教育は心のコミュニケーション
文部科学省が公表した(12月22日)高校の新しい学習指導要領案で、「英語の授業は、基本的には英語で行うこと」が盛り込まれています。
まず、高校とひとくくりにいっても、生徒の学力はバラバラなんてもんじゃない。日本語で授業をしても、「英語の学力がつかない」いわゆる底辺校、学習指導要領に謳われる訳ですからその学校も英語の授業は英語で行う。生徒は、ますます分からなくなる。底辺校の中には、生徒の能力に応じ、中学校の内容をゆっくり教えて成果を上げているところもあります。そういう実践が引き続き出来る学習指導要領にしなければ。
文部科学省指定の、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクールの顔ぶれ、豪華絢爛、日本を代表する有名進学校揃いです。それらの高校の場合、教師の力というものを考えなければ、英語による英語教育である程度の英語力はつくと思います。底辺校も、スーパー・イングリッシュ校も一緒にするのはよくない。生徒の力をよく知っている、「高校の裁量にまかせる」。こうするのがいいのではなく、こうしなければならないと思います。
英語で指導する単語数は、中学校で1,200語、高校で1,800語(合計、3,000語)になった。中国、韓国並みになった。30年前は、そのくらいあったのですが、減らしたのです。この度は、増やしたというよりは復活させたということです。どのくらい復活させて1,800語にしたか?500語です。これって、法外でしょう。
次に、英語教員ですが、TOEICで900点、自信満々の人もいるでしょうが、「やっていけないんじゃないか」と心配な人もいるでしょう。どちらのタイプも、日本人。日本人が、外国語である英語を、英語のみを使って授業する(複雑な文法は日本語で教えることも認められる)。
「アメリカ人教員が、日本語のみを使って、アメリカの子供達に日本語の授業をしている」想像してみてください。日本語を流ちょうに話すアメリか人でも、危なっかしくてしょうがないと思いませんか?
今年のノーベル賞、日本人が4人も受賞しました。受賞された4人の方々は、高校時代にどのような英語教育を受けられたでしょうか。「グラマー・トランスレイト・メソッド」ですよ。「文法と、和訳」です。その基礎の上に、素晴らしい研究が乗っかったと言ってもいいでしょう。
今の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力を高める」、それはもちろんよいことですが、「文法、和訳」を化石扱い。コミュニケーション能力は、いわば「個」と「個性」の問題ですから、英語のコミュニケーション能力だからといって、英語科だけで培われるものではありません。日本人の英語学習で、大切なのは、文法と和訳です。そこに立ち返らなければ、ペラペラと英語を話すが、英語圏で信用されない日本人を作り出すことになってしまいます。ペラペラ話すが、日本の文化は何も語れない人より、訥々(とつとつ)と、下手くそきわまりない英語だが、一生懸命「忍者」の説明をする人が信用されるでしょう。
日本の大学を出てから、短期間の英語研修のつもりでアメリカへ行き、結局、マサチューセッツ州立大を卒業した知人は、「…英語を日本人に教える?そんなこと出来ません。無理無理」。4年半アメリカで暮らした。しかも、大学で講義を聴き、レポートを書き…単位を取って卒業。それでも「母国語ではない英語を教えることは出来ない」という。
幼少時から、セネガル、アメリカで暮らしてきた実業家は、「英語でのやりとりは、ネイテイブ並に見えるかも知れないが、実際はネイティブに遠くおよばない。それは自分が一番よく知っています。さらに、その先に乗り越えられない大きな壁があります。これは如何ともしがたい壁です」と。
文科省が高校英語に、「国際的な実業家の育成」を求めてはおりません。では、「英語で行う英語の授業」に何を求めているか?
「英語に触れる機会を充実、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため授業は英語で行うことを基本とする」
つまり、日本人教員の英語に触れる機会を充実させる…。これが、危ういのではないか?
