いいもの見ぃ~つけた!

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官僚接待はなくならない

2021-02-25 10:22:48 | 米屋の親父のつぶやき

 今話題の「官僚接待」問題。

 その昔「大蔵省接待汚職事件」というのがあった。

いわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」(笑

 もう死語なんでしょうね?「ノーパンしゃぶしゃぶ」。

 単に「汚職事件」というより世間では「ノーパンしゃぶしゃぶ」の方が話題になったのでは?(笑

 

 社会問題化したため、いろいろ改革が行われた。

 財政・金融分離と大蔵省解体の一つの要因となった。大蔵省から銀行と証券の関連業務が分離されて金融監督庁(現金融庁)ができ、大蔵省は財務省になった。

 また、「国家公務員倫理法」が施行された。

そこには「国家公務員倫理規定」が明文化され徹底されたはずだった。

*https://japan-indepth.jp/?p=57411 より

 

 しかしいつの世も「民間」は「政治家」や「官僚」に便宜を図ってもらうため、さまざまな手を打つ。

 わきの甘い「政治家」や「官僚」は「意見交換」や「情勢把握」などと理由をつけて「接待」に応じる。

 あくどい「政治家や官僚など」は自ら求めることも。

 

 昭和のころは、「政治家や官僚」などなにかしら「力」を持つ者に対して「贈り物」が届けられることは「普通のこと」だった。

 百貨店からは「山のようなお中元・お歳暮」だけでなく、いろいろなものが送られたのも事実(笑

 「袖の下」は「挨拶や礼儀」だった文化が以前はあったのだ(笑

 また「接待」は文化だったのだ(笑

 

 ただ「エスカレート」さえしなければ、さほど問題にもならなかった。

 また「機密漏洩」や「便宜」がなければ問題ないが、「接待する側-民間」は「ただ」ではしないことだろう。ちゃんと「わきまえる」ことが必要なのだが、いつもいつもどちらかが「間違い」を起こすものだ。

 

 なのにまた「官僚接待」が露呈した。

 そして一番の「人身御供」として、「女性広報官」が。

 

 今回は「総務省」。

 証拠として晒された「会話の録音テープ」。

 これは「大問題」である。

 この「犯人捜し」は?

 報道側の「仕掛け」か?利用した店舗側の「甘さ」か?官僚側の「わきの甘さ」か?それとも民間側の罠か?はたまた不問にすると?

 

 しかしまだこれで終わってはいまい?

 「官僚上部」だけが処分されるだけでよいのか?

 やはり「民間側」へも処分が必要では?

 そして、「総務省」だけでなく、「全ての省庁」の官僚・職員に対して「調査」するべきなのでは?

 

 1つの「粛清」が行われてもおかしくないのでは?

 法律がなければ作ることも必要。「接待する側」に対する処罰で少しはおとなしくなるやも?しれないのだが。

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<漢字検定> 1級 読み 1.出題

2021-02-25 08:26:54 | 漢字検定

 今回より「1級 読み」。

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 瑰麗  

 

 問2 烏鵲  

 

 問3 解傭  

 

 問4 安佚  

 

 問5 胡乱

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-イギー・ポップ

2021-02-25 08:16:22 | MUSIC

 「イギー・ポップ」

  1947年4月21日生まれの73歳

 ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア(James Newell Osterberg Jr., 1947年4月21日 - )は、ステージネーム「イギー・ポップ」として知られるアメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、ボーカリスト、作曲家、音楽プロデューサー、俳優。過激なステージパフォーマンスで知られた同国のロックバンド「ザ・ストゥージズ」のメンバー。ソロミュージシャンとしても知られ、多くの作品を残している。

 ザ・ストゥージズ時代の業績により「ゴッドファーザー・オブ・パンク」とも呼ばれ、後世に大きな影響を与えていると同時に、本人も後輩のミュージシャンたちと積極的に交流し、ガレージロック、パンク・ロック、ハードロック、アート・ロック、ニュー・ウェイヴ、ジャズ、ブルースなど、数々のスタイルを取り入れている。

