富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

秋の日の一日 ― 堺市 南区 鉢ケ峯寺

2015年10月22日 | 日記

 堺市南区鉢ケ峯寺地区

広い白菜畑にびっくりしました。

 

 こうやってみると、芸術的です。

 

 これは、キャベツ畑かな?

 

 これはなにかよくわからん。アブラナ科の植物であるのは確かですが、ブロッコリーかな?

 

 こらはオクラです。畑の案内板に書かれていたので、わかります。

 

 それを書いていたのは、その横にあるコスモス館。

地元の旬の新鮮な野菜・果物・花を格安で販売されています。作られた方の名前が値札シールに書かれてあるので、なんか安心です。

身のはちきれんばかり詰まった黒大豆の枝豆がおいしそうでしたが、我慢して、ミカンと珍しい「さとうきび」を買いました。 ― 長さ2mくらいあって、切りますかとノコギリ貸してくれましたが、「珍しいのでそのまま持って帰ります。」と返事。釣竿のようなおみやげを大事そうに、車まで運びました。聞くと、「この時期だけ、来年あるかわからない...」とのこと。なんと120円(税込)でした。食べるのに、ノコギリがいる農産物も珍しい。

 

 コスモス館横のコスモス

 

 雨が全然降らない割には、いきいきしています。

 

 花も大きく、きっちりお手入れされているんだと思います。

 

つぼみがまだたくさん残っていますので、もうしばらく満開が続くと思います。

 


 【法道寺】 堺市南区鉢ケ峯寺401 別称、鉢ケ峯寺

 富田林市から車で30分、堺市南区の田園を過ぎた丘陵地にすごいお寺があります。

 金剛力士像(阿形)

 

 吽形(うんぎょう) 解体修理中に発見された墨書木札で、鎌倉時代の弘安6年(1283)に造像されたことがわかりました。市の指定有形文化財。

 

 食堂近くの塀の鬼瓦

 

多宝塔の複雑な 組み物

 

 なんと行基葺き! 

製作は新しいですけど、脇門の屋根は行基瓦で葺かれています。感激!

 

 多宝塔 国重要文化財

正平23年(1368)建立(屋根の丸瓦の銘による) 安定感のある立派な建物

 

 金堂 江戸時代の建立

これも間口の広い立派な建物です。

 

 中門と食堂 

中門は江戸時代に建立され、当時流行した仁王門の形式で作られています。写真は境内側から写した裏側ですが、おもでは一対の金剛力士像、裏側も木造の仏像が一対安置されていて、びっくり。

 

 食堂(じきどう) 国重要文化財

鎌倉時代後期に建てられ、僧侶が法会の際に食事などを行った建物で、同時代のものでは府下で天野山金剛寺と2棟のみで大変貴重なものだそうです。

 

 法道寺(ほうどうじ)は寺伝によれば7世紀の中ごろに空鉢(法道)仙人が開いたとされる高野山真言宗の寺院です。古くは長福寺といい多数の寺坊がありました。

 

 「鉢峯山」と記銘された軒平瓦と「法道密寺」と記銘された軒丸瓦

 

「盃状穴」とコケ(地衣類)に覆われた「手洗盆」

 

 観音石像と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が大師堂のほうを向いています。

 

実は、この観音石像、とても有名なんですよ。 

 

 この観音石像は、実は『西国三十三度巡礼満願供養塔』なのです。

今はもう途絶えてしまいましたが、江戸前期、から戦後昭和40年あたりまで、、「御背駄(おせた)」という背負子を背負い、その中に西国三十三箇所の観音霊場札所のご本尊のミニチュアを入れて、信者の家で御開帳しながら、年に2回位のペースで西国三十三箇所の札所を、なんと三十三回もまわり続ける職業としての行者さんがいました。(札所のトータル:33ケ寺×33回=1089箇所)

そして西国観音菩薩霊場三十三箇所をなんと歩いて、平均年二回、トータル三十三度、15年以上かかって回り、その満願したあかつきに、施主(=贔屓にしてくれるパトロン、お金持ちの庄屋さんとか)より、満願供養(100両くらい経費が掛かる)をしてもらい、供養塔を建之してもらったものがこの供養塔になります。

もっと古い時代から職業巡礼行者はいたという説も ありますが、供養塔として現存しているのは江戸前期からののものです。(この供養塔は江戸中期、享保年間)

 関連記事:西国三十三度満願供養塔 --- 河内長野市にある極楽寺のお墓  2014.3.7.

