いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

藤井二冠 高校中退

2021-02-17 16:20:48 | 将棋

 先日、藤井二冠が高校を中退したことを発表した。

 中学生の14歳2カ月で最年少プロ入り。

 中高一貫校だったため、「高校進学」に。

 その時点で「進学」という選択肢には疑問符が打たれたが、過去 中学生プロ棋士は全員高校進学している。-加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明。

 

 本人曰く「将棋に専念したい」は本音だろう。

 今年は「コロナ禍」のため前半戦のスケジュールが変更に。

 その中で7月に棋聖、8月に王位の「二冠」奪取。

 より「専念」したくなったことだろう。

 

 あと少しで卒業という時期の発表だったが、どうも「出席日数不足」だったとか。

 学校側の「配慮」で卒業できたかもしれないが、藤井二冠がそれを許せなかったのかも?

 学校側へ間違った批判がいかないよう、学校側が本日コメントを出したこともよかったのでは?

 「日々、強くなり活躍している姿を頼もしく、またうれしく感じています。これもみなさまの温かい応援があったからだと思っております。藤井くんは、本校で学んだ生徒であることに変わりはありません。今後とも応援のほど、よろしくお願いいたします。私たちもますますの活躍楽しみにしています。」(名古屋大学教育学部附属中・高等学校 辻浩校長)

  ほんと校長のコメントはいいものになった。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-杉田二郎

2021-02-17 07:18:38 | MUSIC

 「杉田二郎」

  1946年11月2日生まれの74歳

 

 杉田 二郎さん 2017年6月18日 インタビュー

 戦後生まれの第一世代、男性デュオ「ジローズ」が歌った『戦争を知らない子供たち』。世相や若者の思いを繁栄したこの名曲は、熟年世代の誰しもが一度は口ずさんでいるに違いない。賛否両論の渦を巻きおこしたこの曲に秘められた思いを時代背景とともに語る杉田二郎さん。フォークソングの全盛時代を駆け抜けた杉田さんの素顔に迫るインタビューだ。

 『戦争を知らない子供たち』をいつまでも歌い続けられる平和な国でありますように……
Profile 杉田二郎(すぎたじろう)1946年生まれ 京都市出身
1967年、アマチュアバンド時代に『ジローズ』を結成し、大学在学中の’69年に自ら作詞作曲を手掛けた卒業記念曲「あなただけに/マイハート」がレコード化。後、はしだのりひこらの『はしだのりひことシューベルツ』に仲間入りをする。’70年に再結成した『ジローズ』の「戦争を知らない子供たち」が記録的大ヒットとなり、翌年の第13回日本レコード大賞作詞賞を受賞。72年からソロアーティストとなり、「再会」が超ロングヒットセラーに。現在も音楽界の第一人者としてコンサートやイベント活動に奔走中。フォーク界を代表するアーティスト5人で結成した注目のユニット『ブラザーズ5』のリーダー。

