デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



加地伸行編『孫子の世界』(中央公論社)は今月上旬に読了したので、この記事はこの回の感想の続き。

私個人のこの本に接する前の『孫子』の知識として、甲斐の武田氏の幟の「風林火山」の元ネタが『孫子』であることは知っていた。しかし、さらに『孫子』には「山」の前に知り難きことは陰の如く、「山」のあとに動くことは雷の震ふが如くにして、…とあるのを『孫子の世界』を読み今更にして知った。私の『孫子』の知識はそのぐらいであるのだが、そんな私でも『孫子の世界』は十分に楽しめる内容だった。
『孫子』の内容や読み方はついては

 『孫子』は中国の古典の中でも、いろいろな点から魅力を秘めた書である。
 その内容類別では、いわゆる兵家といわれ、軍事について述べているのだが、それとて単純な好戦的な立場において説く前に、非戦論、平和主義の立場において戦争の無益、無謀を排している。
 すくなくともそのような考え方の基盤の上で、しかしいったん戦時となれば、寸分も狂いのない計略のもとに、かならず敵を組みふせるための合理的にして執拗な現実論を説いている。しかもその現実的ことがらについての多様な論述の各部は、綿密な構成と主題の一貫性を通して読みふかめるべきであろう。
 そこに解釈についての多面性がもたらされて、醒めた非情の言動が、ふかい人智にもとづく有情の思惟を含んでいて、一筋縄ではくくれぬ、したたかな哲学書へとも変貌するのである。
  p240~241

まさにそうだと納得せざるを得ないが、『孫子』の主題に触れてみて思い出したのは、古代ローマ帝国の執政官や将軍で名将とされている人物の政策や軍略の考え方であった。(ほか強いていえばマキャベリも?)
『孫子』と古代ローマの政治と軍事で共通するところは人間の基本的な心情を前提とした現実主義的視点が貫かれているところであろう。また冷徹な人間管理技術も考え方として相似点が多いように思う。
なかでも、いささか極端ではあるが、いつの時代でも上役や上司はこうあるべきというエピソードには目を見張る。『孫子』に書かれてある「卒を視ること愛し子の如し、故にこれと俱に死すべし」の例証として唐代後期の杜牧という詩人は『史記』から

戦国の時、呉起は将と為りて士卒の最下の者と衣食を同にし、臥すに席を設けず、行むに騎に乗らず、親ら糧を裹贏み、士卒と労苦を分つ。卒に疽を病むもの有り。呉起これを吮ふ。其の母聞きてこれを哭す。或るひと問ひて曰く「子は卒なり、而るに将軍自ら疽を吮ふ。何為れぞ哭すや」と。母曰く「往年呉公、其の父(の疽)を吮ふ。其の父踵を旋さずして敵に死せり。今復此の子を吮ふ。妾其の死所を知らず」

という話を引く。将軍自ら疽を吮ふことも将軍にとってみれば、戦国期ゆえ兵にやる気を出させるための計算ずくのパフォーマンスなのかもしれないが、しかしそこまでやる上役は現実の世の中にどれだけいたことだろうと思う。命令を下すだけでなく、士卒と労苦を分つことを実際にやって見せて初めて人は心を動かされるのだ。

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