橋本屋吉次郎電子日誌

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伏見城外伝 ~正伝寺~

2012-06-06 | お城巡り(その他)

伏見桃山城運動公園に建っている模擬天守は、伏見城とはなんの関係もない建築物であり、この場所に何も遺構は残っていません。

しかし、場所を変えれば伏見城の遺構を目にすることができます。
広島県福山市にある福山城の伏見櫓は伏見城から移築されたものです。


伏見城へ訪問したときの記録
http://blog.goo.ne.jp/pf11/e/2cd09991b405e8693b72c0e14083cae7

また、門や御殿の一部は近畿地方の社寺に多く残されています。

今回訪問した、正伝寺もその一つです。
京都市内とはいえ、住宅地と農地が半々の山里にひっそりとたたずんでいました。

中門をくぐり

緩い坂の参道を進んでいきます。

味わい深い灯籠を眺めたりして疲れることはないのですが、

まだ、参道は続きます。

ようやく本堂(方丈)に到着です。

この建物、伏見城の遺構で御成殿とよばれていたものだそうです。

銅鑼を二打

本堂の内部は撮影が禁止されていましたので写真はありませんが、狩野山楽筆の襖絵がありました。
息をのむような格調高さを感じました。


本堂の広縁の天井は血天井とよばれています。
これはもともと、伏見城の廊下の床板だったのです。
関ヶ原の合戦直前に石田三成軍に取り囲まれ、鳥居元忠以下多くの武将が落城の際割腹し果てました。
彼らを供養するために寺に持ち込まれたのですが、人が踏みつける床では失礼なので天井の板としたそうです。


現在も血痕が確認できます。

血天井というのはここだけのものではなく他にも多く見られるもののようです。

目をうつした先には小堀遠州作の庭園が静かにたたずんでいました。



                                       正伝寺
           京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72

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伏見城

2012-06-04 | お城巡り(その他)

伏見城は1592(文禄元)年8、豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため築かれました。
しかし、地震によって倒壊しため、新たな城が1597(慶長2)年に築き直されました。
秀吉はその2年後に城内で没しました。
 
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失してしまいました。
 
1602(慶長7)年ごろ家康によってみたび再建されたが、1619(元和5)年に廃城とされた。

明治時代になり、城跡は宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いそうです。

1964(昭和39)年、伏見城花畑跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されました。
やがて、閉園することになりましたが、京都市に贈与され、現在では伏見桃山城運動公園として整備されています。

小高い丘を登っていくと妙に立派な駐車場の門が目に飛び込んできます。

バイク・自転車は無料です。

それっぽい土塀です。

立派すぎる大手門

よく見ると、
入場券売り場の跡でしょうか。

耐震基準を満たしていないことから模擬天守は内部非公開となっています。

5重6階の大天守と3重4階の小天守の堂々たる連結式天守です。

が、

大天守は姫路城を模したものであり、小天守は彦根城を模して作った全く史実に基づかない鉄筋コンクリート製の模擬天守です。

私は地元の人たち気持ちを考えれば再建された天守を否定することはできません。
また、以前は消防法などの関係で鉄筋コンクリート製でしか建てられず、これも致し方ないことです。
しかし、全く異なる原寸大モデルを置いておくことには強い違和感を感じざるを得ません。
 
2007年、映画撮影のため東映が約1億円を負担し、装飾を直して大坂城に見立てた改修がなされたそうです。
このため、表からは綺麗に見えるのですが、

裏に回ると、
蔦に浸食され、

あちらこちら、錆が出ていました。

強者どもが夢の跡を感じさせる城跡
はいくつも見てきましたが、
この城は昭和の思い出の跡を感じさせます。


伏見城は別名桃山城ともよばれています。
安土桃山時代は、安土城や桃山城が歴史の表舞台だったのでこの名が付いています。
安土城は石垣しか残っていませんが、その壮大な姿を人々に想像させ、史跡としても一級品になっているのに対し、桃山城は映画のセットとしての価値しかありません。
誠に寂しい限りです。

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岩倉城(尾張国)

2012-05-28 | お城巡り(その他)

岩倉城は、1479(文明11)年、織田敏広によって築城されました 。
当時の尾張は対立する2つの織田家によって分割して統治されていました。
敏広は北部を治める織田伊勢守系の当主です。

もう一方は、清洲城を居城し南部を治めていた織田大和守系でした。
こちらでは織田信秀が死去、信長が家督を継いだものの評判が悪く、弟の信勝を推挙する動きが発生します。
内部分裂と判断した伊勢守系は信勝を支援しますが、逆に信長に攻められてしまいます。

