デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



塩野七生「ローマ人の物語」の第8巻『危機と克服』の感想。
この本はネロ帝のあとの皇帝たち、ガルバ帝からネルヴァ帝の時代を扱っている。しかし、ガルバ、オトー、ヴィテリウス、ヴェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス、ネルヴァといった皇帝名は、正直聞き慣れないものだった。ただ、今もローマに残るコロッセオ(コロッセウム)を建設させた人がヴェスパシアヌス帝、紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火によりポンペイが埋没した時に被害者対策の陣頭指揮を執ったのがティトゥス帝とか聞けば、イメージすることが出来るかもしれない。
本はタイトルが示すとおり、ネロ帝が自死してからローマが内乱に陥ったこと、その危機を克服する過程が描かれている。この巻で改めて強調されていることだが、権力というのは、帝国の中の属州(辺境)の防衛・警備を任されている総督や軍団の司令官の後ろ盾があってこそ、付いてくるものだということが印象に残る。
いくら皇帝になったとはいえ、この頃のローマの皇帝はあくまで市民や元老院から統治を委託された人間であるからして、なにをやっても許されるという立場ではない。ということは皇帝として真面目に統治にあけくれ、国を運営する巧さが必要なわけだが、その巧さを発揮できない人が即位してしまうと結果は内乱に陥るのである。
皇帝が皇帝らしい統治を行わないで国が荒れてくると、皇帝の首を替えようとする動きが軍隊が駐屯している地方からも起こった。つまり、属州での善政ぶりの評判が国中にとどろいていたり、武将としての信望が兵士から厚かったりする人物は、皇帝や元老院からのお眼鏡にもかなう人物として、皇帝の候補になる可能性があった(と、捉えていいのか?(笑))。
この内乱では戦闘がローマ市内にまで及んでしまい、当時のローマで最も神聖な場所であるカピトリーノの神殿まで、他国人の手によってではなくローマ人の手によって炎上してしまった。それにしても、こういった愚かな顛末は、しばしば近現代でも見られる。人間は歴史に学ばない生き物といわれても、仕方ないなぁ…。
ヴェスパシアヌスとティトゥスについては、反乱ユダヤ人制圧を担った人物としても知られているが、マサダ要塞の陥落で終わるユダヤ戦役の背景や、その顛末については塩野氏の著述は一読に値すると思う。当時のユダヤ人たちにはどのような派閥があったのか、反乱が起きるまでの背景、反乱を起こした人物達の人物像、反乱の大義名分はなぜ多くの支持を得られなかったのか、いろいろと考えさせられた。
他、ドミティアヌス帝が、必要を先取りした政策「ゲルマニア防壁(リメス・ゲルマニクス)」の建設を行うものの、死後「記録抹殺刑」の裁決を下されてしまうなど、書きたいことがあるが、この防壁については後のトライアヌス帝やハドリアヌス帝とも関わってくるので、そのときに改めて触れたい。

最後に、私にとっては忘れられない、後世がポンペイの最後の日を描いた絵を紹介したい。

К・ブリュロフ『ポンペイ最後の日』(1830~33年)456.5×651cm

絵はサンクト・ペテルブルグの国立ロシア美術館にある。作者はロシアの画家カルル・ブリュロフで、彼がこの作品の構想を練っているころに、ポンペイが発掘された。そのニュースを得た彼はこの絵の制作に情熱を燃やした。
当時のポンペイ埋没を直に見た現場証人小プリニウスのレポートとともに、一度画集でご覧になるのもいいかなぁと思う。


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