 ザ・ストゥージズ時代の「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ(英語版)」「サーチ・アンド・デストロイ(英語版)」、ソロミュージシャンとしては「ラスト・フォー・ライフ (イギー・ポップの曲)(英語版)」「ザ・パッセンジャー (イギー・ポップの曲)(英語版)」などが代表曲として知られており、特にザ・ストゥージズ時代の代表曲は様々なミュージシャンにカバーされている。

 2010年、ザ・ストゥージズ名義で『ロックの殿堂』入り。
 2017年にフランス芸術文化勲章の最高位『コマンドゥール』を受章。
 ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第75位。
 Q誌選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第63位。

 2020年、第62回グラミー賞 特別功労賞 生涯業績賞を受賞。

*Wikipedia より

 ちょっとマニアックなミュージシャンですよね(笑

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<日本酒> 栃木 開華/第一酒造

2021-02-25 07:50:56 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 開華/第一酒造

 

 関東平野の北端「水と緑と万葉の町」、栃木県佐野市。
 古くから酒造りの町として知られているこの町で、創業延宝元年(1673年)と約330年余りもの歴史を持つ、県内最古の蔵元。
 平成10年より、全銘柄特定名称酒へ移行。小仕込みによる米・水・造りのすべてにこだわりを持った酒造りは、ふくよかで洗練された味わいの逸品を生み出しています。

 栃木県では、独自の優れた技術や製品を有する企業をフロンティア企業として認証する制度を創設しました。認証企業として第一酒造株式会社が認証を受けました。(認証技術:高級日本酒【特定名称酒】の製造)

 これは、弊社が平成10年より栃木県内では初めて全商品特定名称酒に移行。特定名称酒の法律上の原料・製法等の基準を、精米歩合や麹歩合等で更に厳しくした自社基準を設定。出荷する全商品が合致した商品となっており、「開華」らしい華やかで繊細な香りと旨みのある酒を造りだしていることが評価されたものです。

 また、全国新酒鑑評会での20年間で11回の金賞を受賞、酒造技能士一級(杜氏)保持者が4名在籍、農産物検査技師も在籍し米の等級検査も自社内で実施となっている、なども高い技術力の表れとして評価いただきました。認証企業として恥じぬよう、今後も商品の更なるレベルアップに努めて参ります。

 

 「開華」のおいしい3つの秘密
 県内で県内で最も伝統のある酒蔵は、米作り340年の歴史
 延宝元年(1673年)創業の栃木県内で最も歴史のある酒蔵ですが、創業時から農家でもあります。農業と酒造りが一体となって始まりました。蔵元自社水田で、田植えから収穫まで全て社員が行っています。

 日本名水百選にも選ばれた、全国でも有数な佐野市の良質な仕込水
 きれいな川水の条件は、山の地層が古くよく洗いさらされ、あまり溶け出さず、その山に木がよく生えている、いわゆる水源のかん養ができていることです。関東平野の北端に位置し古生層から流れ出す佐野市の水は、日本名水百選にも選ばれたとび抜けてきれいな水です。

 卓越した技術者集団
 杜氏資格の国家検定制度「酒造一級技能士」5名。
 栃木県で始まった「下野杜氏」(全十数名中)3名。
 独立行政法人酒類総合研究所認定「清酒の官能評価分析における専門評価者」1名。
 栃木県認定「とちぎマイスター」1名(酒類業界唯一)。
 お米の公式等級検査「食糧検査技師」2名。

 「関東の三銘酒」と言われる3つの理由
 全国新酒鑑評会 最多金賞受賞蔵(栃木県)
 全国新酒鑑評会は、日本酒業界最大規模の日本酒唯一の公式品評会です。明治44年以来、世界に誇る日本酒醸造技術伝承の目的で主に国主催で行われてきました。
 結果が確認できる昭和31年以降で17回。平成以降に限定しても14回の金賞受賞(平成25年現在)。
 これは栃木県内の最多金賞受賞です。

 北関東3県初の全商品が特定名称酒
 平成10年より北関東3県では初めて全商品が特定名称酒に移行しました。
 日本酒全体の中で特定名称酒は約30%ですが、開華では100%です。
 全商品が「開華」らしい華やかで繊細な香りとやわらかな旨みのある酒となっています。

