「半袖スーツ 羽田孜」
羽田 孜(はた つとむ、1935年〈昭和10年〉8月24日 - 2017年〈平成29年〉8月28日)は、日本の政治家。1994年4月から6月まで第80代内閣総理大臣を務めた。1969年から2012年まで衆議院議員を14期務め、自民党時代には農林水産大臣や大蔵大臣を、離党後には細川内閣で副総理と外務大臣を務めた。また、新生党や太陽党、民政党の党首・代表を歴任した。
羽田は1935年8月24日に後に衆議院議員となる羽田武嗣郎の長男として誕生した。上田第二中学、成城学園高校、成城大学経済学部を卒業した彼は1958年に小田急バスに就職し、1965年に綏子と結婚して雄一郎と次郎という2人の息子をもうけた。1969年には父の後を継いで長野2区から自民党公認で当選した。佐藤派に始まり次いで田中派に所属し、第2次中曽根内閣で農林水産大臣を務めた。羽田は竹下派の結成に加わり、竹下派七奉行のひとりに位置づけられた。羽田は竹下内閣でも再び農林水産大臣を務め、宮澤内閣では大蔵大臣を務めた。しかし、1992年に東京佐川急便事件によって竹下派が分裂すると、羽田は小沢一郎と共に政治改革を掲げ羽田派を立ち上げた。
1993年6月には宮澤内閣の不信任決議案に賛成して自民党を集団離党し、自らを党首とする新生党を結成した。同年に誕生した細川内閣では連立与党として副総理と外務大臣を務めた。1994年に細川が辞任すると後を継いで第80代内閣総理大臣に就任した。しかし日本社会党が連立を離脱したことで少数与党政権となり、在職64日で総辞職した。
退任後は新生党を解党して結成された新進党に参加した。羽田は党首選挙に出馬するも海部俊樹に敗れ副党首となった。1995年には再び党首選挙に出馬するも小沢に敗れた。1996年には新進党を離党して太陽党を結成し党首に就任した。1997年末に新進党が分裂すると1998年に民政党を結成して代表に就任した。1998年4月には民主党の結成に加わり、初代幹事長を務め、その後は羽田グループのトップとして特別代表や最高顧問を務めた。しかし、健康状態の悪化により2012年12月の衆議院解散をもって政界を引退した。その後は療養生活を送り、2017年8月28日に老衰で死去した。
羽田は選挙制度改革に取り組んでいたことで知られ、「ミスター政治改革」とも呼ばれる。温厚な人柄であったことから調整型の人物としても知られていた。一方で、小沢一郎とのコンビが「二重権力」と批判されたほか、自身が首相を務めた羽田内閣は64日間で退陣し、目立った実績を残さなかった。
*Wikipedia より
「省エネルック」
省エネルック(しょうエネルック)は、クール・ビズ運動の源流にあたる運動、またその中で考案された、主に男性用の服装。
1979年に第2次オイルショックの影響を受けて、省エネルギーのために第1次大平内閣が提唱した。半袖開襟のワイシャツや背広のスタイルで、東南アジアなど熱帯国のスタイルを取り込む形である。大平正芳や羽田孜らの政治家が着用を推進したが、ほとんど普及しなかった。
羽田は、「ニューサマースーツ」と名付け、愛用した。熱烈な支持者であった地元の洋品店店主からプレゼントされ、着用するようになった。しかし、そのスーツはヨレヨレであったため、カインドウェアが新たに仕立てることになった。同社の渡辺喜雄会長によると、米海軍の半袖スタイルの制服やインド、東南アジアのファッションを参考にデザインしたという。また、素材はウール中心で、一部麻や綿を混ぜていた。裏地もメッシュで、布端がほつれないようにパイピングを施している。
*Wikipedia より
これほどファッションセンスのないものはなかっただろう(笑 Wikiの中にカインドウェアや同社会長の名があるが、半袖スーツなんてヘンテコなものを作ったことを世紀の笑い話として頭のどこかに留めておこう(笑
羽田はこのスタイルで数々の行事に参加しており、首相在任中(1994年)などにおける省エネスーツ姿が報道等で報じられて一時期話題になったこともあったが、現在のクール・ビズのような広がり・浸透は見られなかった。涼しさだけを優先して、見た目に配慮しなかったことが最大の要因だと言われている[4]。クール・ビズを考案した小池百合子は「(羽田の)あのアイデアが、クールビズにつなげる意味でも参考になった」と話している[1]。
羽田孜の息子で、立憲民主党の参議院議員であった羽田雄一郎もこれにならっている[5]。民主党の参議院議員であった若林秀樹も愛用していたが、クールビズ普及後は着用していない。
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