平戸から名護屋城までは、一般道で約77km。
玄界灘を左手に、適度なカーブとアップダウンで、気分良く走ることができます。
と思ったのも最初の1時間だけで、残り1時間は猛暑の中、ひたすら辛抱でした。
やっと到着しました。
左奥に見えるのが名護屋城博物館です。
ずいぶん立派な建物ですね。展示物も充実しています。
日本百名城スタンプは受付で押すことができます。
とても無料だと思えません。
太っ腹なので、この記事を書くまでずっと国立だと思っていましたが、県立なんですね。佐賀県は偉い!
清掃協力費100円
そりゃそうでしょ。放っておけば数ヶ月で草だらけです。
となればこの季節、ヤブ蚊+蜂+マムシで入れなくなっちゃいます。
喜んで、払わせてもらいます。
名護屋城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵際し築かれました。
五重天守や御殿が建てられ、大阪城に次ぐ規模の広壮なものだったようです。
さらに、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれ、 城の周囲には城下町が築かれ、人口10万人を超えるほどの都市になっていたそうです。
秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために廃城となりました。
さらに、江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却されてしまいました。
大手口
ここで記念写真を撮るのが定番のようです。
かつてはここに楼門がありました
東出丸
現在はのどかな集落ですが、
かつては、名だたる大名の陣屋が並び、一時的に首都機能を持った都市だったとは信じられません。
三の丸の入り口
三の丸
本丸を守る重要な区域でした。
本丸大手門
ここにあった門は伊達政宗によって仙台城に移されたと言われています。
国宝にも指定されましたが、仙台空襲により消失してしまいました。
本丸
御殿が置かれていました。
現在、発掘作業中です。
巨大な名護屋城址の碑
太閤が 睨みし海の 霞かな
どれ、天守台から睨んでみますか
太閤はここから明・天竺まで睨んでいたのでしょうか。
かつては、五層七階の天守閣がありました。
櫓の跡
約半分が破却されています。
古い石垣
名護屋城は何らかの理由で大改造が行われています。
南および西に大きく拡張され埋められた石垣の一部が、掘り下げられて公開されています。
遊撃丸
明の講和使節遊撃将軍が名の由来です。
二の丸
石垣市か残ってない城でも、往時の様子を想像しながら歩き回るのが好きです。
ただ、この城は想像が付きません。
夏草や 兵どもが 夢の跡
まさに、太閤の夢の跡が夏草に埋もれています。
佐賀県立名護屋城博物館
佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931番3
名護屋城は城だけでなく、都市ごと消えてしまった幻です。江戸時代になると新しい城はほとんどつくられないので、築城技術では最成熟期であり、予算的にも超超多額をつぎ込んでいるはずなのですばらしいものであったに違いません。
九州お城巡りシリーズまだまだ続きます。
建造物は残っていませんがお城マニアにとっては楽しい場所なんでしょうね。
今回の九州お城巡りはとっても充実したものだったと想像できます。