いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<言 葉> 行旅死亡人

2021-02-01 10:02:09 | 言葉

 ホテルに5年4か月滞在、謎の女性死亡…「病院は行きたくない」部屋に現金750万円 2020年12月31日 11時17分 読売新聞オンライン

 全国有数の温泉地・大分県別府市のビジネスホテルで今年、「井出百枝いでももえ」と名乗る高齢女性が亡くなった。

 女性はこのホテルに5年4か月間滞在。部屋からは現金約750万円が見つかった。市は、身元不明の「行旅-こうりょ死亡人」として官報に掲載し、情報提供を呼びかけているが、特定には至っていない。

 別府市消防本部によると、女性は今年3月、ビジネスホテルの部屋のトイレで倒れ、搬送先の病院で死亡が確認された。県警によると、事件性はないという。


 官報によると、女性は2014年11月から、このホテルに滞在。1935年生まれの「井出百枝」と名乗った。身長1メートル53で、白髪交じりの短髪だった。

 遺品は現金のほか、指輪やバッグなど。健康保険証などの身元が確認できるものはなかった。ホテルは1泊4000円程度で、滞在期間の宿泊費は700万円を超える計算になるが、女性はきちんと払っていた。

 関係者によると、別府市職員と福祉関係者が昨年末、ホテルに長期滞在する女性が体調を崩したとの情報を受け、部屋を訪ねた。風邪の症状があった女性は「病院には行きたくない」と拒んだという。

 今年1月頃、市職員と福祉関係者が部屋を再訪。高齢者施設を紹介しようとしたが、部屋には入れてもらえず、女性は「ホテルが一番落ち着く」と申し出を断った。2月頃の3度目の訪問でも「ホテルにいたい」と繰り返した。女性は「親族はいない」とも話していた。

 女性の遺体は火葬され、市内の納骨堂に安置された。今も身元は分からず、遺品の受取人もいないため、市は今月、財産の処分などを行う相続財産管理人の選任を大分家裁に申し立てた。今後、ホームページに遺品を掲載して情報提供を求めることも検討する。

 市福祉政策課の田辺裕課長は「身元が分からずに、行政が火葬の手続きをするのは悲しいことだ。なんとか親族を見つけ、弔ってもらいたい」と話している。

 

 「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」とは、日本において、本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指す言葉で、行き倒れている人の身分を表す法律上の呼称でもある。「行旅」とあるが、その定義から必ずしも旅行中の死者であるとは限らない。なお、「行路死亡人」は誤り。*Wikipedia より

 

 なんとも悲しい結末を迎えた「行旅死亡人」。

 「身元確認」ができて「遺族や関係者」に「遺骨」を渡せることはあるのか?そしてちゃんと「埋葬」されることを望むばかりである。

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今年の節分は、明日-2月2日です 恵方巻は黙食で

2021-02-01 09:09:19 | 米屋の親父のつぶやき

 今年の節分は、明日-2月2日です。

 ずっと「2月3日」だったので何故?という疑問が湧いて、でもそれが普通です。

 といいつつ「2月4日」だった日もあったはず。

 小学校でそういや「節分は2月3日か4日」と教わったような・・・

 

 もう殆どの人が「2月4日」が節分だったことを、鮮明に覚えてはいないかも?

 なにせ「2月4日が節分」だったのは、1984年が最後。昭和59年、そう37年前ですからね(笑

 小学校で「3日か4日」と教わったのは、2021年なんて考えてもいなかったから?

 でもよくよく考えてみたら、高校だったかの頃、「雑学」で「節分は2月2~4日」と知ったと記憶している。

 小学生には「ややこしい」から、先生は「3日か4日」と教えたのかも?(笑

 文化系だったもので、「理科」なんぞはあまり勉強しなかったので(恥

 

 昭和59年以前は、「閏年」の時は「2月4日」となっていた。

 でももっと古くから調べると、2年連続で「4日」になっていたりと、単に「閏年」というわけではなかったらしい。

 そして今から124年前の明治30年は「2月2日」だったのです。

 

 じゃあ誰が「節分の日」を決めているの?という根本を知らねばなるまい。

 「節分は暦-太陰太陽暦によって決められている」というのが正解。

 