 ――アメリカンフォークに魅せられて
 「高校2年生の頃、既に音楽活動をしていた友人が放課後の教室で学園祭で歌うフォークソングの練習をしていたのです。先輩後輩が一緒になって歌っている姿が楽しそうで…。それまで歌を歌った事なんてなかったけれど『フォークソングは、歌が上手下手なんて関係ない。自分達の思いを歌に託して歌う事が大切なんだ』そんな言葉が心に残り、彼らの仲間入りをしました。ブラザーズ・フォアやキングストーントリオとか、アメリカンフォークの大御所達のレコードがどんどん入ってきた時代です。そのレコードを聴いて『こんな世界があるんだ』と衝撃を受けこれ以来、来る日も来る日も歌いましたね。青春時代です」
 ――関西フォークブームの出発点「京都」
 「古い文化の中で新しい事を融合させている物凄くエキサイティングな街、京都。それが歌に上手くマッチングして、京都はロックもブルースもフォークも盛んでしたね。歴史の重厚さの中で、自分たちは一体何ができるのだろう…。そんな反動の中、大学時代は歌にのめり込んでいきました。僕は、在学中に結成していたアマチュアバンド『ジローズ』を解散。後に解散が間近だった『ザ・フォーク・クルセダーズ』の北山修さんの『京都のフォークのエネルギーを繋げていきたい』との思いが絡み、はしだのりひこさんが結成した新しいバンド『はしだのりひことシューベルツ』へ加入する事になったのです。リードギターとボーカルとしての本格的な始動となりました」
 ――「戦争を知らない子供たち」に込められた思い
 1970年大阪万博の年、北山修さん作詞・杉田二郎さん作曲の「戦争を知らない子供たち」を全日本アマチュアフォークシンガーズが歌い、翌年再結成された『ジローズ』によって歌われた。 
 「中学の頃、親戚の大人達が集まると、必ず会話は戦争体験の話。子供心にその傷跡の深さ、苦しみや悲しみをイメージできました。それが高校、大学になると、アメリカの音楽やファッションが入ってきて、自由な香りで流行に流され生意気になっていくのが自分でもわかるんです。大人と話をしても『もう時代は変わった! そんなのは古いんですよ!』みたいに。『今の若者は、戦争も知らないくせに生意気言うな!』と何度も怒鳴られました。
 後に北山修とその当時を振り返り議論しながら、『これからの時代は戦争体験者の話も大事にし、自分たちの世代以降は戦争のない世の中にしていかなければいけない。そういう思いを歌に残そう!』そんな気持ちで出来たのがあの曲です。優しい歌詞の一つ一つの言葉の深い思いをいつか理解してもらいたいという願いがこもっています。この曲を世に送り出した時、戦争に対する意識や歌詞の解釈の相違から、『賛成・反対』の意見が飛び交いました。学生運動が盛んな大学の学園祭などでこの曲を演奏すると、『帰れ帰れ』『歌え歌え』と怒号が飛び交うなんて事が良くありましたね
 ――団塊世代へエールを贈る夢のユニット「ブラザーズ5」
 2014年に、実力派アーティスト5人が、「ブラザーズ5」として団塊世代にエネルギーを与えるステージを繰り広げている。メンバーの音頭を取った杉田二郎さんを始め、堀内孝雄さん、ばんばひろふみさん、高山厳さん、因幡晃さんという、いずれも時代を代表するヒット曲を持つ面々だ。
 「因幡君以外はみんなグループ活動をしてきた4人です。仲間で歌うことの楽しさを知っているので、『みんなでやろうよ!せーの!』で自然発生的に勢いで集まりました。皆、自分の立ち位置が判っています。無理をしないでそれぞれがパワーを持ち合い、どこまで行こうかと目標を持ってます。努力したら何かできるんじゃないかと『エネルギーの出し方』を、探り始めているところなんです。『今』がようやくそれができる時です」
 今年でデビュー50周年を迎える杉田二郎さん。「ジローズ」当時と変わらない響きわたるような低音が魅力的で、講話を聴いているような時間が流れた。来たる3月30日、ミューズで開催される「アコースティックライブ」にどんなステージが待っているのか期待が高まる。

 2017年2月(聞き手:高橋牧子 編集長:山本英二)

*https://jyukunen.net/?p=62 より

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<日本酒> 茨城 富士大観/森島酒造

2021-02-17 07:07:11 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈茨城〉 富士大観/森島酒造

 

 Story 1 海をのぞむ小さな蔵の大きな決意。


 その挑戦は、茨城でいちばん海に近い小さな酒蔵から始まります。大きな決意のきっかけとなったのは、東日本大震災でした。

 茨城でいちばん海に近い場所で。
 太平洋に面した茨城県の日立市北部には、小さな海水浴場と漁港を擁する川尻海岸があります。そこから1歩、2歩…と数えていくと、70歩目でたどり着くのが、森島酒造。茨城でもっとも海に近い蔵です。

 あまりに海に近いので「酒づくりに井戸水は使えるのですか?」とよく聞かれますが、敷地内からくみあげている井戸水は、阿武隈山地南端の山々からの豊かな伏流水。硬水であることから日本酒づくりに適しています。日本画の巨匠・横山大観画伯の名を持つ銘酒の酒蔵として、地元の方々から愛されてきました。

