橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

田原城

2015-07-10 | お城巡り(その他)


田原城は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町)にありました。

1480(文明12)年ころに戸田宗光(全久)によって築城されましたが、その後、今川氏
に支配された後、松平氏譜代の本多広孝、池田輝政の重臣である伊木忠次と城主が入れ替わりました。
江戸時代には田原藩1万2千石となり、譜代大名が置かれました。

二の丸に田原市博物館がつくられており、その駐車場を利用しました。

  

二の丸櫓内に展示されていた、復元模型
 
 

もともと海に面した小さな丘に築かれておりましたが、17世紀後半ころに大規模な干拓が行われ、田原城は陸地にむき出しとなり、現在に至っています。
 


大手門に相当する桜門
再建されたものです。

堀のほとんどは埋められており、桜門の脇に池となって残っているのみです。
枡池と
 

袖池
 

三ノ丸は護国神社となっています。
 
 


新しい時代に作られたもののようですが、
水路への転落防止を兼ねたモニュメントでしょうか。
ひょっとして、昔からの石材を使用しているかもしれません。

本丸跡は巴江神社が置かれています。
 



なんと東郷平八郎書です。

1664年(寛文4)年から明治維新まで治めた三宅氏の祖である武将児島高徳が祀られています。
 

本丸と二の丸の間に空堀がつくられています。
そこにつくられていた八つ橋およびあじさい
 

野面積みの石垣が見られます。
 

井戸が残されているあたり、当時の遺構でしょうか。
 



二の丸は田原市博物館となっています。
所在地: 愛知県田原市田原町巴江11-1
開館時間: 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日: 月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日),展示替日
閲覧料: 一般 210円 , 小・中学生 100円

復元された二の丸櫓
 

二の丸と道を隔てたところにある崋山会館は連絡路でつながったいました。
 

崋山会館
 

崋山神社の境内にあります。
 

郷土の偉人である渡辺崋山が祀られています。
 
 


桜門の正面にある田原市民俗資料館
所在地: 愛知県田原市田原町殿町33
開館時間: 9:00~17:00(入館は16:30まで)
開館日 月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)
観覧料: 無料

江戸時代以降の庶民の暮らしを中心にした歴史・民俗・生活工芸資料が展示されています。
どこの市町村の民俗資料館でも見られるようなテーマですが、ここの展示物は見応えがありました。

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鳥羽山城

2015-05-06 | お城巡り(その他)

1575(天正3)年、徳川家康は、武田軍に奪われた二俣城を取り返すために、鳥羽山に本陣を敷きいくつかの砦を築いて二俣城を包囲しました。
これが鳥羽山の始まりだといわれています。

二俣城からはハイキングコースになっており、徒歩で移動することにしました。
 
 

天竜川を眺めながら堤防を歩きます。
 

鳥羽山全景
 

山道を登ります。
 

脇道には行ってさらに登ります。
 

現在は鳥羽山公園として市民に開放されています。
 


わんぱく広場
曲輪の跡にみえますが、そのような説明はありませんでした。


わんぱく広場から少し登って行くと本丸に到着します。

【本丸】


搦手門につきました。
 

本丸では親子写生大会が開催されていました。
 
 

一角に建てられた展望台から眺めてみました。
 

枯山水の手法でつくられた庭園の跡
 
 

戦国時代の城館で庭園を伴うものは全国でも希で、貴重な遺跡だそうです。
また、この発見より、この城は、家康の二俣城攻略後、迎賓施設として機能していたことが予想されます。

大手門跡
 


大手道
通常、わざと曲がりくねらせたり、段差を設けて攻めにくく作られているのに対し、この城の大手道は綺麗すぎます。
やはり、軍事施設としての機能は二俣城に任せ、こちらは迎賓施設だったのでしょう。


【南1曲輪】
 


【笹曲輪】
 

浜松市出身の俳人百合山羽公の句碑
 


【腰曲輪】


石垣を切り出した跡でしょうか。

この木も歴史を見てきたのでしょう。
 

ローラーコースター
 


鳥羽山城についての記録は築城の際のものを除いて残っていません。
長年、謎の城とされていましたが、昭和26年から城址公園の管理人となられた鈴木喜代治氏が、20数年にわたって単独で発掘を続けられ、その様子が明らかになりました。
城郭ファンとして鈴木氏に敬意を表します。

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二俣城

2015-05-04 | お城巡り(その他)

二俣城は、天竜川と二俣川に挟まれた、標高90mの台地に建っていました。


今川氏配下の城として築城されましたが、桶狭間の戦いで当主を失うと、徳川家康に奪われててしまいます。
さらに、西進した武田軍によって支配されてしまいましたが、長篠の戦いの後、再び徳川が奪い返します。
まさに群雄割拠の戦国時代の象徴的な城といえるでしょう。

現在は城山公園として整備されています。

 

また、公園前にはクルマ5台ほどの駐車場があります。
 


【北曲輪】
現在は旭ヶ丘神社が置かれ、二俣町に関連する英霊が祀られています。
 

堀切の跡?
 

このあたりに馬出があったはずです。
 


【本丸】




喰違虎口
攻撃側にS字の進路を取らせ、側面から射出攻撃も受けやすくなるという構造となっています。


天守台


野面積みです。


天守台から後方を眺めてみました。
背面は天竜川が迫っており、天然の要害となっています。
もっとも、武田軍は船でこちら側より攻撃を仕掛けました。

二俣城といえば、家康の長男・松平信康が切腹させられた悲劇の地としても知られています。
1579(天正7)年、織田信長に正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされ家康は築山殿を殺害、さらに二俣城に幽閉させていた信康を切腹させたのです。

土塁によって囲まれています。
 


排水路
これは当時のものではないでしょうね。

一の門
 


【二の丸】
半分は花木園に
 

残り半分は城山稲荷となっています。
 


追手門
立派な櫓台があります。


【蔵屋敷跡】
 

二の丸との間には深い堀切があります。
 
 

一部石垣も残っています。
 


出てきそうな雰囲気は充分感じられます。


【西曲輪】


遊具が置かれていました。
 

城下を一望できます。
 

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岩崎城(尾張国)

2015-03-15 | お城巡り(その他)

トヨタ博物館を後にして岩崎城に向かいました。

 

岩崎城は、尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎)にあり、築いたのは織田信秀(信長の父)といわれています。

尾張国東端にあるこの城は、1529(享禄2)年、松平清康(家康の祖父)に奪われてしまいました。
その後、本郷城から移った丹羽氏清が城主となり、四代にわたって丹羽氏が治めましたが、1600(慶長5)年、関ヶ原の武功が認められ丹羽氏次は三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となりました。

現在は、岩崎城址公園として整備されています。
 

石垣は新しく作られたものでしょうね。
 

城門

 


五重構造の模擬天守
史実にはまったく基づいていない鉄筋コンクリート製です。

ただ、展望台としては機能しています。

東側(長久手方面)風景
 


 

西
 


 

岩崎城歴史記念館

 


「丹羽勘助・古城の址」の碑
1987(昭和62)年に城址公園として整備されるまではこの碑があるだけでした。

岩崎城跡発掘調査の際、土塁の下から偶然発見された古墳
出土品である須恵器の特徴などから6世紀初めのものと推定されます。

 


櫓台
5,5m盛土をして高くしてあります。


「表忠義」
1910(明治43)年に建てられました。

1584(天正12)年、織田信長亡き後の覇権を巡って、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合の間で戦が始まります。小牧・長久手の戦いです。
この初戦において、秀吉軍は犬山城に、家康軍は小牧山城に入って膠着状態に陥いります。