 昨年2020年は「閏年」でした。

 で今年の節分が「2日」。

 2024年が閏年のため、翌年-2025年の節分は「2日」となります。

 2057年まで「閏年の翌年は2日」となりますが、2058年は連続で「2日」に。

 その後は・・・

 2057年-2日

 2058年-2日

 2059年-3日

 2060年-3日

 2061年-2日

 2062年-2日

 2063年-3日

 2064年-3日・・・・

 もう40年以上先のことはいいでしょう(笑

 

 あと「恵方」ですが、これまた法則が決まっています。

 西暦の下一桁によって決まっています。

 下一桁が2,7:北北西
 下一桁が1,3,6,8:南南東
 下一桁が0,5:西南西
 下一桁が4,9:東北東

 そう「恵方」はたった4種類しかないのです。

 で、今年は「南南東」です。

 

 今年は「黙食」が定着するかも?といわれていますが、「恵方巻」を食べるときは「黙って願い事を祈りながら」食べる、そう「黙食」してくださいね(笑

 

 

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-日野皓正

2021-02-01 07:35:13 | MUSIC

 「日野皓正」

  1942年10月25日生まれの78歳

 

 究める国際的トランペッター

 9歳の頃からトランペットを始め、現在では「世界のヒノ」としてその名を知られるトランペット奏者、日野皓正さん。パワフルかつ繊細に、自在にトランペットを操るテクニックと心に響くステージングはジャズ界だけでなく、幅広い音楽シーンに影響を与えています。近頃では、国内外のコンサートやレコーディングのかたわら、「アジアを一つの国に」というテーマを掲げアジア地域での演奏活動や学生たちへのジャズクリニックなどにも積極的に参加されています。今年で5回を数える、関西の中高生ビッグバンドが集まる神戸元町で開催されるJAZZ PICNICにも初回からゲストプレイヤーとして参加、その気さくな人柄は学生たちから絶大な人気を集めています。今回は日野さんに神戸という街の印象、ジャズ教育についてうかがってみました。

 1942年東京生まれ。9歳の頃からトランペットを学び始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンスバンドで活動を始める。国内外で公演を行うかたわら、チャリティー活動やジャズ教育などの方面でも活躍。大阪音楽大学短期大学部客員教授。2004年には紫綬褒章を受章。

 「神戸はやっぱりオシャレな雰囲気だね」まずは神戸のイメージを。

 中高生のビッグバンドイベント元町JAZZ PICNICにゲストプレイヤーとして毎年神戸を訪れている日野さん。数多くの国や街でさまざまな文化に触れている日野さんからみた神戸はどんなイメージなのでしょうか。

 「神戸はやっぱりちょっとオシャレな感じがするね。神戸と横浜はどっちも『ジャズ発祥の地』って言い張ってるみたいだけど(笑)、どちらも港町ならではの独特な雰囲気がある。山と海があって建物も美しい。アジアンチックな雰囲気もあれば欧風な雰囲気もあるのがいい。横浜もいいけど、神戸はのんびりしてる感じがいいね」

 「人に教えるより自分が上手くなりたい」ジャズを教えるということの意味。

 日野さんは、今回の元町JAZZ PICNICでのクリニックのほか、現在は東京世田谷区教育委員会主催の青少年のビッグバンドDreamJazzBandの校長や大阪音楽大学短期大学部客員教授を務め、さらにさまざまな地域で新しい才能を育成するためのクリニックを精力的に行っています。多忙なスケジュールのなかでもクリニックの依頼を引き受けるのには「大人が子どもに教えてあげられること」の大きさに理由があると日野さんは言います。

 「クリニック関係はこの歳になって、どんどん依頼が増えてきてるけど、本当はそれどころじゃない(笑)。正直に言うと、人に教える時間があったら自分の上達のためにもっと頑張りたいよ。もっともっと上手くなりたいんだ。

 でもね、自分が子どものときに学校行事で行った渋谷公会堂(現C.C.LEMONホール)での東京フィルハーモニー交響楽団の感動は今でもしっかり覚えてるわけ。オーケストラの人たちが『トランペットの音を鳴らしてみましょう』って、ものすごい多彩な音が出て。そういう感動から人って楽器を始めたりするじゃない?

