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<四国八十八箇所> 第57番札所 栄福寺

2024-05-27 07:32:53 | 巡礼

 「栄福寺」

 栄福寺(えいふくじ)は、愛媛県今治市玉川町にある高野山真言宗の寺院。府頭山(ふとうざん)、無量寿院(むりょうじゅいん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第五十七番札所。

 本尊真言:おん あみりた ていせい からうん
 ご詠歌:この世には弓矢を守る八幡(やはた)なり 来世は人を救う弥陀仏(みだぶつ)
 沿革

 寺伝によれば、弘仁年間(810年 – 824年)巡錫に来た空海(弘法大師)が、嵯峨天皇の勅願により、瀬戸内海の風波海難の平易を祈って府頭山々頂で護摩供を修し、その満願の日に海はおさまり海上に阿弥陀如来が影向した。その尊像を山頂に引き上げ堂宇を建て本尊として開基したと云われている。その後、貞観元年(859年)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡から京都山城に分社の男山八幡(石清水八幡宮)を創建するため近海を航行中暴風雨に遭いこの地に漂着した。上人は府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも阿弥陀如来は八幡菩薩の本地仏であることから、この山頂の境内に八幡明神を勧請し神仏習合の「勝岡八幡宮」を創建した。

 その後、荒廃していたが、源頼義が此の国の刺史となった時に、河野親経とともに国中に薬師堂49箇所、八幡宮を8箇所を建てたが、京都の男山八幡を参考に勝岡から現在地に移し造営した当社が随一であり山内に清泉があったことから「石清水八幡宮」と号し、麓に阿弥陀堂も構えたが、中世の戦乱の災にかかり一時に煙雲にのぼりぬとなる。

 真念の情報により書かれた『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』によると遍路人は東から当山に上がり西に下って現在の境内前を通って次の札所(仙遊寺)へ向かっていて、東側山麓にあった浄寂寺の修行僧がその阿弥陀堂跡に遍路人の寄宿所を建て、その寺が八幡宮の催事を執り行っていた。なお、浄寂寺が催事を執行する以前は当寺が行っていて、長福寺と称したが、後に乗泉寺と称するようになり、寛政4年(1792年)に栄福寺と改称した。『四国遍礼名所図会(1800年刊)』にあるように山頂にあった堂舎を中腹の栄福寺境内に移築し現在も使われている大師堂となった。納経をになっていた当寺は江戸時代後期の納経帳によると本尊名は書かれず「伊豫一國石清水八幡宮 別當栄福寺」と記していた。

 明治初年の神仏分離令で、山頂の本社八幡大菩薩に隣接していた阿弥陀堂の海中より出現したという謂れのある阿弥陀如来像と本社の前にあった金毘羅社は栄福寺境内に移され、別当関係は解消され神社と寺はそれぞれ独立し、札所は真言寺院だったため当寺が引き継いだ。昭和8年(1933年)以降は、犬に引かせた箱車で足の悪い15歳の少年がこの寺で足が治り、その箱車を奉納したという話から足腰守りのお寺としても信仰を集めている。

 境内
 本堂:本尊阿弥陀如来坐像は秘仏。現住職が本堂で婚礼を挙げた時に開帳された。
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 薬師堂:薬師如来半跏像を拝顔できる。
 金毘羅堂:扁額は金比羅となっているが、金毘羅権現を祀っている。
 鐘楼
 句碑:弘法子「四国路は遍路道より明けの春」が手水舎の横にある。
 八幡宮への西からの上り口付近から右に入って行く。山門はなく右手に鐘楼があって、折り返し参道奥に本堂がある。本堂右手前に大師堂、その右に薬師堂、金毘羅堂、庫裏・納経所がある。

 庫裏
 演仏堂:現住職・白川密成の兄で建築家の白川在の設計。
 宿坊:なし
 駐車場:10台、大型不可(駐車料金:100円)。
 グッドデザイン賞

 2011年に設置されたトイレ設置が日本産業デザイン振興会主催の「2012年度グッドデザイン賞」を受賞した。国産材のヒノキなどの間伐材として組み立てることができる独自の工法として使用、男子用、女子用、身体障害者用の3棟で、参拝者から評価されている。

 依頼されたのは現住職・白川密成の兄で建築家の白川在である。

 栄福寺 愛媛県今治市玉川町八幡甲200

*Wikipedia より


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