 全国の酒蔵で唯一の政府認定米麦集荷業と食糧検査業
 全国の酒蔵では唯一の政府認定米麦集荷業者であり、近隣農家と直接契約してお米の集荷を行っています。数年前までは政府にしかできなかったお米の等級検査も自社で実施している全国で唯一の酒蔵です。

 「開華」の歴史
 江戸時代初期の延宝元年(1673年)に創業の栃木県内最古の老舗蔵元です。
 1673年は4代将軍徳川家綱の時代で江戸では呉服店「越後屋(三越の原点)」が開業。アメリカ独立宣言(1776年)までは100年以上あります。
 江戸時代、佐野のお酒は渡良瀬川から利根川への河川流通によって「地廻りもの」として江戸へ運ばれ、関東の酒処として栄えました。現在でも江戸東京博物館で当時の様子が見られます。

 長年にわたってご愛飲いただいている地元の愛飲家の皆様が、どんな開華を呑んでも、美味しいお酒で楽しんでいただけるようにとの想いから、平成10年より全商品を特定名称酒(吟醸酒、純米酒、本醸造など)と致しました。 香港向け輸出(平成5年)に始まり、現在では北米、欧州、香港、韓国、台湾、シンガポールなどの各国へ輸出されていますが、栃木県内への出荷が全出荷の約8割を占めています。

 第一酒造 栃木県佐野市田島町488番地

 ブランド一覧

 「開華」鑑評会出品酒・純米酒・純米吟醸・純米大吟醸 夢ささら-「夢ささら」使用 など

 「開華 みがき」特別純米酒(原酒) みがき竹皮・特別純米原酒 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 62.  山形セルリー

2021-02-25 07:45:25 | 食品

 登録番号 第62号 山形セルリー

 特定農林水産物等の区分 第2類 野菜類 セルリー
 
 特定農林水産物等の生産地 山形県山形市内
 
 登録生産者団体 山形市農業協同組合
 
 特定農林水産物等の特性 葉柄が太すぎず、成長しても繊維が柔らかく瑞々しくシャキシャキとした食感でえぐみ・苦みが少ない。長年にわたる個体選抜を行い特性を維持。

 地域との結び付き 山形市内に張り巡らされている山形五堰(水路)や蔵王山系の豊富な伏流水の汲み上げにより、セルリー栽培に必要な水を豊富に利用することが可能。生産者の努力の積み重ねによって、寒冷地である生産地の気象条件に合った採種や温度管理、施肥の手法を確立。良質なセルリーを継続して栽培し、東北随一のセルリー産地を形成。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i62.html より

 

 「山形セルリー」は、スラリとした形状で、葉柄が太すぎず、成長しても繊維が柔らかいセルリーです。
 食感はシャキシャキとして瑞々しく、また、えぐみや苦みが少ないため、甘味が感じられる柔らかい風味が特徴です。

 「山形セルリー」は、生産者団体が指名した熟練生産者により、姿形が優良な親株を選抜し、採種を行います。
 栽培は、春どりハウス栽培(収穫時期:概ね5月上旬~7月上旬)と秋どりハウス栽培(収穫時期:概ね10月上旬~12月上旬)の年二作を行います。
 出荷基準により、病害虫被害、その他の損傷が著しくないものを選定し出荷します。

 「山形セルリー」の栽培の歴史は、1968年に地域の若手生産者が、セルリーに着目し挑戦したことから始まります。彼らは、栽培技術を取得するために県外の専門家から技術を学び、1969年から山形市内で栽培を開始しました。
 生産地は、市内に張り巡らされた水路(山形五堰(1))や蔵王山系(2)の豊富な伏流水の汲み上げにより、セルリー栽培に必要な水を豊富に利用することが可能な立地でした。
 以後、生産者の努力の積み重ねによって、寒冷地である生産地の気象条件に合った採種や温度管理、施肥の手法の技術を確立してきた結果、東北随一のセルリー産地が形成されました。

 生産地では、1972年に宮城県仙台市場、1984年に東京市場へ出荷を開始し、市場・消費者からも高い評価を得るブランド産品となり、以後、45年以上セルリー栽培を継続しています。
 出荷量は2016年度で219tとなっており、若手の後継者も多く、生産量も年々増加しています。