 

 ここ法道寺の供養塔は、まず観音石塔の形であるのが珍しい。

初期(江戸前期)のものは、板碑や笠塔婆形のものがありますが、一番多いのは、「宝篋印塔」です。

製作年は享保十六年(1731)で江戸中期のものです。全部ある満願供養塔110基くらいの中では、比較的早い時代のもので、順番でいうと25番目前後くらいになるかと思われます。

しっかりした素材に、非常に丁寧に作られていて、280年以上経過しているのに、花崗岩の風化・劣化があまり見られません。コケ(地衣類)が生えていて、読み切れない文字もありますが、「近所宿中」と読める記銘がありますね。

こういう形での施主は極めて珍しいです。普通は、供養塔を建之したその村の有力者(庄屋さんなど)が多いんですが、「近所宿中」ということは、近隣の宿仲間が施主となり、願主(=満願した行者さん、ちょっと字が読めない)の満願供養を執り行い、供養塔と建之したということになります。供養塔を含め相当の経費がかかったはずです。

そして、この時代、法道寺近辺にそういう宿があったのでしょうか?

 

 これなんだと思います? 

かなり新しい道路の縁石ですが、わざわざ長方形の縁石の角をカットして、丸石を入れてあります。お寺の墓地に至る誘導路の途中2カ所にありましたので、「結界」の意味か、「賽の神」かもしれませんね。

 

 お寺の裏手の谷筋に、溜池が2つありました。これは、奥の池。

 

 手前の池の一部はヒシで被われていました。

 

 法道寺向かいに、丘陵に向かって小さな神社(国神社)の参道の階段があり、常夜灯籠が一対あったので、興味を持って見に行ったら、なんと神社の灯籠とは関係のない「太神宮灯籠(伊勢灯籠)」でした。

江戸時代中期以降に、民衆の伊勢参りまたは伊勢踊りの流行を記念して各地に建之された伊勢灯籠、こんなところにもありました。

 「両宮太神宮」と記銘されており、「太神宮」は伊勢神宮のこと、「両宮」は皇大神宮と豊受大神宮。伊勢 神宮の内宮と外宮を指しています。

こんなところに「太神宮灯籠」があるのは、びっくりですが、よくあることで町の出入口や道の脇にあったものが後の時代に移されていることも多いです。

そして、この一対の灯籠は、実は一対ではないようです。「太神宮灯籠」は、神社の「常夜燈」のように一対で作られることは少なく、ふつう一基を建之されます。

燈籠の形を見ても、基礎の段数や銘の入れ方が異なりますよね。作られた時期も異なります。

 

右側: 文政十三年(1830)の銘があります。

 

 これも太神宮灯籠。

基礎部分に、さきほどの法道寺の手洗盆と同じように、「盃状穴」が見られます。

関連記事:「盃状穴」 私の富田林百景+ 「 太陽の道 美具久留御魂神社 」 2013.12.17.

 

 左側:天明二年(1782)の銘がありました。今から233年前。

 

 古そうな一石五輪塔が祀られていました。近くの墓地で。

 

 「智妙 水子」と記銘されています。この世に生を受け得なかった赤ちゃんを供養した水子塚

文化十三年(1816)の銘でもわかるように、昔の人も今の人も亡くなった自分の子を思う気持ちは同じ。

 

 秋の気配が感じられました。

 

撮影:2015.10.21.

 2015.10.22. (HN:アブラコウモリH )

 


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