「球聖/不死身の男 ボビー・チャールトン」
ボビー・チャールトン (Bobby Charlton) ことサー・ロバート・チャールトン(Sir Robert Charlton, CBE、1937年10月11日 - 2023年10月21日)は、イングランド・アシントンの元同国代表サッカー選手、元サッカー指導者。ポジションはFW、MF。
人物
イングランド史上最高の選手と言われている。母の兄弟にはニューカッスル・ユナイテッドの伝説的選手、ジャッキー・ミルバーンがいる。つまりボビーはミルバーンの甥である。ただし、彼にサッカーの手ほどきをしたのは叔父ではなく、母親であった。叔父の名を受け継いだ2歳年上の兄のジャッキー・チャールトンもワールドカップ優勝メンバーである。
イングランド代表での通算得点数で歴代3位の記録を持つ。
テクニックとパワーを兼ね備えた選手であり、特に左足から放たれる正確かつ強力なシュートは「キャノンシュート」と呼ばれ恐れられていた。また、キャプテンとして冷静沈着なプレーぶりは模範的なものであり、私生活でも常によき夫、2人の娘のよき父であり続けた。
来歴
ノーサンバーランド州アシントン出身。1954年17歳でマンチェスター・ユナイテッドに入団した。当初は控えとされたが、1956年にレギュラーに定着、中心選手となり、1956-57シーズンには、リーグ優勝を経験した。しかし、1958年2月6日、チャンピオンズカップの準々決勝、レッドスター・ベオグラード戦からの帰路、『ミュンヘンの悲劇』と呼ばれる飛行機事故に遭い、彼が最も尊敬する主将ダンカン・エドワーズを含む多くの仲間を失ってしまう。彼自身も気を失った状態でシートベルトをしたまま座席ごと機外へ放り出されたが、奇跡的に大きな怪我なく、一命を取り留めた。しかし、精神的なショックは大きく、一時は全くボールを蹴ることが出来なかったという。
この事故のわずか2ヵ月後の1958年4月19日スコットランド戦でイングランド代表デビューを果たし、この試合で代表初得点を挙げた。しかし、代表3試合目は悲劇を思い起こさせるベオグラードでのユーゴスラビア戦だった。この試合でボビーは著しく精彩を欠き、その年のワールドカップまで精神的なダメージを引きずることになった。
その後、不屈の精神で立ち直り、チームの建て直しに貢献。1960年代には、同じく事故の精神的ダメージから立ち直った監督のマット・バスビーと共に、ジョージ・ベストやデニス・ローら若手の多いチームを主将として牽引し、1963年にはFAカップを、1965年と1967年には当時のイングランド一部リーグであるリーグを制するなど、黄金時代を築き上げた。また、個人としても、1966年に、欧州最優秀選手であるバロンドールを受賞している。
愛称 ボビー、球聖
*Wikipedia より
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