 そうやって少しでも楽器に触れたりしていれば、大人になって社会人バンドを組んでみたり、定年退職したあとに久しぶりにやってみようかって楽器をまた始めたりとか、そいう活力につながったりするんだよね。

 そもそも音楽をやっている人間っていうのはものすごくピースフルなんだよ。音楽ってコミュニケーションだから、音楽やってるときに物騒なことは考えないからね。音楽は楽しいっていうことを、東京フィルハーモニー交響楽団が僕に教えてくれたように、今度は僕が子どもたちに教えてあげなくちゃいけないと思う」

 「もっと上手く、もっと格好良く」現在の活動、これからについて。

 教育だけでなく、「アジアを一つに」というご自身の夢のもと、アジア各国での公演やチャリティー活動など、幅広い活動を続けている日野さん。人一倍音楽を、ジャズを愛するからこそ生まれる想いがそこにあります。

 「ジャズは僕にとってご飯を食べるためっていうのもあるけど、人生かけてやってるんだから当然ビジョンは大切だね。さっきも言ったけど、音楽は本当にピースフルなもの。国には国境があっていろんな問題があるけど、音楽には国境がない。音楽でみんなが幸せになれる、そういう平和を考えていきたい。最近やってるアジアの演奏活動もそれが大きな理由です」

 「トランペットがあったから今ここにいるんだっていうのを実感してます。絵を描いているのもトランペットがきっかけだし、スポーツもそう。生活のすべてがトランペットから始まってる。万全の調子でずっとやっていきたいからね。だって80歳になってもこの音が出せたらめちゃくちゃ格好良いと思わない?聴いてるだけで感動するような、サッチモみたいな音が出したいね。これからも格好良くいい音を、楽しい音楽をやっていきたいと思います」

*https://www.kobejazz.jp/jazz_people/vol10.html より

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<日本酒> 福島 開當男山/渡部謙一

2021-02-01 07:32:59 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 開當男山/渡部謙一

 

 開当男山の酒造り
 伝統の技を活かして…
 寒冷地を生かし、300年にわたり代々伝えられた力と技を受け継ぎ職人達の酒造りに対する想い・蔵元の 酒造りへのこだわりがふんだんに盛り込まれている「開当男山酒造」のお酒についてご紹介させて頂きます。

 酒造りに対するこだわり
 精米から始まりまして洗米、浸漬、蒸しと、その都度人の手を経てお酒になっていきます。
伝統の類の酒造りはそのままにして、作り方を少しずつ工夫していって新しい酒を作っています。

 理想の酒とは…
 美味しい、うまい、とか言う前に、わいわいがやがやと楽しそうに飲んでもらえるような、それが一番いいことなのではと思っています。
 毎日同じことを黙々とこなすと言うのが酒造りの基本だと思います。
 その中にも良いものを作りたいとか、お客さんに喜んでもらえるものを、と想いながら心を込めてこれからも真剣に造り続けていきます。

 まごころを込めて
 酒というものは、作る人も真心をもって作っていかないといい酒ができないと思っています。
 また、お酒を飲んだ人が豊かな気持ちになるというのがお酒の一番の良さだと思います。
 作る人の心は飲み手に伝わって、その方が本当に豊かな心になるというのがお酒だと私たちは考えています。

 開当男山酒造 南会津郡南会津町中荒井久宝居785

 ブランド一覧

 「久宝居」特別純米大吟醸 

 「開当男山」純米吟醸・大吟醸・オーク樽貯蔵大吟醸・本醸造

 「南山」純米吟醸

 「山王」大吟醸 など

 