こうして1558(永禄元)年の浮野合戦で伊勢守系は敗北、翌1559(永禄2)年、岩倉城は落城し伊勢守系織田氏は滅亡しました。


城址は市街化されてしまっており、記念碑が残されているのにすぎません。


「岩倉城址」の碑
道路際に建っており、容易に確認できます。


「織田伊勢守城址」の碑


城跡は小さな公園のようになっていて


地蔵堂


不動明王像


日露戦争の記念碑がおかれている他


水飲み場やベンチも設置されていました。

なんと、道を挟んだ向かいにはトイレも作られていました。


復元予想図(現地案内板)
すぐ西を流れておる五条川を利用して堀が作られていたようです。


現在の五条川は有名な桜スポットとなっています。


城下町も形成されていたようです。(現地案内板)

岩倉駅東あたりには鍵形の道のあとが見られます。
これは敵の侵入を待ちかまえたり、行き止まりに見せかけるためのものです。

反対側から見てみました。

近くの神明生田神社の境内には、

 
山内一豊生誕記念碑がありました。

要約するとこういうことだろうと思います。

一豊の父、盛豊は織田伊勢守家の家老であり、岩倉城落城のおり、亡くなりました。
これは大河ドラマ巧妙が辻の冒頭場面となっています。

なお、一豊生誕に関しては、黒田城(一宮市木曽川町黒田)とする説もあります。
http://blog.goo.ne.jp/pf11/e/204dfe865ca7a107ffabbfed3925532b

ともかく、きっと地元の皆さんは誇りに思われていることだと思います。

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田辺城

2011-11-27 | お城巡り(その他)

1578(天正6)年、丹後を制圧した細川幽斎(藤孝)は宮津城に加えて、交通の要所であった田辺(現在の舞鶴)に田辺城を築き、丹後経営の中心としました。
そして隠居後は、子の忠興を入城させました。

現在、田辺城跡は舞鶴公園となっております。

こうしてみると、本丸(赤いところ)部分に相当するようです。



建築物は城門(左)と櫓(右)のみで、どちらも復元されたものです。


本丸城門
ふるさと創生事業を活用して1992(平成4)年に整備されました。
二階は田辺城資料館となっています。


隅櫓 、1930(昭和15)年に復元されました。
彰古館(展示室)として使われています。


隅櫓から見た風景。


展示されていた模型
これを見ると、復元された城門の位置が本来とは違っていることがわかります。


復元された本丸井戸跡

本丸の石垣

土居址とありますが、何かよくわかりません。

1600(慶応5)年、関ヶ原の戦いが始まると細川忠興は東軍側として参戦しました。
すると、石田三成は留守を守っていた父幽斎に対して1万5000もの大軍をけしかけます。
細川軍の主力は関ヶ原に行ってしまっており、守る兵は500人足らずしかいません。
幽斎は他の持ち城を焼き払い、田辺城に籠城を決めます。

少ない手勢で良く持ちこたえましたが、圧倒的多数の前に落城は時間の問題でした。

そこで、幽斎は朝廷に使者を送ります。

幽斎は戦国武将一の教養人で、古今伝授を受けていました。
この当時、古今和歌集の解説は、師匠から弟子へ秘伝の形で継承されていました。
幽斎が亡くなるとその伝承者が一人途絶え、資料も灰となりかねないのです。

おどろいた後陽成天皇はすぐに包囲を解くように勅命を下した。
まさに芸は身を助けたのでした。

幽斎が籠城の際に朝廷に送った歌が刻まれた碑がありました。


古へも今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉

ゆえにこの庭園は心種園と名付けられています。

天守台跡

一部残されている二の丸の石垣

右は線路、左は史跡・・・・道路を拡張するのも大変です。

公園内の遊具も天守閣風

城で使われていたと思われる石がごろごろ転がっていました。

細川忠興の小倉転封後は、京極氏がこの地を治め田辺藩を設立します。
1668(寛文8)年、京極氏が豊岡に移封となった後、牧野親成が入封しました。
以後200年余、10代にわたり廃藩に至るまで田辺藩主として在封しました。


牧野家紀恩碑

田辺城
京都府舞鶴市南田辺15-22

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高崎城

2011-10-02 | お城巡り(その他)

箕輪城の現地説明に、「廃城後の資材は高崎城に使われた」とあるのをみて、高崎城を見てみたくなり、急遽向かいました。

元来この地には和田城という城があったのですが、1598(慶長3)年、徳川家康の命を受けた井伊直政がこの地に入り地名を高崎と改め、城も大幅に改修したのでした。
明治維新まで城主はたびたび変わってきましたがいずれも譜代大名であり、いかに幕府がこの地を重要視していたかわかります。
なお、三代将軍徳川家光が、弟の忠長を幽閉し、自害に至らしめました場所でもあります。