 (1)山形五堰:山形県山形市内にある農業用水路。日本の「疎水百選」に認定されています。
 (2)蔵王山系:宮城県と山形県の県境に位置する連峰です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/62.html より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 本場黄八丈

2021-02-25 07:22:42 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「本場黄八丈」

 東京から南方へ300キロ、孤島で織られる着物好きの終着点。
 東京から南方へ約300キロ離れた海に浮かぶ八丈島。本場黄八丈は、豊かな自然に恵まれたこの島で自生、あるいは栽培された草木のみを使って染色する絹織物である。色は黄色、黒色、樺色の三色のみ。かつては黄色が主流だったことから黄八丈の名で親しまれたが、現在は黒が大半を占める。黒といってもただの黒ではない。藍色などを混ぜ合わせるほかの染色と異なり、椎木の色素のみで生み出された純粋な黒である。黒の織物の場合、椎木の皮を煎じた汁で生糸を染めた後、脱水し、屋外で干す。この工程を約40回繰り返すことで、太陽光が織物に艶やかな光沢をもたらす。八丈島の風土で育った草木特有の色を際立たせるため、無地、縞柄、格子柄など、意匠は極めてシンプルだ。着るごとに生地が体になじんでくる着心地の良さを持ち、かつては普段着として愛用された。近年は生産者の減少に伴い希少価値が増していることもあり、あらゆる着物を知り尽くした人が最後に辿り着く着物といわれる。

 主な製造地 八丈島
 指定年月日 昭和57年12月24日
 昭和52年10月14日(国)
 伝統的に使用されてきた原材料 生糸、玉糸、真綿の紬糸又はこれらと同等の材質を有する絹糸

 伝統的な技術・技法
 先染めの平織り又は綾織りとする。
 よこ糸の打ち込みには、手投げ杼(てなげひ)を用いる。
 染色は、手作業による浸染とする。この場合において、染料は、コブナグサ、タブノキ又はシイを原料とする植物性染料とし、媒染剤は木炭又は泥土とする。

 沿革と特徴
 東京から南へ約300キロ草木染めで知られる絹織物「黄八丈」のふるさとがある。

 紺碧に浮かぶここ八丈島は、正月やお祭りともなれば黄八丈を着たかわいいメナラベ(島娘)達が「おじゃりやれ」(おいでなさい)と島を訪れる人たちを歓迎してくれる。島のいたるところにヤシ、ハイビスカスなどの熱帯性植物が生い茂り、四季の花が色どりを添えている。

 昔は「鳥も通わぬ島」といわれ、絶海の孤島であり、自然条件の大変厳しいところだった。しかし人間の知恵は、この厳しい風土の中から、黄八丈独特の色合いを見せる、黄、樺、黒の三色に必要な草木を原料とする天然染料を生み出し、この島の特産品「本場黄八丈」をつくりだした。

 黄八丈の特徴は、八丈固有の風土の中から生まれた「染め」と「織り」にあるといわれている。黄・樺・黒の三色が主体で、すべて八丈島で自生する草木を原料とする天然染料である。

 黄色は八丈刈安(学名コブナ草)、樺色は、マダミ(学名タブの木)の皮黒色は椎の木の皮と泥染めによる島独自の染色法によってつくられる。三色を組合わせた竪縞、格子縞などの織物は手織りで作られる。

 こうした黄八丈は、長い年月を経ても変色することがなく洗えば洗うほど鮮やかな色のさえを見せるようになる。

 連絡先 産地組合名 黄八丈織物協同組合
     所在地 〒100-1621 八丈島八丈町樫立346-1

*https://dento-tokyo.jp/items/03.html より

*https://kougeihin.jp/craft/0109/ より

 

 島の女の織る黄八丈が、島を支えてきた
 東京から南へ海上を約290キロ。伊豆諸島の一つ八丈島は、黒潮の海に浮かぶひょうたん形をした島だ。かつては「鳥も通わぬ」と謡われ多くの政治犯が流されたところだが、今なら空の便で小一時間、あっけないほど近い。島に着くなり、雨と風の洗礼を受けた。瑞々しい山の緑が、遠めに映える。
 黄八丈がいつから織られ始めたのかは、定かではない。が、すでに室町期の文献には、八丈島産の絹織物が献上された旨の記述がある。時代は下って江戸期、黄八丈は将軍家のご用達になった。そして町人文化が興隆した文化文政年間(1804~30)には、広く庶民たちも袖を通すようになっていく。現代でも戦前までは、盛んに養蚕が行われていた。古来、島の女たちは黙々と蚕の世話をし、機を織り、島の経済を支えてきたのだ。


