新門司港から、すぐに高速にのり1時間ちょっと、山口に来ました。
山口は、南北朝時代より大内氏によって治められ、その間、大内氏は守護大名さらに戦国大名になっていきました。
高嶺城(こうのみねじょう)は、1556(弘治2)年、戦国大名大内氏最後の当主、大内義長によって築城がはじまりました。
しかし、1557(弘治3)年、毛利氏が山口に侵攻しはじめ、義長は未完成の高嶺城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなりました。
大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成することができました。
木戸神社西から山道を740kmクルマで2分、糸米川砂防園の駐車場にとめました。
三段あり20台くらいとめられそうでした。
高嶺城跡を示す案内板
「山頂まで2000m」とあります。
この内1500mは、緩い登りの舗装路でした。
クルマで行けなくもなさそうでしたが、待避場所はなく、すれ違いができないので歩くべきです。
先ほどの案内板にも「歩くこと」と手書きされていました。
緩いとはいえ、登りが続くので、息が切れ、汗が吹き出ます。
季節外れの紫陽花に癒されます。
途中、見晴らしの良い場所があり、ベンチが置かれていました。
山口市街が一望できます。
主郭からの眺めは、もっとすばらしいだろうとこの時は思っていましたが・・・。
ようやく電波塔に着きました。
ここまで23分かかりました。
もうすでに、城内です。
電波塔下の郭
細い山道を登ります。
足どりが遅くなりましたが、そのぶん心肺的には楽になりました。
東屋がある郭
ガスっていて見晴らしは効きません。
広い郭
ガスが濃くなってきました。
右を登ると主郭、左へ進むと井戸と石垣を見ることができます。
井戸
主郭下の石垣
主郭に向かいます。
主郭
高嶺城は元和一国一城令により廃城となりました。
しかし、幕末に藩庁が萩から山口に変わると城址が山口城の詰めの城として再び使用されました。
霧は雨に変わりました。
もっと早く降りだしていたら心折れていたかもしれません。
主郭からは何も見えませんでした。
雨、赤土、岩場、濡れ落ち葉、急勾配と滑りやすい要素がてんこ盛りです。
東屋がある郭まで戻ってきて雨宿りです。
合羽は、もっていますが‥
着るタイミングが難しいです。
遅れると雨に濡れ、早くても汗でぐしゃぐしゃになったりします。
しばらく様子をみて、小雨に濡れることを選択。
それでも、レインハットの活躍と木々のおかげで、ずぶ濡れ一歩手前でかえってこられました。
所要時間:約1時間30分