〈リバイバル・アーカイブス〉2021.6.14.~7.04.
原本:2015年6月25日
石川流域から大坂 難波橋まで物資を運んだ剣先船(けんさきぶね)
とんがっていて、刀の切っ先みたいですね。
喜志村様子明細帳などに記載された、大坂剣先船の内容です。(画面をクリックしますと、拡大します。)
大消費地 大坂の中心部まで直接物資を運べる重要な舟運でした。
二上山からの日の出
当時の人も、日の出に手を合わせ、観ていたかもしれません。
石川の浪間に見え隠れする朝焼け
喜志 川面浜のすこし上流部
遠くに二上山を望みます。現在は井堰ができて、ダムのようになっています。
西浦井堰より河南橋を望む。
河南橋のたもと西詰(左側)かそのすこし下流部に船着場があったようですが、正確にはわかっていません。
【剣先船はなぜ富田林村まで着かなかったか?】
富田林寺内町は江戸時代に入り、在郷町として発展していきました。周りに農村地帯を控え、そこで生産されたもの、米・木綿・雑穀を集め、一部は加工して出荷するとともに、農村で必要なもの、農具・荒物・衣類・金肥などの物資をはじめ、各種のサービス(医者・髪結い・大工など)を提供していました。
では、なぜ剣先船は富田林まで運航しなかったのか、不思議です。
近在の農民もわざわざ年貢米を川面浜まで経費負担で運んでいたようです。(富田林市史第2巻 富田林市役所)
大和川支流の河川の傾斜図(青い部分が剣先船が就航した流域)(地図をクリックしますと、拡大します。)
ごらんのとおり、石川は大和川水系の他の河川より、傾斜が急です。
石川の高度変化と井堰数 1(地図をクリックしますと、拡大します。)
喜志 川面浜と富田林の中間の、サイクル橋~金剛大橋まで石川の傾斜が大きくなっているのがわかりますね。
石川の高度変化と井堰数 2 (地図をクリックしますと、拡大します。)
井堰数:大和川~古市村 臥龍橋 3か所
古市~河南橋(川面浜) 5か所
河南橋(川面浜)~金剛大橋(富田林村) 4か所
さらに井堰数も、古市~富田林間は多くなっています。
つまり、自然条件だけ考えれば、古市さらに川面浜、富田林村と中流域を上っていくに従って、条件は厳しくなるようです。
そして太子・河南町方面からの物資、菜種油や木綿を運ぶ重要性も川面浜にはありますので、ほとんどの剣先船がここまでの運行であったようです。
またひとつ、疑問が残るのですが、現在井堰はたいがいコンクリート堰かゴム引布製起伏堰ですので川船は通れません。
では、当時どのようにして船を通していたのでしょうか。次の絵をご覧ください。
旧藤崎井堰 明治23年(1890)の井堰絵図
蛇籠とは、竹や藤づる、鉄線などを丸く長軸に編み、中に河原石や砕石を詰めたもので、河川の堤防を補強したり、本流から取水する農業用水の堰などに利用されてきました。その形が蛇に似ていることから蛇籠と名づけられています。日本にいつ頃伝来したかは明らかではありませんが、『古事記』にも登場するほど長い歴史があり、近世には大いに使用されました。
江戸時代には、喜志・中野・新堂・富田林村の東部の河岸段丘崖にはたくさん竹藪がありました。おそらく、それを利用して蛇籠を作ったのではないでしょうか。
そして、農業用水が必要な春から秋口(春の彼岸から、秋の彼岸まで)にかけて、蛇籠で井堰を築き取水し、秋・冬は蛇籠を取り外して、川船が通船できるようにしたと思われます。これにより、農閑期を利用して、できた米や農産物を運んでいたようです。実に合理的ですね。
よって、農業用水の必要な夏場は、剣先船は運行されませんでした。
羽曳野市古市の舟板を腰板に利用した民家
舟釘の模様がとてもきれいな舟板
(地図をクリックしますと、拡大します。)
館外学習では喜志五郷(現七郷)(今回は4つの地区)を巡る中で、川面地区も訪問しました。
農業と舟運で栄えた街並みを見学しました。
浄土真宗 大谷派 光明山 金光寺
川面町内のお寺です。
厨子(つし=低い屋根)二階の伝統的な建築の民家ですね。
道路に面した木の囲いは「駒寄せ」といいます。また、2階部分の窓は、「虫籠(むしこ)窓」、1階部分の格子窓は、「連子格子(れんじこうし)」。
安永七年(1778)の太神宮灯籠
街角にさりげなく建っています。
茅葺の大和棟
二上山からの日の出
だんじりの提灯飾り
喜志の宮(美具久留御魂神社)さんの秋祭りは大阪府でも、一番遅い10月の第3金~日曜日にあります。
関連記事:喜志 川面の剣先船 1 2015.6.24.
2015.6月25日 (HN:アブラコウモリH )
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