この状況を打破するために動き出したのが秀吉方の池田恒興で、彼は後方撹乱を狙って秘密裏に兵を進めました。
このとき岩崎城主は家康の元に出陣していたので、16歳の弟、丹羽氏重が留守を守っていました。
氏重は池田恒興の進軍に気づくと、岩崎城で食い止めようとします。
果敢に戦いましたが、恒興隊7000名に対して、岩崎城の兵は300名足らずであり、全員討ち死に、落城してしまいます。
しかし、ここで足止めをしてくれたため、追いついた家康軍後続部隊に、恒興は討ち取り、長久手の戦いは徳川側の勝利となりました。

余談ながら、関ヶ原の戦いでは徳川本隊は遅参し、活躍できなかったので、小牧・長久手の戦いの徳川軍の勝利はことさら美化して尾張藩に伝えられているようです。
 

本丸と二の丸の間の空堀

 

かつては土橋で結ばれていました。
 

二の丸には庭園が造られていました。
 

水琴窟
 

もう二十年近く前になるでしょうか。
出張の帰りにこの近くを通り、岩崎城の模擬天守を見かけよってみたことがあります。
当時の私は城に関しても歴史に関してもさして知識を持っておらず「史実に基づかないつまんないものを作りおって」なんて感想しか持てませんでした。
久しぶりに訪れてみると櫓台や空堀など当時を忍ばせる以降はありますし、何よりロマンを感じる歴史があります。
訪問済みの城へ、あらためて行ってみるのも良いものですね。 

 

P.S.


トヨタ博物館も岩崎城もだいたいの位置はわかっていたので、ナビは使用しませんでした。
ところが、岩崎城に向かうはずのところ、道に迷って名古屋市名東区へ行ってしまいました。
帰宅してから、地図を見て再度位置関係を調べなおしました。
思えば、以前はこういった経験が良くありました。
道に迷ったり、あとから再確認して地理を思えていったものでした。
ナビを使うようになって、地図を見る機会がめっきり減ってしまいました。
ときには、こうして迷ってみるのも無駄ではないように思います。

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大草城(尾張国知多郡)

2013-12-23 | お城巡り(その他)

知多四国八十八カ所巡りへ出かける前、グーグルマップで霊場の位置を調べ、マイマップとして登録しています。

いつものように、次に回るお寺の位置を調べていたところ、ピンときました。
「おやっ!もしや?この大草公園って城跡じゃないかな?」

調べてみたらビンゴでした。

織田信長の弟である織田長益(有楽斎)が造った城でした。
1574(天正2)年、長益は知多郡を与えられました。
当初、大野城に入りましたが、水利が悪いため、この地に築城を開始しました。

現地へ行ってみました。
農地の中にうっそうと木々が生い茂った小さな丘があり、容易に場所は確認できました。

しかしながら、狭い路地の集落に取り囲まれなかなか城跡に入れません。

東、北、西とほぼ一周し、ようやく南側の駐車場を発見しました。

現在は大草公園となっています。


現地看板
三の丸は宅地になってしまいましたが、本丸・二の丸は公園として使用され、堀も半分ほど残されています。

櫓型の展望台があります。

大草城は、完成する前に長益の所領が摂津に移ったため、未完の城のまま廃城となりました。
したがって、天守閣も櫓も記録に残されていません。
城跡は風光明媚なところが多いですから、展望台を作ることは結構なことです。
ところが史実に基づかない建物を建てるのはいかがなものかと思います。
それよりも、地元の建築家やデザイナーによる芸術的なものを建てた方がよいかと私は思っています。

階上は安全のためか、鳥害を防ぐためか金網に囲まれていました。

とはいえ、伊勢湾を見渡すことができます。

また、大野城も見えました。

東側や北側の堀は現在でも残されています。

また、堀を囲んで高い土塁が作られています。

公園内には遊歩道が設けられ、遺構を見て歩くことができます。

二の丸

二の丸と本丸の間の土塁

本丸はグラウンドになっていました。

西側は埋め立てられ用水ほどの幅しかありません。

土塁のようですが、これも新しく作られたものでしょう。

ところで、大草城は未完であり、500年以上前に廃城されたため、とっくに荒れ果ててしまうところです。
しかしながら、江戸時代、尾張藩家臣でこの地を領した山澄淡路守は城跡の保存に努めました。
平和な時代となり、新たな築城は御法度となりましたが、万一の有事の際には、再び城として利用しようと考えていたようです。

そのため、当初の形態を維持したまま、残されることとなりました。
明治維新後も、大草城の保存は続けられ、現在も築城当時の形態がよく残されているきわめてまれな城址でした。

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武節城(後半)

2013-10-17 | お城巡り(その他)

 旧稲武町の市街地にやってきました。


看板がすでに「懐古」です。
きっと、マニアが集められたコレクションが陳列されているのだろうと思いつつも、話のタネに見学してみました。


ところが、なにがなにがこれがなかなかすばらしいものでした。
まず、明治維新の志士・国学者などの遺墨のコレクションを展示されています。
解説や年表はすべて手書きで手の込んだものでした。

次に、民芸品も展示されていました。
まあ、これは地方の資料館では良くあることですが、その数が半端ないです。
さらに、漆器や陶磁器がけっこうすばらしいものが混じっていました。
私は骨董に関しては疎いのですが、トップクラスのものは素人の心にも響くものがあると思うのです。

                       古橋懐古館
            所在地;愛知県豊田市稲武町稲橋タヒラ8
                開館時間;09:00~16:30
休館日;月・木(但し、月曜は予約団体には開館、8月は無休),12/25~1/7 
         入館料; 大人500円 ,小人(小・中学生)250円

 
隣の瑞龍寺に寄ってみます。


立派なしだれ桜、さぞかし見事な花をつけることでしょうね。


道沿いの馬頭観音像
馬頭観音信仰が盛んなのでしょうか。7kmほどの散策で、いくつか見かけました。


蔦が絡まる商工会議所の建物
日曜でしたが街中はひっそりしています。

たしか、ここれに武節城の大手門があったはずですが、
跡を探してみましたがそれらしいものは見あたりません。


お不動さんが祀られていました。


供えられたおびただしい数の剣と鳥居が信仰の深さを物語っていますね。

ようやく案内板を発見しました。


名残は地名しか残っていないのですね。

かつてはこの角度でお城を見上げていたのでしょうね。

稲武こども園から山へ入ります。


誓約神社の裏手に武節古城がありました。
武節城から見て向かい合わせの山の中にあたります。

武節古城は南北朝時代に作られたと言われていますが、詳しいことはわかっていません。武節城の前身なのか、並立した時期があったのかもまだわかっていません。


台形に積まれた土地がありました。
おそらくこのあたりが、城跡でしょう。


現在は畑として利用されていました。


奥の方も見たかったのですが、

こんな看板があったり、

こんな罠をみかけたりして、すっかりビビリモードになった私はそそくさと退散してしまいました。

駐輪した道の駅にある「稲武温泉どんぐりの湯」
この日の散策を終え、汗を流します。

武節城でGETしたウォーキングカードをフロントで提示したところ、
タオルのプレゼント
最初、赤・黄・緑の3本を提示され、ちょっと驚きましたが、「お好きな色を1つ選んでください」とのことでした。

このどんぐりの湯、天然温泉でありながら、スーパー銭湯並みの料金とお湯の種類で気軽にはいることができ、これからもツーリングの帰りに利用できそうです。

昼食を取るつもりでした武節城下のうどん店の駐車場はいっぱいで立ち話をしている人も見られます。人気店なんですね。
予定を変更して、どんぐりの湯の2階のレストランへ向かいました。
豚汁定食700円+ノンアルコールビール400円
ちょっと高いですね。

通路の自販機では200円でした。
とりあえず、大広間でプハー

となりの道の駅の豚汁セット。
なぜか赤飯付きで450円でした。

今回のコースは冬は雪に閉ざされ、夏は草・虫・マムシが心配です。
また、県下有数の紅葉の名所香嵐渓が近くにあるので、これからの季節渋滞します。
ですから、今が出かけるチャンスなのです。

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武節城(前半)

2013-10-14 | お城巡り(その他)

武節城があった愛知県豊田市武節町は、長野県・岐阜県との県境です。
したがって、ここは信濃・美濃の侵攻を防ぐ三河の国境の城だったわけです。

猿投グリーンロードから、国道153号を快走します。
かつて飯田街道とよばれたこの道は現在でも名古屋・豊田と飯田・塩尻を結ぶ主要道であり、道幅も広く整備されています。
それでいて適度なカーブ、アップダウンがあるので、バイクで走っていて気持ちの良い道です。
天気の良いこの日は、駐輪した「道の駅 どんぐりの里」はバイク・自動車でいっぱいでした。



とりあえず、フランクフルト
隣町(といっても28kmも離れていますが)で、この春食べたフランクが人生至上最高においしかったので、おもわず飛びついちゃいました。
まあ、これはこれでおいしかったです。

道の駅のすぐ北にあるトンネル。


このトンネルの上に武節城はあります。
看板の下にあるうどん店も気になりますねぇ。
散策が済んだら寄ることにしましょう。

うどん店の前を通り過ぎて少し歩くと登城口です。


湧き水を水筒に詰めて、いざ出立!

山城ではなく、小高い丘に建てられた平山城ですので、5分ほど坂を登れば到着します。それでも、息は切れ切れですが・・・

武節城は3つの曲輪が階段状に作られています。
一番低いところにある三の丸

一段高いところに二の丸があります。

さらに、その上にある本丸

1571(元亀2)年、信長包囲網に呼応した武田信玄は2万5千の大軍を率いて三河侵攻を開始しました。
この際、武節城はなんと戦わずして武田の軍門に下ってしまいました。
しかし、この後信玄は体調を崩したため、退くこととなりあげくのはてに病死してしまいます。

1575(天正3)年、信玄の息子勝頼は三河に侵攻し、徳川・織田連合軍と激突することとなります。長篠の戦いですね。
敗れた勝頼は田峯城主菅沼定忠に伴われ撤退しますが、すでに田峯城では謀反が起こっており入城できず、命からがら武節城にたどり着き、梅酢を飲んで一息ついたとの言い伝えがあります。
「武田勝頼ゆかりの城」とははこの時のことを指しているのでしょう。


夏焼城は標高889mの山頂にあり、本格的登山となります。
またの機会に行ってみたいと思います。

本丸の一段高くなったところには物見台や狼煙台がありました。

現在は神社となっています。


「おお!お宝めっけ!」
道の駅に隣接したどんぐり湯へは散策終了後に寄ってみようと思っていました。
何がいただけるのかな?楽しみです。

蔵屋敷跡


空堀の跡
築城から五百年たちかなり埋もれているが、概要を伺い知ることはできます。


外曲輪
このように草に埋もれておりました。

武節城の見学を終え、夏焼温泉側へ山を下りました。

名倉川沿いに遊歩道が設けられていたので、歩いてみました。

歩いて行くにつれ、だんだんイイ感じになっていきます。

川面も間近から見ることができます。

吊り橋を渡って、反対岸へ移動します。

もうしばらく立つと、紅葉が綺麗なんだろうなぁ。

(後半に続きます)

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亀山城(伊勢国)

2013-08-03 | お城巡り(その他)


亀山城は、伊勢国鈴鹿郡亀山(現在の三重県亀山市本丸町)にあった城です。

まずは、亀山市歴史博物館で概略をつかもうと考えたのですが、


あ~あ、残念


この日は、バイクを置いて徒歩で移動しました。


平面図(現地案内板)
東から西に向かって紹介します。

城は東海道に沿ってありますので、亀山は宿場町でも城下町でもあります。


東端すなわち江戸の方向に設けられていた江戸口門
案内板だけで遺構は残っていません。


【東三の丸】
このあたりに大手門があったようです。


高札場跡


高札は酒屋の看板に代わっていました。


北側にあった江ヶ室門および神戸櫓跡
神戸櫓は三重県鈴鹿市神戸本多町にあった神戸城(かんべじょう)から移築されたのでこの名が付いています。

 

【二の丸】


帯曲輪
復元された土塀には狭間がありません。
これは古い写真をもとに忠実に再現したためですが、御殿の北側に付属した防御施設はずなのに・・・。
平和な時代が続いて、江戸時代にはお花畑になっていたようですので不必要となっていたしょうか。


排水路


埋門


江戸時代、亀山城は幕府の宿所としての役割がありました。
上洛する将軍は本丸を休泊に利用してたため、御殿は二の丸におかれていました。


御殿跡は小学校になっていますが、当時を忍ばせるデザインになっているのはさすがです。


築山すなわち人工的に作られた山
造園的なものでしょうか。


石坂門跡
西の丸側からの出入り口です。
現地に遺構は残されていませんでしたが、

歴史博物館前に掘り出された石垣が展示されています。


石井兄弟亀山敵討遺跡と記された石碑
1704(元禄14)年に起きた仇討ちの記念碑です。
石井宇右衛門は武芸指導をたのまれ、同輩の子赤堀源五右衛門の慢心をこらしめるため試合で打ち負かして訓戒しました。
しかし、源五右衛門それを恨みに思って宇右衛門の不意を襲い殺害、逃走してしまいます。
長男の三之丞が敵討ちの旅にでましたが、美濃で返り討ちにあってしまいます。
次男の彦七は伊予へ渡る時、嵐のため遭難して亡くなりました。
ようやく、三男源蔵・四男半蔵が本懐を遂げることができたのです。
父の死から29年目もの月日がたっていました。


【本丸】


楠木門
二の丸と本丸の間の門です。
現在は道路を挟んで石柱が2本立っているだけです。


三重櫓

高さはありませんが、背後は急峻な崖になっており、背後からの守りは堅そうです。



多聞櫓
亀山城だけでなく三重県下で唯一の中核的城郭建築の遺存例です。


南からみるとけっこうな迫力です。
2007(平成19)年、地震により石垣の一部が崩れてしまいました。
しかし、調べてみると崩落箇所は1972(昭和47)年の補修部分のみで、穴太衆によって築かれたところは無事だったそうです。


市内で見かけたマンホールの蓋も多聞櫓がデザインされていました。


残念ながらこの日は平日だったので見学できませんでした。



実は、ここには天守閣があったのです。
ところが1633(寛永9)年のこと、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じ、天守を解体してしまったのです。
しかも、幕府の命令はここ伊勢亀山城ではなく丹波亀山城であったことが後に発覚します。
つまり間違いで破壊されてしまったのです。
なんとか再建の申請はするのですが認められず代わりに多聞櫓を建てたのでした。
堀尾忠晴は後世にも残る大チョンボをやらかしたといわれいますが、果たしてそうでしょうか。
亀山城の敷地は結構広いです。
1万2000石の小大名としては不相応です。
なおかつ、東海道直近であり、嫌が上でも威圧感を感じさせられます。
当時、参勤交代の大名は、亀山の宿に泊まるのを嫌がったそうです。
ですから、幕府は適当な難癖をつけて取り壊したかった。でも、理由が見つけられなかったので一世一代の大芝居を打ったのではと予想します。


与助井戸
一説には場外への抜け道があったそうですが、埋められてしまっていますね。


本丸御殿の跡は亀山神社となっています。


大久保神官家棟門



亀山古城跡
亀山城は、1265(文永2)年に関実忠によってこの山に築城され、その後現在の位置に移されたのが始まりです。
1590(天正18)年に豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたそうです。

【西の丸】


家老である加藤家の屋敷跡
長屋門と土蔵が残っています。


発掘された遺構をもとに再現された堀



梅厳寺
このあたりが城下町の西端で京口門が設けられていました。


安藤広重の東海道五十三次「亀山雪晴」はここから描いたとされています。


現在は、こんな様子です。
橋の上から見ると、結構深い谷ですね。


でも、下に降りて見ると・・・そうでもないか?

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堀川城・刑部(おさかべ)城

2013-03-28 | お城巡り(その他)

今回おじゃましたのは、浜名湖の北東の気賀(静岡県浜松市北区細江町)です。


1 気賀関所
2 堀川城址
3 刑部城址  と反時計回りに徒歩でまわってきました。
約1時間ほどのお散歩です。


【気賀関所】

浜名湖は汽水湖であるので南を通る東海道は渡船を利用しなければなりませんでした。
これを避けるため、見附宿(静岡県磐田市)と御油宿(愛知県豊川市)間で浜名湖の北側、本坂峠を越えるルートが増設され、本坂道(姫街道)とよばれました。

この宿場のひとつである気賀には交通取締りのために気賀関所が創建されていました。
気賀関所は、箱根関所、新居(今切)関所とともに東海道三関所と称されていたそうです。

現在の気賀関所は、1989(平成元)年、ふるさと創生事業として元の場所から600メートルほど西に、現存する資料を調査して、再建したものです。

関所は江戸を防備することを目的としています。
俗に「入り鉄砲に出女」といわれ、江戸への鉄砲の持ち込みや、人質として江戸に住まわされていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐための監視を中心に、往来する人々や荷物の取調べを行いました。


背後の武器が無言のプレッシャーです。


女改め
手形の記載と本人の年齢・容姿が一致しているかどうか入念に検査します。

制札


【堀川城】
1568(永禄11)年、徳川家康による遠江進攻がはじまりました。
目標は桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の子である氏真の居城掛川城です。
当時、浜名湖北岸地域はまだ今川方の勢力が健在でした。
佐久城の浜名氏、堀江城の大沢氏、そしてここ気賀の小土豪たちが大沢氏の支援を受けて結束していたのです。

田んぼの中に公園のようにぽつんとただずんでいました。

都田川の水を引き、満潮時には島のようになり、徒歩で近寄れないようになっていました。

遺構は残っていません。
碑が2つあるだけです。

さて、掛川城を囲んだ家康ですが、一旦三河に引き上げて出直そうと気賀にさしかかったところ、そこの村人たちが武装して堀川城に集まり、不穏な様子が感じられました。
そこで家康は雑兵の姿に変装し、彼を含めた一隊17騎で先発した。
これとは別に200の兵が後から進んだ。
堀川城では後発の200人が本隊で家康はその中にいると判断、これに襲いかかりました。しかし、家康は先に逃れたことに気付いて愕然としたのでした。

翌年、3000の徳川勢が大挙して堀川城に迫ってきました。
堀川城の城兵2000人とはいえ百姓主体の男女入り混じった村人らです。
いくさ慣れした徳川勢に敵うはずもなく、戦闘は一日で片付きました。
残った人々も徹底的に捕らえられ、ことごとく首を打たれました。
犠牲者は1700人余、これは当時の住民の半数以上にあたります。

首塚と供養碑


どんな祭なんだろうか?


刑部城址に向かって歩き出します。
堀川城裏手にある、みをつくし橋

橋から見た都田川

堤の桜はちょうど見頃でした。

読めない石碑


屯倉水(みやけすい)神社
かつては屯倉神社と水神社として別々の地に祀られていましたが、堀川城の戦いに備え、屯倉神社の社地に堀川城を築き、社殿を水神社へと合祀、社名を屯倉水神社と改め現在に至ります。


【刑部城】
阿王山紫城とも称される刑部城は、堀川城とともに家康への備えとして、地元の豪族らによって築かれました。
しかし、家康側の猛攻の前にひとたまりもなく落城したそうです。
刑部城はその後、家康公の家臣・菅沼氏が守ったそうです。
なお、1572(元亀 3)年、三方ヶ原において徳川軍を壊滅させた武田軍は、この刑部の地で越年しました。

現在、県道261号線(姫街道)によって、城跡は分断されています。

非常にわかりにくいですが、

館跡です。


堀切
こちらはわかりやすいですね。

城址先端部にある金山神社

何が祀られているのでしょうか。

神社後方

周囲は都田川に囲まれている要害です。

刑部城落城時の話として次のような伝承が残されています。
刑部城には 1人の美しい姫があったが、姫は敵兵にかかって恥をさらすのをきらい、城の近くの池に入水し、美しい金襴の蛇に姿をかえた。
その後、この池は「金襴の池」と称されるようになったが、のちに池は埋め立てられてしまい、残念ながら現在は残っていないそうです。

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膳所城

2013-03-12 | お城巡り(その他)

日本三大湖城とは、宍道湖の松江城・諏訪湖の高島城・琵琶湖の膳所(ぜぜ)城を指します。
このうち、未登城であった膳所城へいってきました。

まずは、予習です。


                       大津市歴史博物館
                所在地:滋賀県大津市御陵町2番2号
           観覧料:一般210円,高校生150円,小学生100円
            開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
             休館日:月曜(祝日・振替休日の場合は開館)
                   祝日の翌日(土・日曜日の場合は開館)
                                  年末年始(12月27日~1月5日)

膳所藩の歴史について学べるほか、膳所城の復元模型も展示されています。


膳所城の本丸付近は膳所城跡公園(滋賀県大津市本丸町7 )となっています。


公園入り口にある復元された城門

碑には天守閣跡とありますが、よくわかりません。

こちらからだと、それっぽくも見えますが、後から整備されたようにも思えます。

こちらの石は膳所城のものでしょう。
琵琶湖に突き出た浮城であったことがわかります。

しかし、ここまで埋もれてしまっているのは地盤が弱いところに建てたため、沈下したのでしょうか。

膳所城は波による浸食に悩まされ続けたそうで、絶えず城の補修を余儀なくされ、これが藩の財政を逼迫させる一因となったようです。
このため、なんと廃城の太政官布告が出された翌日には天守以下の建物の解体・移築が行われたのでした。

遺構はほとんど残されていませんが、現在の膳所城跡公園は市民に親しみ愛されているように思えます。

城下町を散策してみました。


公園前の大津市立膳所市民センター

三の丸跡の膳所浄水場

いずれも城郭風に建てられたもので遺構ではありません。


膳所神社(大津市膳所1-14-14)の表門
本丸大手門を移築したものです。

瓦には城主本多氏の立葵紋がみられます。
膳所藩は、彦根藩(井伊家)・小浜藩(酒井家)に次ぐ譜代の大藩で、主に本多家が治めていました。

北門

南門も膳所城の遺構です。


篠津神社(大津市中庄1-14-40)表門
北大手門を移築したものです。



白塗りされている六体地蔵
江戸時代から伝わっているものだそうです。


そして、なにげない地蔵堂の建物は膳所城のお椀倉を移築したものなのです。
その証拠が瓦にあります。


古い時代のものではないでしょうが、周囲の建物も城下町の面影が残されているとおもいませんか。

地名にも


少し離れた茶臼山公園(大津市秋葉台35-9)の中腹にある芭蕉会館


本丸二層隅櫓が改築されたものです。
これも、言われなければ気付かないでしょう。
「趣味の悪い公民館だなあ」と思ってしまいます。


本丸跡からみた近江大橋

里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていたそうです。
つい先日まで、近江八景のひとつである瀬田の唐橋はこの橋のことだと思っていました。

帰路、瀬田の唐橋に寄ってみました。
今ではごく普通の橋に見えますが、宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされているそうで、日本の道100選にも選ばれています。

というのも、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた交通の要所であり、
壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった歴史ある橋なのです。
(・・・なんて、大津市歴史博物館で仕入れてきたばかりの知識です)

コメント (8)
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