 享保元年、天領南会津に創業した開当男山酒造。その歴史は間もなく300年を数える。蔵に向かう道中、車窓から臨むと新緑とともに遅咲きの山桜が山肌を彩り、会津にもゆっくりと春が訪れたことを感じさせてくれた。
 迎えてくれたのは、白壁の蔵と趣ある庭。江戸末期、そして昭和30年代に建てられた蔵や母屋に地震による被害はなかった。「お蔭様で商品にも被害はなく、震災後もすぐに通常通りの仕事を再開できました」と話すのは14代目蔵元の渡部謙一氏。震災当日、蔵元ご自身は福島市にいたため、帰宅に時間がかかったり、なかなか蔵に連絡がつかないなど苦労されたそうだが、蔵に帰ると被害もなく、周囲も皆ほとんど普通の様子だったため逆に驚いたとか。「震災ではたくさんの方にご心配いただき、また支援もいただいて、本当に感謝しています」と、蔵元。観光客の減少による影響はあるものの、逆に昨年5月、6月頃からは復興支援ということでの需要が増えたそうで、「これもとてもありがたいことです」と、震災後の日々を振り返る。
 開当男山酒造の酒は、一口で言えば「とてもきれいな酒」だ。雪国の寒冷な気候と、その雪がもたらす水、そして平均50%という精米歩合や蔵人のきめ細かな造りが、ここならではの酒を造り上げる。雪が多く年間の平均気温は10度以下、最低気温がマイナス20度になることもあるという。そんな寒冷地では、他の地で頭を悩ます温度管理はお手の物。むしろ必要な時には温める工夫をしなければならないこともあったそうだ。現在は冷蔵施設も利用して、さらに繊細な温度管理を行っている。また、豊かな自然によって生まれる地下水は、酒に清冽な味わいを与える。
 「私は、酒は自己主張が強すぎてはいけないと思っています」。食事はもちろん楽しい時、悲しい時などさまざまなコミュニケーションにおいても名脇役であり、その場を演出する大切なツールだと、蔵元は言う。自己主張しすぎることなく、けれど存在感がある。そんな酒こそが、開当男山の酒なのだ。
 そして、季節限定品や企画品など、多彩なアイテムがあるのもこの蔵の特長と言える。「お客様の選ぶ幅を増やし好みの酒を選んでいただくとともに、酒と出合うきっかけを作りたい」と、商品開発に積極的に取り組んでいる。全国新酒鑑評会では近年、毎年のように金賞を受賞しており、蔵元の酒造りがぶれることなく着実に前進していることを窺わせる。
 黒を基調としたラベルが力強い印象の純米酒、福島県産酒造米「夢の香」を100%使用した特別純米酒「開当男山 夢の香」は、いずれも米の旨みが冴える。穏やかな香りと飲むほどに美味しさを増す純米吟醸。大吟醸は、上品な香りとやわらかな味わい、そしてさらりとした喉越しの三拍子が揃う。清酒の理想を求めて杜氏と蔵人がその技術のすべてを注いだ日本酒の最高峰とも言える純米大吟醸「久宝居(くぼい)」は、まさに芸術の域。他に本醸造酒やにごり酒、古酒、焼酎など、いずれも蔵元自慢の逸品が揃う。  酒造りは地味な作業の繰り返しである。しかし、手を抜くことなく、その作業を積み重ねた先に、酒を飲む人々の喜びがある。「これからも、ぶれることなく酒造りに取り組んでいきたい」。酒造業を起こした渡部開当(はるまさ)氏の名をとった銘は、これからも会津を代表する酒の一つとして広く、そして永く親しまれるに違いない。

*http://www.kennan-syuhan.co.jp/brewery/new008.html より

 

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 38.  飯沼栗

2021-02-01 07:29:32 | 食品

 登録番号 第38号 飯沼栗

 特定農林水産物等の区分 第3類 果実類 くり

 特定農林水産物等の生産地 茨城県東茨城郡茨城町

 登録生産者団体 下飯沼栗生産販売組合

 特定農林水産物等の特性 飯沼栗は独自の栽培技術で1つの毬に1果の大粒の栗を作り上げた。その大きさに加え、果実洗浄や徹底した選果を行い、色つや・形状等に優れたものを選別。冷温貯蔵により甘さが増した時期に計画出荷。東京都中央卸売市場における過去5年間の販売価格は、同市場における平均価格の約2倍。

