
 大正12(1923)年、関東大震災が東京を襲い衰退しかかっていた陶産地・益子は、震災のもたらした好景気により、息を吹き返します。そしてその翌年、いわゆる民芸派の巨匠陶芸家・濱田庄司が、益子に工房を構えて制作をはじめたのです。
 益子焼の名は、濱田庄司の名声とともにますます広く浸透していきました。ついに1955(昭和30)年、その業績が評価され、濱田が「民芸陶器」の分野で人間国宝に認定されるのに呼応し、益子焼の名は世の中に轟くようになり、陶産地として、今日あるような地位と大衆的な人気を確立したのです。

*http://www.tougeizanmai.com/tabitetyou/004/index.htm より

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