アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

私でも日本新は無理

2020年03月24日 | Weblog
 春が来ましたねえ。童謡「春が来た」を聴く度、歌う度、子どもの頃を思い出します。貧しい子ども時代を思い出すのかって?ま、貧しいのは今も同じですがね。 子どもの頃は、「『のに』とは何か?」が分かりませんでした。どいういうことかと申しますと…

♫春が来た春が来たどこに来た 山に来た里に来た「のに」も来た♪
 春が「山」に来たのは解りました。「里」に来たのも解ります。「『のに』も来た」…「のに」って、どこ?「のに」に、春が来たってんだから?春は、「山→里→のに」の順に来るらしい。漢字を見たらすぐに解ったかも知れませんが、耳から入ってきた歌ですから「のに」は、自然の何かなのか、人の名前なのか…?

 2番の歌詞は、
 ♩花が咲く花が咲くどこに咲く 山に咲く里に咲くのにも咲く♪
 「のに」には、花も咲くらしい。「佐倉市(さくらし)」とは関係ないらしい。

 3番になると、「のに」が「ので」に変身してしまう。
 ♪鳥が鳴く鳥が鳴くどこで鳴く 山で鳴く里で鳴くのでも鳴く♫
 鳥が、「ので」という場所で、鳴くのだと!
 「子ども電話相談室」など無かったので、一人で「のにもって何」、「のでもって何」と悩んでおりました。いつの頃か、自然に、「野に」「野で」だと理解しましたがね。
 今回、問題にしたいのは、「のでも問題」ではなく、格助詞の「に」と「で」の問題です。
 「…山に来た里に来た…」
 「…山で鳴く里で鳴く…」
 「山に鳴く里に鳴く…」ではダメなのか?童謡「春が来た」の歌詞、1・2番は、「に」を使い、3番は「で」を使っているのですが?
 まず、この場合の正解はぁ、「にでも、ででも、日本語としてはどちらも正しい」です。
 では、作詞者は、どうして「に」に統一しなかったのか?
 それは、「に」を使うか「で」を使うかで、情景が変わるからです。

 「山に鳴く里に鳴く」・・・この鳥は、おそらく一羽で、山を飛んだり、里を飛んだりして鳴いています。あちこち飛び回っている情景が浮かびます。
 「山で鳴く里で鳴く」・・・この場合は、鳥は複数羽いますね。飛び回っては、いない。山で鳴く鳥たち、里で鳴く鳥たち、野原で鳴く鳥たちもいる。
 作詞者は、後者の情景を表現したかった。「ので」に疑問を持ちながら歌っていた幼少時の私は、格助詞がどうのこうのではなく、格助詞「で」に導かれ、山で鳴く鳥たち、里で鳴く鳥たち、野原で鳴く鳥たちを思い浮かべていましたねぇ~っ。

「…野にも咲く」「…野でも鳴く」の、「にも」「でも」については、蘊蓄はないのかって?「にも」「でも」は、「に、で」が「も」とくっついたもの。昔の「フジカシングルエイト」のCMを例にとりますと(古っ!)
 「私にも写せます」・・・皆さん同様、わたしも写せるんですよぉ。
 「私でも写せます」・・・信じがたいでしょうが、写せそうもない私でも写せるんですよ。
 「でも」は、「出来そうもないこと」を表す時に使いますね。
 「私でも、マラソンで日本新記録を出せますよ」てな具合。
 なぬ?「それって、出来そうもないんじゃなくて、出来ないことだろう!」って?

 は~い。では、「私でも、マラソンで日本新記録を出せませんよ」にしておきます。この場合の「私でも…」は、長距離走で良い記録をもっている。そんな凄い私でもマラソンで日本新記録は出せない…というような。謙遜しているようで、上から目線ですね。

 日本語、助詞一つで思惑までもが表現できる。アンシンジラブル(「信じられない」を、英語と混ぜた造語。まだ特許は申請しておりませんがね)な、言語です。