昨日から始まった「全豪オープン」。
一回戦に登場した錦織圭くん。
対戦相手は、ランク16位のパブロ カレノブスタ。
過去対戦成績は、1勝0敗。
しかし・・・0-3で敗退。
やはり豪州入りして2週間の待機命令が、練習不足・体力不足を。
次戦は、「ABNアムロ世界テニストーナメント2021(ロッテルダム・オープン)」-3/1~
昨日から始まった「全豪オープン」。
一回戦に登場した錦織圭くん。
対戦相手は、ランク16位のパブロ カレノブスタ。
過去対戦成績は、1勝0敗。
しかし・・・0-3で敗退。
やはり豪州入りして2週間の待機命令が、練習不足・体力不足を。
次戦は、「ABNアムロ世界テニストーナメント2021(ロッテルダム・オープン)」-3/1~
「ディープパープル」
1967年に結成されたディープ・パープル 。1976年から1984年までの8年間にわたる活動休止期間はあるものの、現在も「第9期」メンバーにより存続するモンスター・バンドです。この「第9期」という数からお判りのとおり、度重なるメンバー・チェンジが行われたバンドとしても知られています。まず、そのメンバーの移り変わりからご紹介しましょう。
第1期となるオリジナル・メンバーは、ジョン・ロード(Key)、リッチー・ブラックモア(G)、イアン・ペイス(Ds)、ニック・シンパー(B)、ロッド・エヴァンス(Vo)の5人でした。このメンバーで1968年 ハッシュ 、1969年 詩人タリエシンの世界 、1969年 ディープ・パープルⅢ の3枚のアルバムを残しています。ディープ・パープルといえばまず誰もが想像するハード・ロックのイメージは、この時点ではまだ感じられません。ジョン・ロードのキーボードを前面に押し出した彼らのサウンドは、アメリン・マーケットを意識したポップなサウンドが特徴でした。この方向性に満足をしていなかったジョン、リッチー、イアンの3人は、よりハードなサウンドを追求するためにメンバー・チェンジを行います。
そして、ファンの間では黄金期と呼ばれる第2期のメンバーへとディープ・パープルは変化しました。ボーカルにイアン・ギラン、ベースにロジャー・グローヴァーを迎えた彼らのサウンドは、「もっとヘヴィなロックを」と願っていたリッチーの思惑どおりに、ブリティッシュ・ハード・ロックの象徴的なサウンドへと変化しました。1970年、このメンバーでの初のスタジオ・アルバムとなる イン・ロック を皮切りに、1971年 ファイアボール では全英でチャートでも1位を獲得、1972年には歴史的名盤の2枚、 マシン・ヘッド と ライヴ・イン・ジャパン をリリースし、次々とヒット作を生み出していきました。しかし ライヴ・イン・ジャパン での日本公演終了以降、バンドのメンバー間でのトラブルが起こりがちとなり、過酷なスケジュールなども災いの元となって、ついにイアン・ギランとロジャー・グローヴァーは脱退を表明することとなってしまいます。しかし、残された3人は、またまたモノ凄いメンバーを加入させることに成功しました。
第3期、ベースにグレン・ヒューズ、ボーカルにはデヴィッド・カヴァーデイルを迎え入れました。既に確立されていたヘヴィ・メタルの原点とも言えるサウンド・スタイルに、ファンキーな要素などが加味され、幅広い音楽性を啓示した 紫の炎 は大ヒットを記録しました。その後のツアーでも健在ぶりをアピールするには充分過ぎるほど、凄まじいステージングを披露していました。ビデオにて発売されている カリフォルニア・ジャム は、この第3期メンバーによるライヴを収録したもので、その過激なパフォーマンスを見ることが出来ます。しかし、このスーパー・バンドとしての地位を確立した立役者的なリッチーの意見があまり通らない、よりソウルフルなサウンドへの方向性を打ち出したディープ・パープルは、セールス面では落ち込み、そして最悪の結果とも言える、リッチーを失うことにまでなってしまったのです。1975年のヨーロッパ・ツアーを最後に、リッチーはバンドを去り、レインボーを結成しました。
残ったメンバーは、リッチーの後任として、ファンク系バンドで活躍をしていたというトミー・ボーリンを迎え、 カム・テイスト・ザ・バンド をリリースします。しかし、このポップ・フィーリングの強いアルバムは、かつてのファンを失う結果となり、メンバー間のトラブルも発生、1976年、ディープ・パープルは解散しました。これが第4期です。
そして1984年、ビッグ・ニュースが世界中を駆け巡りました。それは黄金期「第2期」のメンバーにてディープ・パープルが再結成されるというものでした。アルバム パーフェクト・ストレンジャー をリリース、ワールド・ツアーも行いました。サウンド的には後期レインボーをイメージさせるものへと変化しており、ファンの間では賛否両論であったものの、「第5期」のスタートは結果的には大成功を収めたと言えるものでした。しかし1990年代に入り、イアン・ギランは脱退を表明します。自身の音楽性を追及するためとの理由でした。