高崎市の中心部にあり、たやすく目につきます。

乾櫓



かつては、天守閣の代わりの御三階櫓とこれを取り囲む4基の隅櫓(乾櫓・艮櫓・巽櫓・坤櫓)がありましたが、現存するのは乾櫓のみです。


東門
唯一残されている門です。

北・東と南の一部には堀が残されています。

他に遺構は残っておりません。
城跡には多くの公共施設が建てられていました。


高崎市役所


NTT


群馬音楽センター


群馬シンフォニーホール

この日は合唱コンクールが開催されており、発表前の練習の歌声が流れておりました。
音楽があふれる街はすてきです。


城跡には公園も設けられていました。


何かイベントをしていました。


完全に現代の街にとけ込んでいる城跡です。


高崎城
群馬県高崎市高松町

 

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黒田城 (尾張国)

2011-09-07 | お城巡り(その他)

なるほどTHE武将博スタンプラリーのついでに、黒田城へ寄ってみました。


黒田城は、尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)にあった城で、初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城です。
 
築城時期はよくわかっていませんが、1532(天文初)年には織田伊勢守家の家老であった山内盛豊が城代として入ってました。
山内一豊は盛豊の三男として、1545(天文14)年にこの城で誕生しています(岩倉城誕生説もあります)。
 
しかし、このころ織田伊勢守家と織田氏の傍流ながら勢力を強大化させた織田信長とが対立し、1557(弘治3)年黒田城は襲撃されてしまいます。
生き残った山内一族は主家の岩倉城に逃れたものの、翌々年にはその岩倉城も信長によって落城、盛豊は亡くなり、一家は離散することとなります。


現在は、記念碑が建てられているのに過ぎません。


山内一豊の像


鏡のように写り込む石碑

山内氏以降、黒田城は城主をたびたび変え、最盛期には東西役120m・南北約100m規模で、周囲に堀を巡らし、北西端の主郭部分には、天守に相当する櫓があったそうです。
江戸時代初めに廃城となり、現在、敷地の多くは一宮市立黒田小学校となっており遺構は見あたりません。


学校の北を流れる野府川は、かつての堀の跡と伝わっていますが、はたして・・・

黒田城
住所:愛知県一宮市木曽川町黒田字古城

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松代城(海津城)

2011-08-09 | お城巡り(その他)

【松代城(海津城)】


海津城の正確な築城時期は不明ですが、武田信玄が上杉謙信と戦うための拠点として築かせた城です。
武田氏滅亡後、幾度か城主が交代しましたが、1622(元和8)年、真田信之が上田城から移封された後、松代城と改名されました。
真田氏は明治になるまでこの地を治めることになります。


城の南側(大手門側)にも北側(搦め手門側)にも無料駐車場が整備されています。

日本百名城のスタンプは管理事務所入り口脇に置かれています。


太鼓門
本丸ないでは一番大きな門で2つの門からなります。
手前が枡形門


奥が櫓門です。


本丸内の石碑
「海津城」と刻まれています。


戌亥隅櫓台
松代城には天守閣は作られませんでした。


隅櫓跡から見た本丸


おなじく、搦手側の北不明門付近
 
北不明門
太鼓門同様に2つの門で構成されています。


井戸


現地案内板


二の堀


土塁


東不明門と前橋

三の堀も一部残されていました。

さらに、数km離れたところにある、川中島の戦いの史跡を訪ねてみました。

松代城
長野県長野市松代町松代44

【典厩寺(てんきゅうじ)】
川中島資料館がある典厩寺へ行ってみました。


拝観料200円を置いておきます。



本堂


日本一大きい閻魔像だそうです。


信玄の弟である武田信繁の墓


信繁の首を奪い返した後、清めた井戸

奥にこぢんまり資料館がありました

典厩寺
長野県長野市篠ノ井杵淵1000

【勘助宮(かんすけのみや)】
長野オリンピックスタジアムがある南長野運動公園の南西の端に石碑が建っています。


山本勘助が討ち死にしたあたりといわれています。
現在は東福寺神社に合祀されたため、石碑だけ残っています。

勘助宮
長野県長野市篠ノ井東福寺字上組北320

【八幡原史跡公園】

信玄と謙信の一騎打ち(三太刀七太刀)の像


執念の石
主君・信玄の危機を感じ、武田軍の原大隅が謙信に槍を向けたところ馬に当たって謙信は逃走、大隅悔しさで石に槍を突いたそうです。


首塚
海津城主の高坂弾正は、敵味方の区別なく戦死者を葬ったとされます。
これを聞いた上杉謙信は大変感動し、武田軍に塩を送るきっかけとなったそうです。

八幡原史跡公園
長野県長野市小島田町1384-1

 

