デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『源氏物語』と並行して、藤井省三訳の魯迅の小品および藤井省三著『魯迅』(岩波新書)を読んでいる。魯迅の珠玉の小品を読んでから「吶喊」の序文や『藤野先生』などを改めて読み直し、そのあと『魯迅』のp44

 日清戦争(一八九四~九五)で敗戦した中国では、政治改革の気運が高まっていく。やがて康有為・梁啓超らの変法運動が光緒帝に認められ、一八九八年国会開設・憲法制定をはじめ、京師大学堂の設立と留学生派遣など大々的な制度改革が企図された。しかし西太后(光緒帝はその甥)を中心とする保守派が戊戌政変(一八九八)のクーデターを起こし、新政は一〇〇日余りで失敗、光緒帝は一九一一年のその死まで幽閉され、康、梁らは日本に亡命した。
 ところが保守派は排外的宗教団体の義和団と組んで列強に宣戦して惨敗を喫し(一九〇〇)、ようやく変法派の立案を踏襲した西太后新政を開始する。しかしこの時には、変法派では中国は救えない、征服王朝である清朝を打倒し漢族による国民国家、共和国を建設すべきだと主張する革命派が登場していた。日本へ送られた留学生は雪崩を打って革命派に参加していくのである。

を読んだとき、当時の中国を舞台にした小説が私の中で「歴史ロマン・エンターテイメント」の枠から飛び出し目の前に迫ってくるような気になった。
その小説とは年始に読み終えた浅田次郎作の『蒼穹の昴』である。『蒼穹の昴』には梁啓超は登場しないものの、梁啓超は作中の主要人物の梁文秀(もちろん架空の人物)像に影響を与えているだろうし、なにより『蒼穹の昴』が単に年譜に逸脱しない程度に書かれたデタラメ歴史ロマン小説ではなくて、一応それなりのものとして時に「さもあったかのよう」に感じられるようなつくりになっていることに今更ながら感心した。
ここ数年で魯迅の作品集、パール・バックの『大地』、老舎の『駱駝祥子』など、近代中国の人々を描いた作品をいくつか読んでいるが、悩ましい内容であるものばかりかもしれない。それらを読んだことから、以前にも書いたことと重複するが、教科書に載った『故郷』を限られた授業のコマ数だけで理解しようとするのは厳しいし、教える側も指導要領を作成する側も手に負えていないことが多いのは無理からぬことと今になってようやく思うのである。

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