 

 歴史を刻む大谷石の酒蔵。
 森島酒造には幾多の苦境を乗り越えてきた歴史があります。1945年、太平洋戦争の際は、空襲により蔵と家屋を焼失。当時の四代目・森嶋浩一郎が、耐火性に優れ、強固な大谷石を苦心の末に取り寄せ、蔵を建て直すことでただちに酒づくりを再開させたのです。

 そして、2011年。不運にも、さらなる苦難に向き合うことになりました。東日本大震災です。津波の浸水被害からは免れたものの、敷地内を横断する激しい地割れが起こり、出荷を待っていた多くの酒瓶が割れてしまいました。さらに、大谷石蔵の壁にまで大きな亀裂を入れたのです。

 

 未来のために、くだした決断。
 続く余震のなか、石壁の裂け目から差し込む陽の光。それを見つめていたのは、六代目・正一郎でした。茨城県出身者として初の南部杜氏資格に合格を果たして数年、跡継ぎとして蔵の未来を模索していたところの衝撃的な出来事だったのです。

 突然、つきつけられた厳しい現実。石蔵の完全修復は難しく、移転や廃業も考えましたが、悩んだ末にできる限りの修理を施し、この地で酒づくりを継続することを決意しました。そして歴史を刻んできた石蔵の壁に、森島酒造の復興と飛躍を誓ったのです。

 Story 2
 蔵の新しいスタンダードとなる酒を目指して。


 本格始動した、蔵の新しい時代をつくるブランドの構想。試行錯誤のなかで得たのは、たくさんの出会いと気づきでした。

 信じてくれる人たちのために。
 震災から復興していくなかで、蔵の将来のために自分がすべき事は何かと考えた時、思い至ったのは、蔵の代表銘柄に並ぶ、自分のブランドを生み出すということでした。そして大学で学んだ醸造の知識や修行時代に習得した技術をもとに、新たな酒づくりを本格的にスタートさせたのです。

 「とにかく旨い酒をつくりたい。そのためにはつくり手として昨日より今日、今日より明日、努力を惜しまず精進しなければならない。」
 その前向きな姿勢に可能性を感じてくれた県内外の酒屋さんや問屋さんと、新たな出会いと交流が生まれたことは、うれしい変化でした。「旨い酒をつくってくれれば、必ず売るから。」そういって信じてくれる人たちのためにも、必ず結果を出してみせると、改良を重ね続けていきます。

 

 人生を変えた師との出会い。
 ところが、なかなか納得する味をつくれない日々が続きます。酒屋さんからは「本当にこれで旨いと思っているの?」「本気で酒づくりしてる?」と、厳しい言葉をいただいたことも。つくりを何度も見直し、文献を読みあさりましたが、自分の理想とする味をなかなか醸し出すことができずにいました。

 そんなときに出会ったのが、業界を牽引する勝木慶一郎先生です。多くの酒蔵が師事する先生に、なんとかご指導いただけないか。茨城の小さな蔵には難しいことだと思いましたが、佐賀県まで足を運び、酒づくりに縣ける実直な想いを伝えました。そして、ついにご指導の機会を得たのです。

 

 旨い酒は、ひとりではつくれない。
 先生からご指導いただいたのは、長年の経験に基づく、洗練された酒づくり。それは人の力と和を大切にし、基本に忠実な製法であり、理論に基づく合理的な技術でした。一つひとつの工程を理解していくことで少しずつ疑問は解けていきました。そして、それらと同じくらい、旨い酒をつくるための姿勢や考え方を学ばせていただいたことも、大きな財産になったといえます。

 「家族を大切にしなさい」。それは、忘れられない言葉のひとつ。酒づくりはシーズンが始まれば、蔵につきっきりの生活になります。それに専念できるのは、支えてくれる家族がいるからこそ。旨い酒は杜氏だけでなく、家族、そして社員とともにつくりあげる作品。その大切さに改めて気づき、想いを新たにしたのです。

 

 Story 3
 ついに出荷のとき。まだ、挑戦は終わりません。


 設備や製法をすべて見直し、まっすぐに理想の味を求めて。さらなる可能性を追求し、『森嶋』は進化し続けます。

 自分自身に一石投じ、これまでの設備を一から見直す。
新たなブランドづくりの道のりは険しく、自分のなかにある酒づくりの常識を一度すべて見直し、自問自答する日々の連続でした。なかでも大きな覚悟を持って刷新したのが、醸造設備です。

 味わいの基礎となる理想の蒸し米をつくるため、四角のこしきを特注。さらに、0.3℃の微細な温度差を見極め、精密な温度管理を行える麹室を整備しました。とくにこだわったのは、冷蔵設備です。発酵過程で生まれる自然で繊細な香味を、そのまま酒にとけこませるために、搾り機を冷蔵室の中に設置。搾った酒の風味を損なわずベストな味わいで愉しんでいただくために、冷蔵タンクや保管庫を一新。「旨い酒をつくりたい」その想いで、気がつけばほとんどの設備が入れ替わり、森島酒造の歴史のなかでも短期間で最大規模の設備導入となりました。

 

 時代に合う味わいを、基本に忠実な製法で。
 理想の味わいをつくる上でのこだわり。そのひとつが、酒の核ともいえる酒米それぞれの個性を愉しむおいしさを表現することでした。選び抜いたのは、雄町、ひたち錦、山田錦、美山錦の4つ。熟考を重ね、精米歩合も5%刻みに決定。

 さらに、新たな酒づくりをするからには、自分だからできることを追求したい。食事に寄り添うきれいな“透明感”と“フレッシュ”な味わい。そして、口のなかをリセットし、いつまでも飲み続けられる“程良い酸”。自分がつくりたい「時代に合う味わい」は、これだ。そのために取り組んだのが、勝木先生からご指導いただいた基本に忠実な酒づくり。食事に寄り添う面から、香り高すぎず、甘すぎない酒質とするため、あえて伝統的な麹菌と酵母を選択。そして、時間をかけて一つひとつの普遍的な酒づくりの工程を理解し、身体に覚え込ませることによって、はじめてその味わいが表現できる。こうした研鑽を重ね、自分が本当に納得する「時代に合う味わい」に仕上げていきました。

 

 ブランド名に、決意を込めて。
 構想から約10年の月日を経て、ついに皆さまにお届けできるとき。覚悟を込めて命名したのは、自らの姓『森嶋』。飲む方のなかに新しい気づきがある一杯であってほしい。そして、つくり手である自身にも一石投じる姿勢を忘れずにいたいという想いから、ラベルデザインも実際に震災で崩れ落ちた、大谷石蔵の石片を使用しました。この石片は、どんな困難をも乗り越えていく、森島酒造の不屈の精神のシンボルとして大切にしているものです。

 今まで以上に日本酒の深遠さを感じていただけるような一杯へ。受け継がれてきた150年の伝統を守りながら、『森嶋』はこれからも挑戦と進化を続けます。

 森島酒造株式会社 茨城県日立市川尻町1-17-7

 ブランド一覧

 「森嶋」雄町 純米大吟醸・ひたち錦 辛口 純米吟醸-「ひたち錦」使用・山田錦 純米吟醸・美山錦 純米酒 など

 「富士大観」 純米大吟醸・大吟醸・熟成純米吟醸 など

 

 「ひたち錦」

 研究の背景とねらい
 茨城県内には54の酒造会社があり、それぞれ特色のある日本酒を製造しています。酒造組合からは茨城県産米を原料として独自ブランドの日本酒を造り、茨城県産の日本酒のイメージアップおよび販売の拡大を図りたいとの強い要望があります。一方、茨城県で栽培されている「美山錦」などの酒造好適米(以下、酒米)は、熟期や耐倒伏性など栽培特性および品質に難点がありました。このため、生産・実需の両方から、茨城県に適する高品質で栽培しやすい酒米の育成を開始しました。

 品種の特徴
 茨城県で初めて育成された酒米品種の「ひたち錦」は出穂期および成熟期が「コシヒカリ」より6日および8日程度遅い晩生の品種です。長稈ですが、稈が太く強稈のため耐倒伏性に優れています(写真)。
 いもち病抵抗性は「美山錦」および「山田錦」に対して明らかに優れています。イネ縞葉枯病には抵抗性を有しています。穂発芽はしにくく、収量は「日本晴」と同様に多収です。

*https://www.pref.ibaraki.jp/nourinsuisan/nosose/cont/h_nishiki.html より

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 54. 香川小原紅早生みかん

2021-02-17 07:04:35 | 食品

 登録番号 第54号 香川小原紅早生みかん

 特定農林水産物等の区分 第3類 果実類 うんしゅうみかん

 特定農林水産物等の生産地 香川県

 登録生産者団体 香川県農業協同組合

 特定農林水産物等の特性 果皮の色が鮮やかな濃紅色であることが特徴の温州みかん。国内で栽培されている約100品種の温州みかんの内で最も紅いといわれている。糖度と酸度のバランスがとれ食味が良い。

 地域との結び付き 夏秋期に雨が少なく、日照時間が長い瀬戸内海式気候は、みかんの栽培に適しており、古くから高品質なみかんが栽培されてきた。香川県坂出市で偶然発見された「枝変わりの紅いみかん」を差別化商品として地域で育成。地域が一体となり品質向上に努め、消費宣伝活動に取り組んだことで消費者へ「美味しい紅いみかん」のイメージが定着し、特産品としての地位を築いた。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i54.html より

 「香川小原紅早生みかん」は、果皮が鮮やかな濃紅色であることが特徴の温州みかんです。国内で栽培されている約100品種の温州みかんの中で最も紅いといわれています。
 個々の園地の生育状況を確認し、その栽培環境に合わせたきめ細かな栽培管理指導を行うことで、産地全体で糖度と酸度のバランスのとれた果実が生産されています。また、厳しい品質管理によって、市場には良食味の青果のみを流通させています。
 特に、ハウス栽培されたものは、温州みかんの出荷時期ではない夏場に食べることができる「紅くて甘いみかん」として、高単価で取引されています。

 「香川小原紅早生みかん」は、品種として「小原紅早生」を用い、香川県内で栽培された温州みかんです。
 植栽から収穫まで独自の栽培管理基準を守って生産されます。また、地域の技術指導員が園地を巡回し、個々の園地に合わせた栽培管理指導も行われています。
 出荷は、香川小原紅早生みかん出荷規格に基づき行われています。

 生産地は、夏から秋に雨が少なく日照時間が長いことから、みかんの栽培に適した地域です。このため、この地域では古くから高品質なみかんが栽培されてきました。
 「小原紅早生」は、1973年、香川県坂出市で偶然発見された「枝変わり(1)」の紅いみかんを地域の人たちが接ぎ木で増やし、長い時間をかけて育てた香川県のオリジナル品種です。
 産地では、育成に加え、消費宣伝活動に取り組んだことで、消費者への認知を高め、特産品としての地位を築いてきた歴史があります。

 1993年に「香川小原紅早生みかん」が、わが国で品種登録されたことを契機に、「種苗登録品種小原紅早生みかん生産振興協議会」が設立されました。
 苗木の増殖と生産技術の普及推進に取り組んできた結果、県内各地に産地が拡大し、生産量も増加するとともに、現在では海外輸出も進めています。

 (1)枝変わり:植物の特定の枝だけが突然変異などによって形質を変える現象です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/54.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 44.回答 45.出題

2021-02-17 06:58:56 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 梧桐一葉-ごどういちよう-物事が衰える前兆のこと。「梧桐」は植物のあおぎりのこと。あおぎりは他の木よりも早く葉が落ちるとされ、あおぎりの葉が一枚落ちるのを見て、秋が来ることを知るという意味から。  

 


 問2 秋風索莫-しゅうふうさくばく-秋風が吹き、物さびしいさま。盛んであった物事の勢いが衰えて、物さびしいたとえとしても用いられる。▽「索莫」は物さびしいさま。また、失意のさま。「莫」は「寞」「漠」とも書く。  

 


 問3 狐死首丘-こししゅきゅう-故郷を忘れないことのたとえ。また、物事の根本を忘れないことのたとえ。  

 


