「本場黄八丈」
東京から南方へ300キロ、孤島で織られる着物好きの終着点。
東京から南方へ約300キロ離れた海に浮かぶ八丈島。本場黄八丈は、豊かな自然に恵まれたこの島で自生、あるいは栽培された草木のみを使って染色する絹織物である。色は黄色、黒色、樺色の三色のみ。かつては黄色が主流だったことから黄八丈の名で親しまれたが、現在は黒が大半を占める。黒といってもただの黒ではない。藍色などを混ぜ合わせるほかの染色と異なり、椎木の色素のみで生み出された純粋な黒である。黒の織物の場合、椎木の皮を煎じた汁で生糸を染めた後、脱水し、屋外で干す。この工程を約40回繰り返すことで、太陽光が織物に艶やかな光沢をもたらす。八丈島の風土で育った草木特有の色を際立たせるため、無地、縞柄、格子柄など、意匠は極めてシンプルだ。着るごとに生地が体になじんでくる着心地の良さを持ち、かつては普段着として愛用された。近年は生産者の減少に伴い希少価値が増していることもあり、あらゆる着物を知り尽くした人が最後に辿り着く着物といわれる。
主な製造地 八丈島
指定年月日 昭和57年12月24日
昭和52年10月14日(国)
伝統的に使用されてきた原材料 生糸、玉糸、真綿の紬糸又はこれらと同等の材質を有する絹糸
伝統的な技術・技法
先染めの平織り又は綾織りとする。
よこ糸の打ち込みには、手投げ杼(てなげひ)を用いる。
染色は、手作業による浸染とする。この場合において、染料は、コブナグサ、タブノキ又はシイを原料とする植物性染料とし、媒染剤は木炭又は泥土とする。
沿革と特徴
東京から南へ約300キロ草木染めで知られる絹織物「黄八丈」のふるさとがある。
紺碧に浮かぶここ八丈島は、正月やお祭りともなれば黄八丈を着たかわいいメナラベ(島娘)達が「おじゃりやれ」(おいでなさい)と島を訪れる人たちを歓迎してくれる。島のいたるところにヤシ、ハイビスカスなどの熱帯性植物が生い茂り、四季の花が色どりを添えている。
昔は「鳥も通わぬ島」といわれ、絶海の孤島であり、自然条件の大変厳しいところだった。しかし人間の知恵は、この厳しい風土の中から、黄八丈独特の色合いを見せる、黄、樺、黒の三色に必要な草木を原料とする天然染料を生み出し、この島の特産品「本場黄八丈」をつくりだした。
黄八丈の特徴は、八丈固有の風土の中から生まれた「染め」と「織り」にあるといわれている。黄・樺・黒の三色が主体で、すべて八丈島で自生する草木を原料とする天然染料である。
黄色は八丈刈安(学名コブナ草)、樺色は、マダミ(学名タブの木)の皮黒色は椎の木の皮と泥染めによる島独自の染色法によってつくられる。三色を組合わせた竪縞、格子縞などの織物は手織りで作られる。
こうした黄八丈は、長い年月を経ても変色することがなく洗えば洗うほど鮮やかな色のさえを見せるようになる。
連絡先 産地組合名 黄八丈織物協同組合
所在地 〒100-1621 八丈島八丈町樫立346-1
*https://dento-tokyo.jp/items/03.html より
*https://kougeihin.jp/craft/0109/ より
島の女の織る黄八丈が、島を支えてきた
東京から南へ海上を約290キロ。伊豆諸島の一つ八丈島は、黒潮の海に浮かぶひょうたん形をした島だ。かつては「鳥も通わぬ」と謡われ多くの政治犯が流されたところだが、今なら空の便で小一時間、あっけないほど近い。島に着くなり、雨と風の洗礼を受けた。瑞々しい山の緑が、遠めに映える。
