〈リバイバル・アーカイブス〉2021.6.7.~6.21.
原本:2015年6月24日
石川では江戸時代に、喜志の川面浜や古市の臥龍橋付近の浜から、「剣先船(けんさきふね)」という底の浅い川舟で近在で生産された物資、米・木綿・油・酒・材木などを運んでいたことをご存知ですか。( 絵はイメージです。)
大和川付け替え後は、大坂難波橋まで川路七里半、帰りは、塩・荒物・肥料などを運びました。
喜志の川面浜付近 遠くは二上山 現在西浦井堰ダムがあるので、淀みになっています。
大和川を航行していた剣先船は300艘ほどあり、内 石川を行き来する船は26艘であったと記録に残っています。(元禄五年(1692))
そして、古市村に8艘、石川郡では18艘あったと記されています。
舟運は、鉄道や陸上交通の発達と川筋の土砂の堆積などで、明治になってしだいにすたれていき、明治十五年(1882)頃に廃絶しました。
剣先船は20石積で、約2.5~3トンの荷物が積めました。川船では中型船になります。淀川の三十石船が大きく、柏原船や高瀬舟はもっと小さいです。船頭は前・後ろの2名。基本的には物資専用船です。
金毘羅大権現は、舟運や漁業の神様 船員の安全を守ります。この金毘羅夜燈は川面地区の街中の「老人いこいの家」の入口にあります。
富田林市周辺にも結構ありますね。興味のある方は、ここをクリックしてください。
富田林市川面(かわづら)町界隈
川面浜(河南橋付近)からは約200mほど、河岸段丘崖を登り、崖の上に集落があります。(河岸段丘面)突き当りには伊勢燈籠(太神宮燈籠)が見えます。
三連の大きな蔵もあります。
安永七年(1778)の銘の太神宮燈籠。伊勢燈籠とも呼ばれ、江戸中期以降の「お伊勢参り」にかかわる燈籠です。
勝手に農民が旅行など行けない時代、この南河内地方では、庶民の唯一の楽しみは一生に一度「お伊勢さん」にお参りすることでした。講(=仲間、費用を積み立てて仲間どうし順番にお伊勢参りする集まりを伊勢講といいます。)をつくってお参りし、また60年一度の「おかげ年(伊勢神宮の式年遷宮は20年に一度、そのなかで60年に一度がおかげ年、直近は2014年。おかげ年には特にお伊勢参りやおかげ踊りが大流行したそうです。)」には「おかげ踊り」を踊って、太神宮燈籠を建てたりしました。
火除けです。波(=水)を表しています。川面地区には特に多くありますが、なぜでしょうね?
大和棟のお宅
瓦ぶきと茅葺の複合型の家屋です。江戸時代後期に、大和地方で入母屋の茅葺の防火の対する対策として考案され、南河内地方では、象徴的建物として建てられました。(南河内の江戸後期の家屋の基本は平入り厨子2階瓦葺・田の字型四間取りです。)
〈画像をクリックしていただければ、拡大します。〉
喜志川面浜へは、ご覧の東高野街道、いせ道などを通じて多くの物資が運ばれました。
☆近ぢか、続編をアップします。
関連記事:公民館の講座メンバーで、富田林市喜志地区を歩きました。 2015.6.10.( HN:BUTABARA )
2015.6月24日 (HN:アブラコウモリH )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます