デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



先月下旬『春の戴冠』を読み終え、こちらに感想を書いたが、この記事も『春の戴冠』の感想である。しかし前回の感想とは大分異なる。

『春の戴冠』を読んでいて、(語弊があるかもしれないが)よく日本人がこんな驚愕すべき作品を書いたものだ、ある意味おそろしいと思い始めてしばらくして、作品の前半の半分くらいだったろうか、私は作品にトーマス・マン臭を覚えだして、そのことが『春の戴冠』への没入から私を救ってくれたような気になったものだ。それから間もなくして作品の作風というか手法が、処女作『廻廊にて』と実際のところあまり大差がないといえば辻作品ファンの怒りをかうかもしれないが、ベースは同じだという風に思えてきて、これが辻邦生の型なんじゃないかと、したり顔になって分かったような気持ちになり、これもまた「辻邦生マニア」となるかもしれなかった可能性から私を救ってくれたように思うのである。
もちろん言葉の用い方、表現の精密さは処女作よりも『春の戴冠』のほうが優れており、言葉を大事にする作家の円熟期を迎えた作品が『春の戴冠』であると思った。また円熟期を迎えた作品である故に、『春の戴冠』に囚われてしまう読者はどうしても出てくるように思う。失礼な書き方になっていたらご寛恕願いたいが、もし辻邦生作品の世界に没入し、出てこれなくなった人がいたならば、私はその人にトーマス・マンの作品、とくに『ファウストゥス博士』を読んでいただきたいと思っている(できれば『ヨゼフとその兄弟たち』も)。
というのは『春の戴冠』とマンの『ファウストゥス博士』はある意味「そっくり」なのだ。『春の戴冠』に見られる精密さにこだわった表現や人物の外貌の執拗なまでの繰り返し、語り手の自己嘲笑やフモール(ユーモア)、語り手が数十年前の過去を振り返るという体裁であっても現在の時間軸の時事的な事柄が入り込んでくるポリフォーン(多声性)などが特にそうであろうと思う。辻邦生の前にマンあり、ということが分かれば辻邦生作品も冷静に俯瞰できる気がする。
そっくりというテーマから少し脱線するが、『ファウストゥス博士』の物語を時間的に二重の平面で繰り広げる(トーマス・マン『ファウストゥス博士の成立』より)特徴は、『春の戴冠』のクライマックスにおいては三重となっている。この点は私のような若輩者でも、ここ数ヶ月、京劇の歴史や中国の文化、儒教についての本を読んだこと、および中国を舞台にした傷痕ドラマ映画を見ていたこともあって、辻邦生が嘆かわしく思っていたであろう現代的な出来事を作品に生かしたことが分かったのだ。(ただこの場面については物語の終盤にきて『春の戴冠』というタイトルの香りを読者に微塵も覚えさせなくなってしまったのが残念な点として挙げられる。とはいえ、それにしては露骨すぎてはいるもののフィレンツェにあっても同じようなことが起こった可能性として一考する余地があると思うので、かえって読んでいて気持ちがいいほど憐憫を覚えてサバサバした気分になるのは私だけだろうか。)

傲岸不遜なようだが、読書の悦びは作品に先人の作家の影響を見出すことである、と私はここ数年思うようになっている。ここではトーマス・マン作品と『春の戴冠』の類似点について私の思うところを書いたが、同時に、マンの精密な表現へのこだわりと作風をよくぞ自家薬籠中のものとして自分の作品としても昇華した点で、『春の戴冠』は一筋縄ではいかない驚嘆すべき、しかしどこか教養に興奮したころの懐かしさを味わわせてくれる作品であることも付け加えておく。(ちなみに辻邦生全集(新潮社)には、解題に辻邦生自身がトーマス・マンからの影響について書いている箇所が引用してある。正直、「私の勘は当たっていた!」と自慢したくなったものだった。)
ほかに感じたこととして『春の戴冠』にはマンだけでなく、美と永遠性についての止揚と逡巡、その懊悩を解決するための手がかりとしてフィチーノ哲学の慫慂を表現する場面では、プルーストの『失われた時を求めて』を髣髴とさせる言葉が散りばめてあるように思った。20世紀のプルーストが中世のボッティチェリの言葉の形をとって顕れる混淆は意外なほど面白い。それはたぶん美への執着やアプローチが昔も今も大して違わないことを示唆していると私には感じられた。

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