独立門
地下鉄1号線から3号線に乗り換えて独立門までやってきた。
こちらの記事で円丘壇について触れたが、1897年、高宗が円丘壇で皇帝に即位したこの年は、独立門が建てられた年でもある。
門はかつては別の
場所に建てられていた
1890年代は朝鮮王国から大韓帝国に変わる時期である。それはまた日清戦争の結果から朝鮮王国への清の影響力が弱まると、中国大陸での列強による角逐と相まって朝鮮でも利権争いが激しくなる時期でもあった。
親ロシアであった国王の高宗はこの頃ロシア公使館に避難した(1896年2月11日から翌年まで)状態で政治を行なっていたが、多くの利権がロシアに渡ってしまいかえって列強の利権争奪戦に火が点いてしまった。
朝鮮王室による自主発展の道は険しくなってはいたが、朝鮮王国内では独立協会による自主独立と内政改革の運動も起こった。
独立協会は1896年7月に組織された。民族の自覚と民権思想、開化思想を広めるために《独立新聞》を朝鮮では初めてハングル活字で発刊したり、議会の設置要求と司法制度の近代化要求などを行なった。
さらに独立協会は清からの冊封関係の解消を内外に示すために、かつて中華への「迎合的意志」を象徴した迎恩門と慕華門(中国からの勅使を迎える施設)を取り払い、北京に向かって独立を示す独立門(と独立館)を建てたのである。
独立館
独立協会は、皇帝の誕生を歓迎しつつも、立憲君主制をめざした。しかし絶対王政を維持しようとした皇帝の高宗にとって独立協会は目障りな存在だった。独立協会は弾圧され高宗によって1898年末には解散に追い込まれ翌年には解散させられた。
こちらの面は漢字で
「門立独」(右から読む)
こちらの面ではハングルで
独立門とある。ハングルは
通常左から右に読むが、
この門の場合は右から読む
現地では気付かなかったが、かつての迎恩門の柱礎(手前の二本の柱)も置かれているのだ。
独立門はフランスの凱旋門を模したといわれる。設計はロシア人建築家サヴァディンらによるもので、施工は中国人技師が主に担当したと伝わる。記念碑的建物に関わったのが自分たちが敬遠した国の技術者であるようなことって、世界でも案外少なくないものだ。
解説板によれば、1897年
11月20日竣工とのことだ。
徐載弼(ソ・ジェピル)の像
独立協会を組織した主要人物のひとりである。独立門は徐載弼のパリ凱旋門のスケッチに基づいて、サヴァディンらによってデザイン・設計された。
独立協会解散後の徐載弼らの目に、独立門はどのように映ったか、察するにも余りある。