 地域との結び付き 茨城町は、関東ローム層の平坦な台地で保水性、通気性が良く、台風や雪の被害が少ない安定した気候であるためクリ栽培に適している。1毬1果の授粉技術は門外不出であり、クリ洗浄機の開発、冷温貯蔵技術の確立、出荷まで3回の選別選果を厳格化するなど生産組合が品質管理に取り組んできた結果、大きく色つやの良い栗が生産されるようになった。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i38.html より

 

 「飯沼栗」は、一般的なクリとは異なり、1毬(きゅう)1果を目標とした栽培技術、全果洗浄、徹底した選別選果等により、大果で、色つや・形状等の外観に優れたクリです。さらに、長年にわたる冷温貯蔵の取り組みの結果、品質を劣化させずに糖含量を増加させて甘みの強い果実を生産しています。
 一般のクリは1毬3果であるのに対して、「飯沼栗」の生産者は、特に1毬1果を目標とした大果生産にこだわり、授粉に関して研究を重ねた結果、収量を落とすことなく大果(1毬1~2果)の安定生産を実現しました。1毬3果で発生し易い中央の扁平果の発生が極めて少なく、形状の揃いも向上させています。
 収穫された果実は、全て専用の洗浄機で水洗いされるため、果実の座部の汚れがなく光沢のある外観に優れたクリが実現しています。さらに、果実にオガ粉をまぶした状態で全量冷温貯蔵することにより、乾燥や腐敗を防止し品質低下を防ぎながら、糖含量が増加して甘さが増した状態で計画出荷されています。
 出荷においては、生産者が行う貯蔵前及び貯蔵後の2回の選別に加えて、集荷所において行う共同選果の合計3回に及ぶ徹底した選別選果により、出荷品に不良品の混入がほとんどありません。「飯沼栗」の出荷は、数量は毎年約50tと他産地に比べて出荷量は多くはないものの、その品質の高さと均一性などから販売先の厚い信頼を得ています。市場での取引価格は、同市場の同期間における国内から出荷されたクリの約2倍に相当し、正にクリの最高級品と評価されています。

 「飯沼栗」が生産されている茨城県茨城町は、標高30m程度の平坦な台地であり、保水性・通気性・排水性が良好で、弱酸性の火山灰性土壌(関東ローム層)に覆われています。また、年平均気温13.6℃、年間降水量1,354mmの安定した気候となっており、クリ栽培に適した環境となっています。
 和銅6年(713年)に編纂された「常陸国風土記」において、現茨城町に隣接する行方(なめかた)地区の項に、この地方には古くから良いクリが産したことが伺い知れる記述があります。

 茨城町では、1933年頃、開墾地にクリが植えられ、その後1963年頃から盛んにクリ園が造成されました。そして、クリの品質向上や計画的出荷等による収益性の改善をめざして、先進的な農家が中心となって1968年に生産販売組合を設立し、市場への出荷を開始しました。
 組合では、高品質な「飯沼栗」の生産出荷に取り組み、授粉、選別選果、洗浄、貯蔵等の最適な方法について、試行錯誤を繰り返してきました。その結果、1毬1~2果の高品質な大果生産、クリ洗浄機の独自開発などが実現し、1980年代には冷蔵庫貯蔵による栗の計画出荷は全体の65%に達し、銘柄品として東京市場でも好評を博しました。1986年迄には現在のような技術が確立され、出荷期間を通して生産者間に品質等のバラツキがなく、高品質で大果のクリの生産・出荷を実現しています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/38.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 28.回答 29.出題

2021-02-01 07:12:50 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 咳唾成珠-がいだせいしゅ-口から出たせきやつばきでさえ珠玉になるという意から。①一言一句が尊重されるほど、権勢が盛んなさま。②一言一句が美しく、詩文の才能に恵まれているさま。

 


 問2 長身痩躯-ちょうしんそうく-背丈が高くからだつきがやせていること。▽「痩躯長身」ともいう。

 


 問3 棄甲曳兵-きこうえいへい-戦いに敗れて、あわてて逃げるさま。

 


 問4 光焔万丈-こうえんばんじょう-議論や詩文などの勢いが激しく、素晴らしいことのたとえ。「光焔」は燃え上がり輝く炎。「万丈」はこの上なく長いこと。炎が勢いよくどこまでも燃え上がるという意味から。

