知多四国八十八カ所巡りへ出かける前、グーグルマップで霊場の位置を調べ、マイマップとして登録しています。
いつものように、次に回るお寺の位置を調べていたところ、ピンときました。
「おやっ!もしや?この大草公園って城跡じゃないかな?」
調べてみたらビンゴでした。
織田信長の弟である織田長益(有楽斎)が造った城でした。
1574(天正2)年、長益は知多郡を与えられました。
当初、大野城に入りましたが、水利が悪いため、この地に築城を開始しました。
現地へ行ってみました。
農地の中にうっそうと木々が生い茂った小さな丘があり、容易に場所は確認できました。
しかしながら、狭い路地の集落に取り囲まれなかなか城跡に入れません。
東、北、西とほぼ一周し、ようやく南側の駐車場を発見しました。
現在は大草公園となっています。
現地看板
三の丸は宅地になってしまいましたが、本丸・二の丸は公園として使用され、堀も半分ほど残されています。
櫓型の展望台があります。
大草城は、完成する前に長益の所領が摂津に移ったため、未完の城のまま廃城となりました。
したがって、天守閣も櫓も記録に残されていません。
城跡は風光明媚なところが多いですから、展望台を作ることは結構なことです。
ところが史実に基づかない建物を建てるのはいかがなものかと思います。
それよりも、地元の建築家やデザイナーによる芸術的なものを建てた方がよいかと私は思っています。
階上は安全のためか、鳥害を防ぐためか金網に囲まれていました。
とはいえ、伊勢湾を見渡すことができます。
また、大野城も見えました。
東側や北側の堀は現在でも残されています。
また、堀を囲んで高い土塁が作られています。
公園内には遊歩道が設けられ、遺構を見て歩くことができます。
二の丸
二の丸と本丸の間の土塁
本丸はグラウンドになっていました。
西側は埋め立てられ用水ほどの幅しかありません。
土塁のようですが、これも新しく作られたものでしょう。
ところで、大草城は未完であり、500年以上前に廃城されたため、とっくに荒れ果ててしまうところです。
しかしながら、江戸時代、尾張藩家臣でこの地を領した山澄淡路守は城跡の保存に努めました。
平和な時代となり、新たな築城は御法度となりましたが、万一の有事の際には、再び城として利用しようと考えていたようです。
そのため、当初の形態を維持したまま、残されることとなりました。
明治維新後も、大草城の保存は続けられ、現在も築城当時の形態がよく残されているきわめてまれな城址でした。