では、高校の英語教員をネイティブスピーカーにする。出来るわけないが、出来たとしてもダメです。英文法の解説も、和訳もままならないでしょう。(そうなると、ノーベル賞は期待できないかも)。日本の英語教育は、日本人教員でよいのです。ただ、「英語のみを話す」ということに、否定的考えを持っていますよということです。そして最後に、英語の時間は、英語だけを教える時間ではないのです。
「眠そうだな、昨夜何やってたの」
「土曜日の試合、応援にいってたんだぞ。あのときの武士道精神、天晴れだったよ」
これらの生徒への言葉がけ、学校教育にはこれが最重要と言ってもいいほど大切なのです。日本人同士の心のキャッチボールです。英語では伝わりません。
文部科学省が公表した(12月22日)高校の新しい学習指導要領案で、「英語の授業は、基本的には英語で行うこと」が盛り込まれています。
まず、高校とひとくくりにいっても、生徒の学力はバラバラなんてもんじゃない。日本語で授業をしても、「英語の学力がつかない」いわゆる底辺校、学習指導要領に謳われる訳ですからその学校も英語の授業は英語で行う。生徒は、ますます分からなくなる。底辺校の中には、生徒の能力に応じ、中学校の内容をゆっくり教えて成果を上げているところもあります。そういう実践が引き続き出来る学習指導要領にしなければ。
文部科学省指定の、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクールの顔ぶれ、豪華絢爛、日本を代表する有名進学校揃いです。それらの高校の場合、教師の力というものを考えなければ、英語による英語教育である程度の英語力はつくと思います。底辺校も、スーパー・イングリッシュ校も一緒にするのはよくない。生徒の力をよく知っている、「高校の裁量にまかせる」。こうするのがいいのではなく、こうしなければならないと思います。
英語で指導する単語数は、中学校で1,200語、高校で1,800語(合計、3,000語)になった。中国、韓国並みになった。30年前は、そのくらいあったのですが、減らしたのです。この度は、増やしたというよりは復活させたということです。どのくらい復活させて1,800語にしたか?500語です。これって、法外でしょう。
次に、英語教員ですが、TOEICで900点、自信満々の人もいるでしょうが、「やっていけないんじゃないか」と心配な人もいるでしょう。どちらのタイプも、日本人。日本人が、外国語である英語を、英語のみを使って授業する(複雑な文法は日本語で教えることも認められる)。
「アメリカ人教員が、日本語のみを使って、アメリカの子供達に日本語の授業をしている」想像してみてください。日本語を流ちょうに話すアメリか人でも、危なっかしくてしょうがないと思いませんか?
今年のノーベル賞、日本人が4人も受賞しました。受賞された4人の方々は、高校時代にどのような英語教育を受けられたでしょうか。「グラマー・トランスレイト・メソッド」ですよ。「文法と、和訳」です。その基礎の上に、素晴らしい研究が乗っかったと言ってもいいでしょう。
今の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力を高める」、それはもちろんよいことですが、「文法、和訳」を化石扱い。コミュニケーション能力は、いわば「個」と「個性」の問題ですから、英語のコミュニケーション能力だからといって、英語科だけで培われるものではありません。日本人の英語学習で、大切なのは、文法と和訳です。そこに立ち返らなければ、ペラペラと英語を話すが、英語圏で信用されない日本人を作り出すことになってしまいます。ペラペラ話すが、日本の文化は何も語れない人より、訥々(とつとつ)と、下手くそきわまりない英語だが、一生懸命「忍者」の説明をする人が信用されるでしょう。
日本の大学を出てから、短期間の英語研修のつもりでアメリカへ行き、結局、マサチューセッツ州立大を卒業した知人は、「…英語を日本人に教える?そんなこと出来ません。無理無理」。4年半アメリカで暮らした。しかも、大学で講義を聴き、レポートを書き…単位を取って卒業。それでも「母国語ではない英語を教えることは出来ない」という。
幼少時から、セネガル、アメリカで暮らしてきた実業家は、「英語でのやりとりは、ネイテイブ並に見えるかも知れないが、実際はネイティブに遠くおよばない。それは自分が一番よく知っています。さらに、その先に乗り越えられない大きな壁があります。これは如何ともしがたい壁です」と。
文科省が高校英語に、「国際的な実業家の育成」を求めてはおりません。では、「英語で行う英語の授業」に何を求めているか?
「英語に触れる機会を充実、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため授業は英語で行うことを基本とする」
つまり、日本人教員の英語に触れる機会を充実させる…。これが、危ういのではないか?
では、高校の英語教員をネイティブスピーカーにする。出来るわけないが、出来たとしてもダメです。英文法の解説も、和訳もままならないでしょう。(そうなると、ノーベル賞は期待できないかも)。日本の英語教育は、日本人教員でよいのです。ただ、「英語のみを話す」ということに、否定的考えを持っていますよということです。そして最後に、英語の時間は、英語だけを教える時間ではないのです。
「眠そうだな、昨夜何やってたの」
「土曜日の試合、応援にいってたんだぞ。あのときの武士道精神、天晴れだったよ」
これらの生徒への言葉がけ、学校教育にはこれが最重要と言ってもいいほど大切なのです。日本人同士の心のキャッチボールです。英語では伝わりません。