イアン・ギランの後任として選ばれたボーカリストはなんとジョー・リン・ターナー。これが第6期のラインナップでした。ふたりのフロント・マンが共通してしまうレインボーとの差別化はあまり感じられず、これを否定する昔ながらのファンも多くいたようです。このメンバーもやはり長続きせず、ジョー・リン・ターナーは脱退しました。
記念すべき結成25周年を迎えた1993年、改めてイアン・ギランをボーカルに迎えた第7期ディープ・パープルは、紫の聖戦を発表、ツアーに出るものの、以前から確執のあったギランとリッチーが原因となり、今度はリッチーがバンドを離れてしまいました。そして後任ギタリストとして迎えたジョー・サトリアーニ、スティーヴ・モーズが在籍するメンバー構成が、それぞれ第8期、第9期となります。
と、このようにメンバーの交代劇を書き出すだけでもとても長い文章になってしまうスーパー・バンド、ディープ・パープル。オリジナル・メンバーであり、一度も出入りの無かったジョン・ロードとイアン・ペイスがやはり中心となっているのでしょうか。レインボー時代、ボーカリストが何度も変わったことから「首切り魔」と囁かれたリッチー・ブラックモアも、ここではそのような部分をあまり見せていません。第2期、第3期あたりの黄金期のサウンド・デザインは、彼無くしてはありえなかったのですが、決して「リッチー・ブラックモアズ・ディープ・パープル」とはならなかったことなどからも、その他メンバー、とくにジョンとイアンが重要なポジションにあったのではと想像してしまいます。
でもやっぱりリッチー。そういうファンが多かったからこそ1976年にディープ・パープルは解散し、レインボーは人気バンドとなりました。フィンガーボードがエグってある白いストラト。トレードマークであるこのギターとともに、彼のプレイはイングウェイ・マルムスティーンだけではなく、多くのギタリストに影響を与えています。そしてそのスタイルは、このディープ・パープル時代に生み出されたものだったのです。
*https://www.hmv.co.jp/artist_Deep-Purple_000000000002015/biography/ より
イアン・ギラン- 1945年8月19日生まれの75歳
スティーヴ・モーズ-1954年7月28日生まれの71歳
ロジャー・グローヴァー- 1945年11月30日生まれの75歳
ドン・エイリー-1948年6月21日生まれの72歳
イアン・ペイス-1948年6月29日生まれの72歳
元メンバー
リッチー・ブラックモア- 1945年4月14日生まれの75歳
【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
〈茨城〉 御慶事/青木酒造
贈る人の心を伝える伝統の銘酒をつくる―青木酒造株式会社
青木酒造について
昭和31年頃。今も現存する青木酒造の店頭前です。 赤ちゃんの7代目蔵元も写っています! 当時はこれだけの人手が酒造りのために集まってきていました。
青木酒造は天保2年(1831年)十一代将軍家斉の時代に、茨城県西部渡良瀬川と利根川の交わる古河に創業しました。現在では古河唯一の地酒を造る酒屋として、小規模ながらも家族で営み、代々受け継いできた土地や伝統を守っています。
清酒御慶事は三代目当主が大正天皇御成婚の折、皇室の繁栄と日本の国のますますの隆盛への願いを込めて「最高のよろこびごと」という意味で「御慶事」と命名したのです。
古河で唯一の地酒として地元をはじめ、広く愛飲されております。
酒造りを通して、杜氏の技術や日本酒文化を後世に伝えていくことはもちろん、私たちが誇る茨城の自然の恵みを、もっと多くの方々に感じて頂きたいと考えています。
茨城・古河への想い
代表銘柄「御慶事」では、茨城県の酒造好適米「ひたち錦」や県産の酵母、茨城のブランド米「ふくまる」などを使用して酒造りを行っています。
豊かな水と大地の恵みを与えてくれる古河への恩返し、そしてこれまで私たち酒蔵を支えて下さった地元の方々への感謝の気持ちを胸に、これからも茨城や古河のまちづくりの一翼を担う意識を大切にしながら、変わらない品質で酒造りを行えるよう努力してまいります。
青木酒造 株式会社 茨城県古河市本町2丁目15番11号
ブランド一覧
「御慶事」 袋吊り斗瓶取り 純米大吟醸・純米大吟醸・袋吊り斗瓶取り 大吟醸 など
「
登録番号 第46号 桜島小みかん
特定農林水産物等の区分 第3類 果実類 その他かんきつ類(紀州みかん)
特定農林水産物等の生産地 鹿児島市桜島横山町、桜島白浜町、桜島二俣町、桜島松浦町、桜島西道町、桜島藤野町、桜島武町、桜島赤生原町、桜島小池町、桜島赤水町、新島町(平成16年10月31日時点における行政区画名としての鹿児島県鹿児島郡桜島町)
登録生産者団体 鹿児島みらい農業協同組合
特定農林水産物等の特性 果実は極めて小さいが、果肉は柔らかく多汁で、甘さと酸味のバランスがとれ食味が良いみかん。果皮には、柑橘系特有の爽やかな香気がある。
地域との結び付き 周囲を海に囲まれ年間を通して温暖で日照条件にも恵まれている桜島では、温州みかんと系統が異なる「小みかん」が島の重要な商品作物として古くから栽培されてきた。屋根掛けハウスの下で水分管理を適切に行うことにより、サイズの揃いの良い果実を生産し、現在も地域の特産品となっている。
*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i46.html より
「桜島小みかん」は、鹿児島県の「桜島(1)」で栽培されている果実が極めて小さな「みかん」です。
果実は小さいものの、果肉は柔らかく多汁で、甘さと酸味のバランスがとれた食味の良さが特徴です。また、果皮には、柑橘系特有の爽やかな香気があり、薬味としても利用されています。
「桜島小みかん 」の収穫期は概ね11月下旬から12月下旬で、出荷量には限りがあるため、希少価値が高く、地元の市場関係者からは高い評価を受けています。
「桜島小みかん」の栽培は、活火山である「桜島」の降灰の被害を防ぐとともに、適切な水分管理を行うため、「屋根掛けハウス(2)」で行います。
生産者は、「桜島小みかんの出荷規格」を遵守し、傷及び病害虫被害等の少ない、形状の良い果実を出荷します。なお、「桜島小みかんの出荷規格」を満たしているものの、着色不良等、外観が劣るものは、青果として出荷はできませんが、加工用として利用することができます。
「桜島」は周囲を海に囲まれ年間を通して温暖で日照条件にも恵まれており、古くから「小みかん」の栽培が行われてきました。文献によれば、江戸時代(3)から栽培されてきた記録があり、地域には、樹齢100年を超える古木も散在しています。
「桜島小みかん」は、消費地の鹿児島では、数少ない県内産のお歳暮(4)商材として重宝されており、食用以外にも、お正月の「しめ縄(5)」や「鏡餅飾り(6)」としての利用など、地域に根ざした産品となっています。
古くから生産が続けられてきた「小みかん」は、1979年に「屋根掛けハウス」が導入され、現在の栽培方法が定着しました。
1983年には、「桜島町農業協同組合」による集荷販売体制が整い、本格的に生産振興・販売促進に向けた体制づくりが進み、今日に至っています。
(1)桜島:鹿児島県の錦江湾内にある半島です。かつては島でしたが1914年の噴火により大隅半島と陸続きになりました。現在も噴火が続いている鹿児島県のシンボルです。
(2)屋根掛けハウス:一般的なビニールハウスは、施設全体をビニールで覆い温室として利用しますが、温暖な鹿児島では、ハウスの上部だけをビニールで覆い降灰対策用の施設として利用しています。
(3)江戸時代:1603年~1867年。日本の時代区分の一つで、江戸(現在の東京)に幕府が置かれていた時代を指します。徳川家康を初代将軍とし以後徳川将軍家を中心とした藩政政治が行われました。
(4)お歳暮:日本では1年に2回、お世話になった方に対して、「感謝の気持ちを込めて」、贈り物をする習慣があります。夏は「お中元」、冬は「お歳暮」と言います。
(5)しめ縄:「お正月に神様をお迎えしやすく」、かつ「悪いものを家に入れない」という2つの意味から、藁を編み、飾りを付けてつくる伝統的な飾りです。新年を迎えるにあたり家の軒先に飾ります。
(6)鏡餅飾り:「しめ縄」と同様に、新年を迎えるにあたり家の中に飾るもの。平たい餅を二つ重ね、その上に、飾りとして「みかん」を載せるが一般的です。
*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/46.html より
前回の回答
問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。
問1 鶏鳴狗盗- けいめいくとう-小策を弄ろうする人や、くだらない技能をもつ人、つまらないことしかできない人のたとえ。また、つまらないことでも何かの役に立つことがあるたとえ。▽「鶏鳴」は鶏の鳴きまねをすること。「狗盗」は犬のようにこそこそと、わずかばかりの物を盗むこと。卑しいことをして人をあざむく者のたとえ。
