デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『源氏物語』、「鈴虫」の帖まで読了。あと三巻と半分ぐらいであるが、越年読書となりそうだ。
巻六の「若菜」の解説のなかに「「源氏」は若菜から読め」と言ったか書いたかした小説家・評論家がいたらしいことが載っているが、私個人は源氏が栄華を極めるまでの「やりたい放題紆余曲折」があったからこその「若菜」の怒涛の展開だと思うので、やはり巻五まで読んでおくべきだろと思った。
「若菜」以降は近現代の恋愛小説のドロドロ展開に引けをとらない描きっぷりがおもしろく、平安時代であろうが現代であろうが恋愛感情によって生じた人間関係のもつれで生じる面倒ごとは一緒であることを改めて思い知らされる。
少し前に物語の恋愛模様は現代の中高生と同じとか書いたが、宮内の権力や階級的なことまで考えると、『源氏物語』は現代で言えば「家政婦は見た、血生臭くない横溝ゴッド・ファーザー展開作品」といえるかもしれない。物語られる源氏系図を見るとより分かりやすいが、源氏は帝(みかど)の桐壺帝と身分の低い更衣との子であるし、更衣は周囲の身分の高い女たちから羨望と嫉妬を一身に浴びた形で死んでしまうのが出だしの一歩で、それだけで横溝作品の犯行の動機として十分条件が生成されている。絶大な権力者が浮気や不倫で生ませたわが子(源氏)に後を継がそうとしたら殺人事件が起こる確率が飛躍的に高くならざるを得ないだろう(笑)。
源氏は源氏で母親代わりである父(帝)の妻と関係を持って父帝をコキュ化してしまうし、源氏と源氏の母(藤壺)との間にできた子を、藤壺は「帝との子です」を嘘をついて真実を墓場まで持っていくし、その他あげつらいだしたらキリがない。

つづく予定

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )