橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

柏原(かいばら)陣屋

2020-01-25 | お城巡り(その他)
福知山城、黒井城と訪問した後、昼食をとるために、道の駅「丹波おばあちゃんの里」へ
HPでおすすめとあった、焼きそばをいただきます。


「ホイコーロ?」と聞きたくなるくらい大きな豚肉とキャベツです。
基本的にはソース焼きそばなんですが、実にスパイシーです。
隠し味もいろいろあるようで背脂や揚げ玉はわかりましたが、まだまだいろいろ入っているような深い味わいでした。
味は十分満足できたのですが、700円というのはちょっと・・・
と思っていたら、サービス券が付いていて、飲み物かアイスクリームと交換できるそうです。


さっそく、ラムレーズンと交換。
ソフトクリームのように柔らかくておいしい!幸せです。

これにて丹波攻めは終了!
の予定でしたが、
福知山城で出合ったアマチュアカメラマンのS氏の「柏原(かいばら)というところに織田家の陣屋があるので、寄ってみるとよい。」とのアドバイスをいただいたのでした。
陣屋というには無城大名(大名の家格のひとつで、城を持つことを幕府に許されなかった)の屋敷のことを指します。
城に比べ小規模なので、疲れ果てた体でも大丈夫です。
というわけで、寄ってみることにしました。


柏原藩陣屋跡
所在地: 柏原町柏原683番地
開館時間: 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料(柏原町歴史民俗資料館・田ステ女記念館と共通): 大人200円,中・高校生100円,小学生50円


向かいにある資料館で受付をします。


丹波市立柏原町歴史民俗資料館・田ステ女記念館


長屋門
1714(正徳4)年に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫です。
1818(文政元)年御殿が焼失した時も延焼を免れた、創建時から残る唯一の建築物です。

柏原藩は、1598(慶長3)年、織田信長の弟信包が3万6千石で入って始まりました。
3代続きましたが、1650(慶安3)年、嗣子なく断絶されてしまいます。
以後天領でしたが、1695(元禄8)年、信長の次男信雄の孫の宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で入りました。
移封より19年経た1713(正徳3)年、幕府より陣屋を築く事が許され、以後10代にわたり織田氏が治め、明治にいたりました。


御殿
1714(正徳4)年、初代信休により築かれたものでしたが、文政元年の火災で焼失し、1820(文政3)年に再建されたものです。


現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎません。

往時の間取りがわかるように工夫されています。





井戸跡


御殿の建物は小学校として利用されていたこともあるそうで、その名残が感じられます。


藩祖 織田信包公



隣には、明治に建てられた高等小学校の校舎も保存されていました。

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城びと

2019-10-11 | お城巡り(その他)

上ノ国勝山館に訪れた時のこと

ここにはガイダンス施設がありますが、月曜日は休館日です。
ちなみに、資料館や博物館の類いは月曜休館のところが多く、事前に確かめて計画を立てる必要があります。

にもかかわらず、この時は安い航空券を見つけて思わずこのことを失念してクリックしてしまいました。

もっとも上ノ国勝山館では休館日でも、町の施設で続100名城スタンプを押すことができるのです。


上ノ国町総合福祉センター ジョイじょぐら
所在地:北海道檜山郡上ノ国町字大留100番地

ともあれ、無事スタンプをGETした後、上ノ国勝山館関連の資料やパンフレットはないかと探していたら、こんなチラシを見つけました。


公益法人 日本城郭協会公認サイトで
城びと
http://www.shirobito.jp

だそうです。

ちょっと覗いてみましたが、城に関するいろいろな記事やイベントの紹介などがあり結構面白そうです。

また、訪問した城を記録できます。
これは日本100名城塗りつぶし同好会のものとはちがい、100名城や続100名城以外の城にも多数対応しています。

たとえば、愛知県周辺を見てもこんなにたくさんの城が登録されています。

私の訪問済みの城は・・・

まだまだですね。

もちろん、会員登録しました。

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四稜郭

2019-09-29 | お城巡り(その他)

上ノ国勝山館、志苔館に訪れ、続日本100名城北海道編はコンプリートです。
しかし、飛行機の出発時間まではまだまだ余裕があるので、もうひとつ城跡を訪れてみました。
志苔館からクルマで30分のところにある四稜郭です。

四稜郭は五稜郭を援護する支城として、また東照宮を守護する為に北東約3キロメートル離れた丘陵上に洋式築城法により築かれました。


建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉といわれています。



現在は史跡として保護されています。


史跡四稜郭
所在地: 北海道函館市陣川町59

わりと広い駐車場も設けられています。

土塁が見えてきました。

虎口

いちおう食い違い


城というよりは野戦陣地ですね。
大きさはサッカー場ぐらい
もっとも全体敵に斜面になっているので、サッカーは出来そうもありません。

建物は造られなかったそうです。

周囲は土塁によって囲まれています。

土塁の外側には堀が巡らされています。

ただ、それほど深くはありません。

四隅には砲座が配置されています。

兵士や近郷の百姓など300人で、昼夜兼行して築いたそうです。

もっとも、井戸も建物もなく、平地の真ん中に、この程度の土塁を築いただけの城では、籠城もできず、すぐに落城したらしいです。

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挙母城(七州城)

2019-08-10 | お城巡り(その他)

まだ梅雨明け宣言前の話です。
せっかく、平日休暇取れたのにどうも天気がはっきりしない。
いや、愛知県は荒天なんですが、西へ行っても北へ行っても、雨雲に捕まりそう・・・

ということで、ツーリングはやめにして、メッシュジャケットを購入しにでかけたわけです。
その後、豊田市美術館へ


クリムト展を見に行ったわけですが、


豊田市美術館入り口にこんなものがあり、
自称城マスターの私は「ここは城跡である」とピンときたのでありました。
(誰だって、わかりますよね。)


かつて、ここには挙母藩の藩庁が置かれていました。
正式には挙母城ですが、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、七州城ともよばれたそうです。


隅櫓は、1977(昭和52)年再建されました。


隅櫓に向かう石段ですが、おそらく当時のものではないでしょうね。


このあたりも、残っていた石を再利用しているのかもしれませんが、近年作られたものでしょうね


この書院「又日亭」(ゆうじつてい)は、明治まで寺部城の城内にありました。
明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定ででしたがが、1977年、隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築されました。

他に遺構らしいものは見つかりませんでした。

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レインハット

2019-07-11 | お城巡り(その他)

龍岡城・高島城を訪問した日は、梅雨入りして間もない頃で、

曇りで時折しとしとと雨が降る日でした。

そうした中、大活躍したのが、レインハットでした。


モンベル GORE-TEX クラッシャーハット Men's

以前から、笠がほしいと思っていました。
傘ではなく笠、蓑と笠の笠です。

傘の場合、片手がふさがるので、写真撮影がしにくくなるからです。

レインハットの場合、笠同様両手が空きますし、折りたたんで収納することもでき便利です。

もちろん、強い雨には対応が難しいでしょうが、しとしと雨ぐらいならば気にせずに散策することができました。

デザイン的には野暮ったいのですが、笠の代わりと考えるとこの形になるのでしょう。

両脇を止めると、こんな形になりますが、雨天時には止めない方が機能的かと思います。

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小倉山城

2019-01-26 | お城巡り(その他)

美濃金山城から足を伸ばして、小倉山城にも寄ってみました。

1605(慶長10)年、飛騨高山藩主であった金森長近は、養子の可重に高山城を譲り隠居しました。
小倉山城は、長近の隠居城として築城された城で、別名「小倉居館」とも呼ばれていました。
その後、可重より長近の実子長光に2万石が分知され美濃国に上有知藩が成立しましたが、長光は嗣子無く没し1611(慶長16)年改易、廃藩となり、小倉山城も廃城になりました。

現在は、小倉公園として整備されているようです。


小倉公園
所在地: 岐阜県美濃市1571-3

広い駐車場が用意されていました。


さっそく、石垣出現!
しかし、これは近年作られたものみたいですね。


土塀もまだ新しいです。


立派な櫓を発見

しかし、裏に回ってみると、
「なんじゃこりゃ?」

芝生広場のステージを兼ねているようでした。


富本稲荷大神


登山開始

営業していない店舗のような建物が点在しています。


どうやら、花見の季節のみ営業している飲食店のようです。


誰もいないはずの建物のトタン屋根に、どんぐりが落ちて、
「バチン!コロココロ~」と音を立てて驚かされます。

夜桜を楽しむためか電灯も設置されています。

10分弱で頂上へ到着
「おっ!天守が見えてきたぞ?」


「なんじゃこりゃ?」(その2)
ほっそりしていて、三重の塔か、はたまたロケットか?


無骨な鉄骨造りの階段を登ってみました。



西




展望広場を降りたところの、鮮やかに紅葉したもみじ
「よく来たなぁ」と出迎えてくれているようでした。

公園内をよく見ると、




石段の遺構でしょうか。


石垣跡?

このぐらいしか見つけられませんでした。

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亀山城(三河国)

2018-05-28 | お城巡り(その他)

古宮城から、国道301号線を南へ800m移動し、亀山城へ向かいました。
上野国から三河国作手地方に移住した奥平貞俊は、1424(応永31)年に亀山城を築き本拠地としました。
元亀年間(1570年~1573年)には、貞能の子貞昌(信昌)が甲斐国の武田氏に従属したため、武田氏の三河侵攻の拠点となりますが、1573(天正元)年には徳川氏へ転属します。
関ヶ原の戦いの後、1602(慶長7)年には信昌の四男松平忠明が城主となり作手地方支配の拠点となりましたが、1610(慶長15)年に伊勢国の亀山城へ移封されると、城は廃城となりました。


国道301号線沿いにある道の駅「つくで手作り村」
国道301号は山間部を通る快走路で、信号も交通量も少なくツーリングやドライブには最適です。

このため、バイクもご覧の通りごった返していました。

四輪にいたっては、第一駐車場がいっぱいとなり、奥にある第二駐車場まで使っていました。

「古城まつり」なるのぼりが立っていました。

第二駐車場脇に亀山城址入口があります。


現地案内板より
小さな丘の上に、土塁に囲まれた本丸と二の丸があり、そのまわりを小さな曲輪が取り囲んでいる単純な縄張りです。

ささゆりを守るために、


電子柵が張られています。


いざ、登城


空堀


西曲輪

腰曲輪


腰曲輪には所々穴が掘られています。
武具を隠しておいたのでしょうか。


本丸の東側木戸口跡

本丸

現地案内板




本丸は四方を土塁で囲まれています。


西側木戸口跡


二の丸

二の丸南の空堀

南曲輪

道の駅に隣接していることもあり、見学者がたくさんいました。
高低差はさほどなく、よく整備されていることもありピクニック気分で訪れることもできます。

道の駅に戻って、昼食をいただきました。
山菜そばを注文したところ、黒い麺の田舎そばでした。

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新居城

2018-03-29 | お城巡り(その他)

尾張旭市には城山公園があり市民に、子どもが小さな頃連れて行ってあげたことがあります。当時はあまり気にならなかったのですが、城マニアとなった私は公園名を聞いただけでワクワクしてしまいます。

調べてみると、ここには新居城とよばれる城があることがわかりました。
新居城の歴史はよく分かっていません。
南北朝期の1361(康安元)年に水野良春が築城し、1460(長禄4)年頃にはその子孫である水野宗国によって築き直されたようです。
その後、戦国期に至ってどうなっていたのかは分かりません。


城山公園
所在地:愛知県尾張旭市城山町長池下

駐車場脇にはこんな表示が、

隣接する大学生に向けての注意のようです。


いきなり駐車場脇に、天守閣?

とおもったら、旭城という名のレストハウスでした。

もちろん、新居城にはこんな建物はなかったわけですが、
ここの良心的なのは新居城の縄張りをぎりぎり外れて立っているところです。


城跡は、駐車場から見ても、小高い丘になっています。

土塁が残っています。








本丸は、弓道場とテニスコートなっており、その周囲を土塁が取り囲んでいるようです。


櫓台?
石垣部分は最近作られたものでしょうね。


土橋
両側は、竹林になっていますが、





これは堀切のあとでしょうね。


スカイワードあさひ
開館時間: 9:00~22:00
休館日: 12/29~1/3

9階は展望室(無料)になっています。

新居城の全景
弓道場とテニスコートが本丸
その手前、弓道場を囲むように土塁があり、
さらに手前の竹が生い茂っているあたりが堀切です。


右側に池が2つありますが、かつてはもっと大きく堀の役目をしていたと考えられます。

ここで、カメラの望遠テスト
中央奥に見える名古屋駅前の高層ビル群に迫ってみます。

光学ズームを最大にすると、

さらに、デジタルズームを最大にするとこうなります。


北側
かなたに美濃の山々が見えます。


西側に瀬戸デジタルタワー
愛知・岐阜・三重のスカイツリーですね。

手間には学生駐車禁止の看板があった名古屋産業大学


スカイワードあさひ3階は歴史民俗フロアとなっており、尾張旭の歴史について学ぶことができます。
その一角にあった、新居城についての解説パネル。



どうやら、土塁と堀切は発掘調査の後復元された物のようです。

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奥殿陣屋

2016-05-15 | お城巡り(その他)


