デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



B・チャトウィン(芹沢真理子訳)『パタゴニア』(河出書房新社)を読了。
旅をする人の中には前人未到、誰もやったことのない、要するに世界で初めてのことに挑戦する人もいれば、先人が足を踏み入れ誰かがその場所について既に書いていることを掘り下げることに重点を置く人もいる。
チャトウィンのパタゴニアへの旅のスタイルは後者だが、その旅の困難さには正直舌を巻く。本にある池澤夏樹氏の解説にもあるとおり、チャトウィンという人は話し上手で本編にも脚色や事実の1.5割増しのところもあるのかもしれないけれども、紀行文学ならばこういった作品を残したいと思わせるものが『パタゴニア』にはあると思う。
作品の中に流れている、というか河出書房新社の「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」に通底している編集の姿勢および方針の一つかなぁと思わせるものに、19世紀の古典文学に対するカウンター作品というか、19世紀の時点では無自覚であった負の遺産が20世紀に引き継がれ、その負の遺産が20世紀にどういった現実や影をもたらしているのかを描き出している作品を選ぶ、といったものがある。顕著なのはジーン・リースの『サルガッソーの広い海』、フエンテスの『老いぼれグリンゴ』などだが、『パタゴニア』も「原住民」と北米やヨーロッパ、ロシアからさまざまな理由(冒険、入植、亡命、逃亡、その他)で流れて来、関わり合って顕れてくる現実、その現実をもたらした歴史的背景を描き出している点では秀逸である。私個人はチャトウィンのおじにあたる人物がもたらしたパタゴニアへのあこがれだけでなく、そのあこがれを実現するまでの旅の軌跡にこそ作品の魅力が詰まっているように思う。私もこのような旅行記にあこがれはする。

作品を読んでいて、またも個人的な過去の体験を思い出した。学校に通っていた頃、ブロンテ姉妹の『嵐が丘』や『ジェイン・エア』、映画「ピアノ・レッスン」が好きで、『嵐が丘』にあっては小説の舞台にも行って感動したという英語の先生(こちらでもふれた)がいたが、その人はよく「本国から出て行って入植したイギリス人は二流のイギリス人なのよ」と確信をもつように言っていた。「では一流の人は「二流」の人にどのような教育をほどこしたのだろうか? 一流と二流を判別せしめているものは具体的には何なのか?」「植民地から送られてくる物資で本国の一流のイギリス人はご飯を食べていられるが、それが無くなったら一流の人たちはどうするのか? それを無くならせないようにイギリスは何をしているのか?」など、当時の若造(私)の疑問に、その先生はあたかもそんな疑問をもつ者の品性を疑う、つまりは私への個人攻撃で質問をかわしたものだ。今となっては人間は多かれ少なかれ矛盾しているものだし、すべての人間が現実を見ているわけでなく、多くの人間は自分の見たい現実しか見ない、大体教員だからと言って物事に対し公正な見方のできる目の持ち主であるとは限らない、つまり素晴らしき人格者であるとは限らないことは分かるのだが、ただ私のもっていた「偏屈な」質問の答えのひとつとしては、それこそ「ピアノ・レッスン」を多角的に見たり、『パタゴニア』の内容を吟味するのも手段としてあるように思う。
痛い過去への個人攻撃のようにとられても仕方ないが、受けた教育でも読書体験でも旅行体験でもある程度内省の遍歴を経ないと自分の中で整理のつかないようなこと、それをなお自分で表現し相対化してやっと初めて自覚の芽生えというか少しだけ賢くなれる気がするのである。

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