黄八丈がいつから織られ始めたのかは、定かではない。が、すでに室町期の文献には、八丈島産の絹織物が献上された旨の記述がある。時代は下って江戸期、黄八丈は将軍家のご用達になった。そして町人文化が興隆した文化文政年間(1804~30)には、広く庶民たちも袖を通すようになっていく。現代でも戦前までは、盛んに養蚕が行われていた。古来、島の女たちは黙々と蚕の世話をし、機を織り、島の経済を支えてきたのだ。
洗えば洗うほど色艶が増す黄八丈
現在、黄八丈の染元は、樫立(かしたて)と中之郷地区に3軒。乙千代ヶ浜(おっちょがはま)にほど近い樫立に、伊勢崎明俊さんを訪ねた。中庭には、鮮やかな黄、渋い色合いの樺に染められた生糸が干されている。
「昼は天日干し、夜は煮る作業。これを20~40回繰り返して、だんだん色が濃くなっていく。一日一日が勝負なんだよ。」
洗うほどに色が冴えていく黄八丈の秘密は、ここにあったのだ。そっと糸に鼻を近づけてみる。天然の染料の香りは鼻孔にやさしく、何度でも嗅いでみたくなる。
「本当は今日、樺の皮を剥ごうと思っていたんだが……。どうしても天気に左右される仕事だからね。雨が降って仕事ができない日は、仲間と一緒にすごすんだ。」
たんごを織る音がないと眠れない
伊勢崎さんは、曾祖父から数えて4代目、27歳のときに染めの仕事を継いだ。
「子供の頃からたんごを織る(樫立の言葉で、反物を織ること)音が子守り歌がわり、夜静かすぎると眠れないんだよ。」
7人いる兄弟姉妹の4番目、伊勢崎さん以外の男兄弟はみな島の外へ。自身も20歳の頃、東京へ出たことがある。でも、そこはあくまで遊びにいくところであって生きていく場所ではないと感じ、3カ月で島へ戻った。以来、畜産や園芸などの仕事を精力的にこなしながら、染めの技術を身につけていったのだ。
織り子あっての染め屋、ともいう。今、織り子の平均年齢は70歳。この30年間で半分に減った。島の女は働き者、古希をすぎた伊勢崎さんの長姉も現役で織り続けている。
「姉ちゃんが織ってる間は、俺も染めをやめないよ。」
24歳になる息子が島の外にいる。けれど、継げとは言えない。
「疲れたっていう台詞は大嫌い。たとえ苦しい仕事だって前向きにやらなきゃな」
黄八丈の色は、植物の命の「うつしかえ」
「あきあにぃは、いっつも動き回ってるんだよ。朝山にいたかと思ったら、昼は海、夜はもう家にいないんだ。」とは、伊勢崎さんを慕う仲間たちの弁。
その暮らしは、半ば自給自足だ。漁師の友人の船に乗って、トビウオ漁に加勢することもある。染め、漁、畑、何をするにせよ夢を描きながら常に前向きに行動したい、という。
「地球上の一生物として、一人の人間として、男として、精一杯正直に生きたいね」
豊饒な自然のなかに身を置いていると、自分が一人勝手に生きているのではなく、あらゆるもののつながりのなかで生かされていることに気づいていくのだろうか。
染めの仕事をしていて、職人冥利に尽きることは?――。「出会いだね」。即座に言葉が返ってきた。よき友人との出会い、染料となる植物との出会い、そして糸に現れ出た色との出会い。黄八丈の黄・樺・黒という色は、植物の命の糸への「うつしかえ」。染めとは、その儀式であるのかもしれない。人はほんの少し、天の恵みの分け前に預かる。
黄八丈の真の魅力は、そこにこそあるように思えてならない。
染めの仕事は天気によって左右される。今日はあいにくの雨、仲間たちが昼ご飯を食べに集まってきた。伊勢崎さん自ら包丁を握ってさばいたトビウオも食卓へ
職人プロフィール
伊勢崎明俊
1942年生まれ。
「親から、たくさん財産をもらったよ。自分を健康に生んでくれたこと、染めの仕事を伝えてくれたこと」。侠気(おとこぎ)のある人である。
*https://kougeihin.jp/craft/0109/ より