越井家住宅 主屋 東筋会所町 平尾屋(材木問屋) 明治末期
当家は代々「平尾屋庄兵衛」を名乗り、その先祖が平尾村 から当地に移住したと云われています。材木商を営み安政年間(1854-60)には庄屋を務めた家柄です。
(由緒はHP「富田林寺内町の探訪」を引用させていただきました。)
越井家住宅 辰巳(巽 たつみ 南東)蔵
母屋の南東角にあります。
越井家住宅 戌亥(乾 いぬい 北西)蔵
戌亥方向に大きな蔵(米蔵)。
葛原家住宅 主屋 富筋南会所町 十津川屋(酒造業) 19世紀初期
葛原家は奈良県吉野郡十津川村の元郷士で、天明元年(1781年)頃に当地で酒屋を始めたと伝えられています。しかし、現在の母屋が建てられたのはそれより後で19世紀の初め頃の再建と考えられます。
葛原家住宅 辰巳(巽 たつみ 南東)小さいほうの蔵。主屋の右。
葛原家住宅 戌亥(乾 いぬい 北西)
戌亥方向に大きいほうの蔵。
じないまちの街路は東西南北、碁盤の目状になっています。
これは永禄三年(1560)頃の寺内町成立段階に作られ、現在南北方向の道を「筋」、東西方向を「町」と呼んでいます。
旧杉山家住宅 主屋 市場筋西林町 わたや屋(酒造業) 寛永21年(1644)
じないまちに大きな敷地をもつお家(うち)の蔵は、蔵が2つあり、主屋に対し北西(戌亥)と南東(辰巳)に建てられています。
つまり、蔵は、鬼門(北東・丑寅)と裏鬼門(南西・未申)を避けて建てられています。
旧杉山家住宅 西(戌亥)蔵
主屋に対し東北の方位は丑(うし)と寅(とら)の間(艮 うしとら)で、日本では古来より「鬼門」といわれ鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされています。
また裏鬼門は鬼門の反対側となる南西の方角のことです。裏鬼門は、複数ある鬼の通り道の中でも最後に鬼が出ていく場所とされており、不吉な方角といわれています。
北野家住宅 主屋 西筋堺町 新堂屋(木綿問屋) 明治30年代(1897~1906)
北野家住宅 辰巳(巽 たつみ 南東)ここには蔵がありませんでした。
北野家住宅 戌亥(乾 いぬい 北西)蔵 ここには犬矢来で囲まれた大きな蔵がありました。
旧田中家住宅 主屋 本町(寺内町隣り 毛人谷) 明治25年(1892)
幕末・明治期には素封家(資産家)にあげられる田中家は、江戸後期に当地に移って来たと云われています。
旧田中家住宅 辰巳蔵(巽 たつみ 南東)
旧田中家住宅 戌亥(乾 いぬい 北西)蔵 2棟並んであります。
空中写真で見ると その方位がよくわかります。(上が北)
西(戌亥)越井家 本町(寺内町隣り 毛人谷)主屋 越井家の分家
西(戌亥)越井家 辰巳(巽 たつみ 南東)蔵。
西(戌亥)越井家 戌亥(乾 いぬい 北西)蔵
西(戌亥)越井家の北側の煉瓦塀 イギリス積み
西(戌亥)越井家
大正期に流行した黒漆喰の母屋の1階より高い高塀です。
「粋な黒塀、見越しの松」ですね。
〈画面をクリックすると拡大します〉
姫路城絵図(享保15年(1730)頃)の縄張り 鬼門の北西部分の角が曲げられています。鬼門除け。
あ、そうそう、じないまちでPLの塔が見えるのは「西」でした。富筋。
お茶をたしなむ鬼瓦
鬼門の鬼は丑の「角」(つの)と「寅」のパンツをはいていますね。
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写真撮影:2024年7月29日、8月1日、9日ほか
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