岡崎まで軽く走ってきました。


奥殿陣屋
所在地: 愛知県岡崎市奥殿町雑谷下10番地
開館時間: 9:00~16:30
休館: 月曜,年末・年始(月曜が祝日のときは、その翌日)
入館料: 無料


陣屋とは

2つの意味があります。
1つは幕府の直轄地で代官の住居兼役所の建物。

もう1つが中小の大名の城に相当する建物です。
江戸時代、幕府の「一国一城令」とともに築城はご法度となり、それまで城を造っていなかった小藩はやむをえず藩主の屋敷に堀をめぐらしたり、堀を作って格好をつけた。これを陣屋といいました。
江戸時代の大名は俗に三百諸侯と言われますが、明治二年の版籍奉還時には280家。このうち城持ち大名は149家、残り131家は陣屋。ちょうど半々でした。
1万6000石の奥殿藩もこの陣屋に藩庁を置いていました。
(幕末、飛地であった信濃佐久郡に龍岡城を建設します。) 

書院入口
 


書院
唯一の現存建築物です。



 


裏千家11代家元である玄々斎宋室は第4代藩主松平乗友の子だそうです。

りっぱな回遊式庭園

 
 

高いところから書院の全体像をつかむことができました。
 


金鳳亭
こちらで、庭を見ながら食事をすることができます。

資料展示館
 


奥殿藩出身の偉人、永井尚志
先進的な考えの持ち主で勝海舟や坂本龍馬に影響を与えたが、自身は幕臣であるため最後まで新政府軍と戦いました。


奥殿陣屋の見取り図
現在は赤破線で囲まれた部分しか残っていません。

幕末はこんな感じだったようです。
 

この日は骨とう市がひらかれていました。
 


花火資料館
三河は花火発祥の地ともいわれ、生産が盛んです。
 
 

奥へ進むと
 

歴代藩主の廟所がありました。
 

この陣屋で唯一、廟所の裏に石垣を確認しました。
 

こんな道を気持ちよく散策しますが、
 


電気柵によって行く手を阻まれたりします。
イノシシが出るそうです。



隣接する熊野神社に降りてきました。

この蔵は陣屋の遺構か?と思いましたが、見取り図を見ると陣屋の外になるようでちがいますね。
 

陣屋の裏手はこのような崖地になっていました。
 

さて、この日は岡崎市美術博物館で開催されている大鎖国展も見てきました。
鎖国は外国との交流を一切断ち切ったと思われている方も多いかと思いますが、
実際は、長崎でオランダおよび清、対馬で朝鮮、薩摩で琉球、松前で蝦夷(アイヌ)との交易が行われており、それぞれの文化も入ってきたのでした。
けっこう面白かったです。
 

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伊奈城

2016-01-12 | お城巡り(その他)

豊橋から隣の小坂井町(現 豊川市)にある伊奈城址へやってきました。
 

現在は伊奈城趾公園として整備されています。

伊奈城趾公園
所在地: 愛知県豊川市伊奈町柳38番地
利用日: 年中無休
入場料: 無料

1994(平成6)年、「ふるさと創生事業」の一環として調査したところ、堀跡が見つかったそうです。



伊奈城は、室町時代に本多定忠・定助によって築かれました。

 


本多家の紋が松平家の紋となり、徳川家の三つ葉葵になったとのこと。
両家の強いつながりを示しています。

1590(天正18)年、本多康俊が家康の関東移封に従って下総小篠で5千石を領して移り、伊奈城は廃城となりました。
なお、伊奈本多氏(徳川四天王の本多忠勝とは別系統)は、その後、近江膳所6万石の大名として明治まで続きました。


北側に土塁が残されています。
手前のステージは遺構ではないようです。

石碑は最後の膳所藩主である本多康穣の書です。
 

土塁の上を歩いてみました。
 

土塁の上から見た城跡
 


側面の水路
もちろん近年に作られたものでしょうが、ちょうどよい位置的にありますね。

堀の代わりに深い田に囲まれていたそうです。
 


石垣
一人で何とか抱えられるくらいの石が敷き詰められています。

生念台跡
 

模擬櫓
 


さて、陽が傾いてきたので、国道23号線を通って帰ることにしました。

途中、立ち寄った、道の駅「筆柿の里・幸田」
23号線のバイパスに隣接し、SAのようです。
 

三河の道の駅といえば、昨年末、「つくで手作り村」で食べた絶品フランクフルトが忘れません。
もしかしたら、再び出会えるかもと期待していたところ・・・
 

今回はレギュラーサイズですが、あいかわらず、ものすごい肉汁、ものすごい粗挽き
看板に偽りなしです。
 

あとで調べたのですが、この美河フランクは道の駅「筆柿の里・幸田」,「つくで手作り村」,「藤川宿」の他、東名高速「上郷SA上り」,「東郷PA下り」、中央道「恵那峡SA下り」で販売されているようですので、愛知県にお越し(通過)の際には一度お試しあれ。

それと、愛知県立三谷水産高校でつかられたジュレを購入して帰路につきました。
 

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