 洗えば洗うほど色艶が増す黄八丈
 現在、黄八丈の染元は、樫立(かしたて)と中之郷地区に3軒。乙千代ヶ浜(おっちょがはま)にほど近い樫立に、伊勢崎明俊さんを訪ねた。中庭には、鮮やかな黄、渋い色合いの樺に染められた生糸が干されている。
 「昼は天日干し、夜は煮る作業。これを20~40回繰り返して、だんだん色が濃くなっていく。一日一日が勝負なんだよ。」
洗うほどに色が冴えていく黄八丈の秘密は、ここにあったのだ。そっと糸に鼻を近づけてみる。天然の染料の香りは鼻孔にやさしく、何度でも嗅いでみたくなる。
 「本当は今日、樺の皮を剥ごうと思っていたんだが……。どうしても天気に左右される仕事だからね。雨が降って仕事ができない日は、仲間と一緒にすごすんだ。」


 たんごを織る音がないと眠れない
 伊勢崎さんは、曾祖父から数えて4代目、27歳のときに染めの仕事を継いだ。
 「子供の頃からたんごを織る(樫立の言葉で、反物を織ること)音が子守り歌がわり、夜静かすぎると眠れないんだよ。」
 7人いる兄弟姉妹の4番目、伊勢崎さん以外の男兄弟はみな島の外へ。自身も20歳の頃、東京へ出たことがある。でも、そこはあくまで遊びにいくところであって生きていく場所ではないと感じ、3カ月で島へ戻った。以来、畜産や園芸などの仕事を精力的にこなしながら、染めの技術を身につけていったのだ。
 織り子あっての染め屋、ともいう。今、織り子の平均年齢は70歳。この30年間で半分に減った。島の女は働き者、古希をすぎた伊勢崎さんの長姉も現役で織り続けている。
 「姉ちゃんが織ってる間は、俺も染めをやめないよ。」
 24歳になる息子が島の外にいる。けれど、継げとは言えない。


 「疲れたっていう台詞は大嫌い。たとえ苦しい仕事だって前向きにやらなきゃな」

 黄八丈の色は、植物の命の「うつしかえ」
 「あきあにぃは、いっつも動き回ってるんだよ。朝山にいたかと思ったら、昼は海、夜はもう家にいないんだ。」とは、伊勢崎さんを慕う仲間たちの弁。
 その暮らしは、半ば自給自足だ。漁師の友人の船に乗って、トビウオ漁に加勢することもある。染め、漁、畑、何をするにせよ夢を描きながら常に前向きに行動したい、という。
 「地球上の一生物として、一人の人間として、男として、精一杯正直に生きたいね」
 豊饒な自然のなかに身を置いていると、自分が一人勝手に生きているのではなく、あらゆるもののつながりのなかで生かされていることに気づいていくのだろうか。
 染めの仕事をしていて、職人冥利に尽きることは?――。「出会いだね」。即座に言葉が返ってきた。よき友人との出会い、染料となる植物との出会い、そして糸に現れ出た色との出会い。黄八丈の黄・樺・黒という色は、植物の命の糸への「うつしかえ」。染めとは、その儀式であるのかもしれない。人はほんの少し、天の恵みの分け前に預かる。
 黄八丈の真の魅力は、そこにこそあるように思えてならない。

 染めの仕事は天気によって左右される。今日はあいにくの雨、仲間たちが昼ご飯を食べに集まってきた。伊勢崎さん自ら包丁を握ってさばいたトビウオも食卓へ

 職人プロフィール

 伊勢崎明俊

 1942年生まれ。
 「親から、たくさん財産をもらったよ。自分を健康に生んでくれたこと、染めの仕事を伝えてくれたこと」。侠気(おとこぎ)のある人である。

*https://kougeihin.jp/craft/0109/ より

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