 


 問5 臨淵羨魚-りんえんせんぎょ-願望を達成するには有効な手段を考えるべきだということ。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 鬱鬱葱葱

 

 問2 廓然大悟

 

 問3 朝秦暮楚

 

 問4 河図洛書

 

 問5 玄圃積玉

 

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 山形 置賜紬  

2021-02-01 07:11:32 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「置賜紬」

 歴史
 置賜紬の起源は、8世紀初めに遡ります。慶長年間(1596年~1615年)、上杉景勝の奨励により産地が確立されました。素朴で伝統的な技法を用いて白鷹板締小絣、米琉板締小絣、緯総絣、併用絣および紅花などで染色する草木染紬などが生産されています。

 特徴
 置賜紬は山形県南部に位置する置賜地方で生産される織物の総称であり、その歴史は古く上杉家中興の祖上杉鷹山公の奨励により発展しました。
 古くから受け継がれた技術、技法は地区別に異なります。白鷹町は米琉板締小絣・白鷹板締小絣、長井市は緯総絣・併用絣、米沢市は草木染紬・紅花染紬で、いずれも先染の平織で野趣に富む素朴な風合いが特徴です。
 現在、「鷹山絹」(ヨウザンギヌ)のブランド名などで新繭を使用した新製品を開発しており、近年、手づくりのよさが見直されてります。

 産地
 山形県 米沢市、長井市、白鷹町

*https://www.tohoku.meti.go.jp/s_cyusyo/densan-ver3/html/item/yamagata_02.htm より

*https://kougeihin.jp/craft/0102/ より

 

 Description / 特徴・産地

 置賜紬とは?
 置賜紬(おいたまつむぎ)は、山形県の南部、置賜地方にある米沢、白鷹、長井の地区で作られている織物です。江戸時代初めより、織物の原料である青苧(あおそ)の生産地として出荷を行っていた置賜地方は、江戸時代後期には自給自足による織物の産地を目指しました。
その後、青苧に代わり桑による養蚕が盛んになったことで絹織物の産地へと変化を遂げるとともに、本格的に地場産業として発達していった工芸品です。
 置賜紬の特徴は、米沢、白鷹、長井の3つの地それぞれで受け継がれた技術や技法が異なる点です。米沢は、県花の紅花や藍、刈安(かりやす)など自然の染料を用いた「草木染紬」や「紅花染紬」、白鷹は、国内ではここでしか見られない貴重な「板締(いたじめ)染色技法」、長井は、「緯総(よこそう)絣」と「経緯併用(たてよこへいよう)絣」、琉球織物の影響を強く受けている「米琉絣(よねりゅうかすり)」という技法が受け継がれてきました。それぞれ工程は違いますが、いずれも先に糸を染める先染めを取り入れ、平織りで手間をかけ織り上げるという共通点があります。

 History / 歴史
 置賜紬 - 歴史

 米沢では、江戸時代初期にすでに青苧や紅花などが栽培されていました。1601年(慶長6年)、米沢藩主の上杉景勝は、これらを特産物として奨励し、織物の原料として越後などに出荷しました。その後の江戸時代中期、第9代藩主の上杉鷹山は、自給自足の織物産地を目指しました。1776年(安永5年)には越後より職人を迎え、織物の研究を進めるとともに女子に技術の習得をさせたのが置賜紬の始まりです。
当初は、青苧が原料の麻織物が生産されていましたが、上杉鷹山の藩政改革によって養蚕が盛んになると、徐々に絹織物へと移り変わっていきました。さらに明治時代に入ると、米沢に近く養蚕が盛んであった白鷹、長井でも織物が作られるようになり、絣(かすり)の高度な技術を習得していきます。
 大正時代から昭和初期にかけて、米琉絣や板締小絣(いたじめこがすり)が全国的に知られるまでに発展しました。
その後、1976年(昭和51年)に、3地域合わせて「置賜紬」と統一する運びとなり、米沢の「草木染」、長井の「緯総絣・経緯併用絣」、白鷹の「板締小絣」が置賜紬と定義づけされました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/oitamatsumugi/ より

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