岩倉城は、1479(文明11)年、織田敏広によって築城されました 。
当時の尾張は対立する2つの織田家によって分割して統治されていました。
敏広は北部を治める織田伊勢守系の当主です。
もう一方は、清洲城を居城し南部を治めていた織田大和守系でした。
こちらでは織田信秀が死去、信長が家督を継いだものの評判が悪く、弟の信勝を推挙する動きが発生します。
内部分裂と判断した伊勢守系は信勝を支援しますが、逆に信長に攻められてしまいます。
こうして1558(永禄元)年の浮野合戦で伊勢守系は敗北、翌1559(永禄2)年、岩倉城は落城し伊勢守系織田氏は滅亡しました。
城址は市街化されてしまっており、記念碑が残されているのにすぎません。
「岩倉城址」の碑
道路際に建っており、容易に確認できます。
「織田伊勢守城址」の碑
城跡は小さな公園のようになっていて
地蔵堂
不動明王像
日露戦争の記念碑がおかれている他
水飲み場やベンチも設置されていました。
なんと、道を挟んだ向かいにはトイレも作られていました。
復元予想図(現地案内板)
すぐ西を流れておる五条川を利用して堀が作られていたようです。
現在の五条川は有名な桜スポットとなっています。
城下町も形成されていたようです。(現地案内板)
岩倉駅東あたりには鍵形の道のあとが見られます。
これは敵の侵入を待ちかまえたり、行き止まりに見せかけるためのものです。
反対側から見てみました。
近くの神明生田神社の境内には、
山内一豊生誕記念碑がありました。
要約するとこういうことだろうと思います。
一豊の父、盛豊は織田伊勢守家の家老であり、岩倉城落城のおり、亡くなりました。
これは大河ドラマ巧妙が辻の冒頭場面となっています。
なお、一豊生誕に関しては、黒田城(一宮市木曽川町黒田)とする説もあります。
http://blog.goo.ne.jp/pf11/e/204dfe865ca7a107ffabbfed3925532b
ともかく、きっと地元の皆さんは誇りに思われていることだと思います。
山内一豊のことは、歴史の教科書で、家康の
家臣だったことくらいしか記憶がないんですが、
調べてみると、歴史上で欠かせない人物だったん
ですね~
小学校の時、「岩倉は昨年市になったばかりです。」と教わった覚えがあります。あれは40年も昔なのかぁ。
歴史に、「もし」はないとはいいますが、
もし、山内一豊がいなければ土佐藩は他家が治めることとなり、坂本龍馬をはじめ明治維新の志士の顔ぶれも変わってきたかもしれません。となれば、その後の歴史も違ってきたかも。
殿様がいなくなれば、新しい支配者が訪れます。当時は城下町といえども農民が大半だったので支配者が変わっても生活の影響は少なかったと思います(年貢の違いのほうが影響大でしょう)。商人は機を見て、移動したでしょうね。そのぐらいじゃないと勤まらないでしょうね。
最近でこそ人気の信長ですが、嫌われ者だった昭和年代までに整備された施設、チョット寂しい限りですね・・・汗
大河の功名が辻、見ていましたが忘れてしまいました。
お城跡が公園、よくありますね。建築物好きとしてはもう少しなにかが残っていると良いのですが。
戦国時代にはまさにこの辺りは日本の中心のような所で、しかも下剋上発祥の地のような所でもあり、また策略謀略の渦が巻きあれて天下の覇権を争った人物が次から次と現れるような所でこうした遺構には事欠かないですねぇ~神戸はもう少し前の時代でどちらかと言うと京の朝廷を巻き込んだどことなく雅な感じがしますが・・・以前犬山城の天守から岐阜、名古屋方面を眺めた時に荒々しい戦国武将の気分に浸りました!
愛知では信長は昭和のころから嫌われていませんでしたが、ここ岩倉ではどうだったのでしょうか。名古屋では毎朝のワイドショーに信長が出演しています。