問2 紅粉青蛾- こうふんせいが-美人を言い表す言葉。または、美しい化粧のこと。「紅粉」は口紅と白粉のこと。「青蛾」は眉を蛾の触角のように、細長く三日月の形で青い色で描くこと。
問3 蘭亭殉葬-らんていじゅんそう-書画などの骨董品を強く愛好し、執着すること。「蘭亭」は『蘭亭集序』という書作品の名前。「殉葬」は死者と共に葬ること。中国の唐の太宗は「蘭亭集序」を偏愛し、自身の死後、原本を棺に一緒に入れるように命令を残したという故事から。
問4 行住坐臥- ぎょうじゅうざが-日常の立ち居振る舞いのこと。転じて、ふだん・常々の意。▽「行」は歩くこと。「住」はとどまること。「坐」は座ること。「臥」は寝ること。仏教ではこれを四威儀という。
問5 鉤縄規矩-こうじょうきく-物事や行為の標準・基準になるもののこと。物事の手本。きまり。▽「鉤」は先の曲がったかぎの意。ここでは曲線を描くための道具。半規または曲尺という説もあり、その形状は未詳。「縄」は直線を引くための墨縄のこと。「規」はコンパス・ぶんまわしのことで、円を描くのに用いる。「矩」は方形を描く差し金(直角に曲がった物差し)。
今回の出題
問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。
問1 刑鞭蒲朽
問2 柳眉倒豎
問3 胡馬北風
問4 傭書自資
問5 無知蒙昧
*漢字検定Web問題集 HP より
*goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より
「奥会津編み組細工」
福島県大沼郡三島町の荒屋敷遺跡において、縄や籠の編み組等の断片が発掘されており、縄文時代より編み組の技術・技法が存在したことが明らかとなっています。
「会津農書」には、会津地方において野草の縄をもって籠を作っていると記されており、「東遊雑記」には、現在の三島町近郊において山菅(ヒロロ)を材料として蓑などの編み組細工が作られていると記されています。
また「伊那伊北谷四ヶ組風俗帳」には、マタタビの蔓を細くして「笊」を作り、山ブドウの皮で袋網(籠)を作っていたと記述されていることから、この時代においても、ヒロロ細工、マタタビ細工、山ブドウ細工が日常の生活用品として作られていたことがうかがわれ、今日まで受け継がれています。
福島県大沼郡三島町においては、昭和40年代から高齢化により、編み組細工製造従事者が減少していることから、数百年来受け継がれてきた技術・技法を維持・伝承するとともに自然との共生を目指す生活工芸品を地域産業として振興し発展することを目的とし、編み組細工の技術指導、品質管理、需要開拓等の『生活工芸運動』を重点施策として推進してきており、今日では従事者数も増加してきてます。
*https://jtcw.jp/2020/report/amikumi/ より
*https://kougeihin.jp/craft/0606/ より
産地
福島県 三島町
歴史
奥会津地方は、全国でも有数の豪雪地帯であり、雪国特有の生活文化が育まれてきました。奥会津編み組細工も雪国だからこそ継承されてきたものです。
その原形は、会津農書写本(1748年著)や東遊雑記(1788年著)、伊南伊北谷四ヶ組風俗帳(1807年著)に記録されており、元来農作業や山仕事、日常の生活に用いる籠や笊として作られてきたものです。
雪に閉ざされる冬の間の仕事として、親から子へ、子から孫へと受け継がれ、素朴で堅牢な工芸品へと発展してきました。
その過程には、三島町が進めてきた生活工芸運動が大きく影響しています。昭和47年から町主催の展示会を行うなどの支援を続けてきたことで、地域住民に浸透してきました。
現在では100人を超える工人たちが取り組み、地域の文化と経済の一端を担っています。
特徴
奥会津編み組細工には、ヒロロ細工・山ブドウ細工・マタタビ細工の3種類があります。
ヒロロ細工は、ヒロロ(和名:ミヤマカンスゲ)を主な材料とし、手さげ籠等の製品が作られています。編み目が細かく、レース編みのような仕上がりが特徴で素朴さの中にも独自の繊細さがあります。
山ブドウ細工は、強靭な山ブドウ蔓の皮を材料とし、手さげ籠等の製品が作られています。山ブドウの皮は使い込むほどにつやが出て素朴な魅力を増します。
マタタビ細工は、マタタビ蔓を材料とし、米研ぎ笊、四つ目笊等主に炊事用具として用いられてきました。水切れが良いことに加え、水分を含むとしなやかになり手触りがよいのが特徴です。
3種とも材料の採取から完成に至るまで全て手作業で行われています。今では手提げ籠などいろいろな工芸品の材料として使用されています。
*https://www.tohoku.meti.go.jp/s_cyusyo/densan-ver3/html/item/fukusima_04.htm より