 問4 先庚後庚-せんこうこうこう-失敗しないように注意深く物事を行うこと。
「庚」は変えるという意味。易経の言葉で、物事を変える時には、変える前と後のことをしっかりと説明するべきであるということ。「庚に先だち庚に後る」とも読む。  

 


 問5 情緒纏綿-じょうしょてんめん-喜怒哀楽などの感情が深く突き動かされ、離れがたいこと。趣や雰囲気、情愛などがいつまでも心にまとわりつくこと。また、愛情がこまやかなことにもいう。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 孟母三遷  

 

 問2 侯覇臥轍  

 

 問3 首鼠両端  

 

 問4 意気軒昂  

 

 問5 風餐雨臥

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 埼玉 春日部桐箪笥

2021-02-17 06:53:37 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「春日部桐箪笥」

 春日部桐箪笥の歴史  

  江戸時代初期、日光東照宮を作るために集まった職人が、日光街道の宿場町である春日部に住みつき、周辺で採れるキリの木を材料とした指物や小物を作り始めたのが始まりであると伝えられています。 江戸時代中頃の文献に、10人ほどの業者が記されていることや、「明和9年(1772年)」の裏書きのある桐箪笥が現存すること等から、すでに産地の形が整い始めたのがうかがえます。

 春日部桐箪笥の特徴

 防湿性
 桐材は湿気にあうと、膨張して目がつまり、乾燥すると収縮して元に戻る性質があります。そのため、湿気を極度に嫌う衣服の保護収納に最適です。
 難燃性
 桐は燃えにくく、火災のときに水をかけると膨張してすき間がなくなり火が入りません。たんすの表面 がこげただけで内側の衣類が無傷で助かった例はいくらもあります。
 軽 量
 桐材は他の木材と比べてたいへん軽く、狂いが少ないので、ひき出しの出し入れや持ち運びが楽です。

*http://www.kasukabe-tokusan.jp/4kiritansu/tan_top.html より

*https://kougeihin.jp/craft/0607/ より

 

 Description / 特徴・産地

 春日部桐箪笥とは?
 春日部桐箪笥(かすかべきりたんす)は、埼玉県さいたま市・春日部市周辺で作られている木工品です。
 春日部桐箪笥の特徴は、木の直線を基調にしたシンプルなデザインです。部品の接合においても、金くぎを使わない木の感じをしっかりと残す工夫が施されています。桐の美しい木目を活かした温かみのあるデザインは、今でも人々に愛され続けています。
 春日部桐箪笥のもととなっている桐は、防湿性と難燃性に優れ、また他の木材と比べて軽いと言われています。まず、防湿性についてですが、桐は湿気を帯びると膨張し、乾燥すると収縮する性質のある木です。そのため、湿気を箪笥の中まで通さず、湿気に弱い素材の衣服もしっかりと保存できます。また、桐は燃えにくいということでもよく知られた木です。このように、他の木材と比較して防湿性や難燃性の高い、桐で作られた春日部桐箪笥は、衣服を大切に保管するのに適した箪笥だということが分かります。

 History / 歴史
 春日部桐箪笥の起源として有力な説とされているのは、1624年(寛永1年)から1644年(正保1年)にかけて日光東照宮の造営に携わった工匠が春日部に住み着き、小箱づくりなどを始めたとされています。
 春日部桐箪笥が作り始められた当初は、農業の合間に行うというスタイルが多く、箪笥づくりを専業とする箱指屋はあまり見られませんでした。しかし、1830年(天保1年)頃になると状況が変わります。当時日本で栄えた江戸に近い古利根川や江戸川によって、江戸への輸送に恵まれたからです。この頃になると、専門で桐箪笥づくりを行う箱指屋も増えていきました。
 そして、明治時代になると交通の便が良くなったことなどで、東京に限らず大阪や広島、福岡などと広い範囲に販路が拡大していきます。この販路の拡大が、春日部桐箪笥が全国に知られる要因となりました。現在、春日部桐箪笥は昔ながらの形を守りながら、現代の要素を取り入れたインテリアとしても発展を続けています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kasukabekiritansu/ より

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