あと、すばらしかったのが、松代の城下町でした。
こちら、後日、改めて報告したいと思います

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桑名城

2011-07-17 | お城巡り(その他)

桑名城は、永正年間(1504年~1521年)、この地を支配した伊藤氏が設けたのが最初と伝えられています。
さらに、織田信長の家臣の滝川一益が治めた後、、一柳右近や氏家行広と城主をたびたび変えてきました。。

関が原の合戦の翌年である慶長6年(1601年)、徳川家康は四天王の一人、本多忠勝を10万石で桑名に配置しました。


忠勝は近世城郭を完成させ、城下の町割りを行って桑名藩を成立させました。
後に城主は久松松平家、久松松平家、そして再び久松松平家と幾度か代わりましたがいずれも、徳川家の血縁で固めているのは、この土地がきわめて重要であったためだと思われます。

現在は九華公園となり広く市民に開放されています。

これが九華公園の案内図(現地案内板)

そして、かつての桑名城の絵図(現地案内板)

本丸跡には鎮国守国神社が置かれています。

辰巳櫓跡



天守閣は元禄14年(1701年)に消失してしまい、以後辰巳櫓がかの代わりを担ってきました。
明治維新の際、桑名城主は会津藩主の弟であったため、新政府軍によって焼き払われてしまいました。

なぜか、大砲が置かれていました。

朝日丸跡は野球場になっていました。

橋を渡ると二の丸跡

少し離れたところにある三の丸跡です。

復元された蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)



1階は付近にある3つの水門の管理事務所になっています。
2階は展望室に開放されています。
展望室からのぞいてみると、長良川河口堰が・・・

地名に名残がありますね。

九華公園内に見られる石垣は新しいのもので、桑名城の遺構ではありません。


しかし、公園の外側には当時の石垣が残っていました。

 

九華公園
三重県桑名市吉之丸5-1

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上赤坂城(楠木城)

2011-07-07 | お城巡り(その他)

上赤坂城(楠木城)はわかりにくいところにあります。

私のナビでは「赤坂城」と設定できるだけで、それは下赤坂城を示しておりました。
住所を調べても「大阪府南河内郡千早赤阪村桐山」とあるだけで、番地がわかりません。

このあたりだとおもわれる広域農道を走って、ようやく表示を見つけることができました。


ここから、しばらく農道を走ると行き止まりになります。


車を3台ほど駐車できるスペースがあり、ここに駐車して


山道を20分ほど歩きました。


石仏がお出迎えです。

一の木戸跡

二の木戸跡

このような現地説明板がなければわかりません。


三の木戸跡。

そろばん橋。堀切をいくつか渡り、でこぼこになっているのでこのような名前がついたのでしょうか。よくわかりません。

四の木戸跡

茶碗原。右に進むと本丸、左へ進むと二の丸です。

本丸につきました。

下赤坂城にもまして、見晴らしがいいです。

もちろん、例の塔もバッチリ見えます。

二の丸。杉林になっていました。

それほど大きな城ではないが、下赤坂城を出丸、上赤坂城を本丸、千早城を詰めの城とするならば強力な砦となり、土地勘のある正成軍が鎌倉幕府軍に対し、十分持ちこたえたのもうなずけるような気がします。

いよいよ、最後の目的地の千早城へ向かうことにします。

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下赤坂城

2011-07-06 | お城巡り(その他)

楠木正成ゆかりの上赤坂城・下赤坂城・千早城を訪問してきました。

正成は河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生と言われています。
出生の地とされる場所


隣接して村立郷土資料館が置かれています。


なお、日本一小さな道の駅と自称している「ちはやあかさか」も隣にあります。

少し離れた、村立中学校の裏手に

下赤坂城跡があります。


といっても、碑が建っているだけで遺構は残っていません。

このあたりは「下赤坂の棚田」とよばれており、日本の棚田百選にも選ばれております。

富田林市街が一望できました。

スカイツリーではありません。

下赤坂城の縄張りはよくわかっていません。
一説によると村役場あたりに本丸があったとされています。

役場には説明板が設置してあっただけでした。

鎌倉時代末期の1332年、楠木正成は後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵し、幕府軍と戦いました(赤坂城の戦い)。
寡兵ながらも約1ヵ月間よく守りましたが、結局陥落、正成は自害・・・したことにされました。
その後、再び姿を現し、下赤坂城を取り戻したのち、舞台を上赤坂城・千早城に変え、倒幕につながる戦いを繰り返したのでした。

ということで、上赤坂城へと向かいました。


千早赤阪村立郷土資料館
大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分266番地

千早赤阪村立中学校(この裏に下赤坂城の碑がある)
大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25

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