閻連科 作(谷川毅 訳)『愉楽』(河出書房新社)、読了。
閻連科の作品は『炸裂志』以来だが、作者への敬意としては訳者によるあとがきに
着想の奇抜さもさることながら、それを起伏に富んだストーリーに組み上げる才能には脱帽します。
とあるこの一文に尽きる。
作者もよく触れているガルシア・マルケスの作品の雰囲気に加え、『愉楽』にはトーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』の雰囲気が強いように思った。
作品の中で起こることは荒唐無稽な出来事ばかりだが、「まるで本当にあったことのようですね」と思わず読了後につぶやいてしまいそうになるし、いかにも中国で実際に起こっている出来事であり、人間の欲望の際限の無さは確かにこんな風だという感じを今回も受けた。
どうしてこうもリアリティを感じてしまうのか、「くどい話」を用いてあったこともあるだろう。河の流れに例えるなら大河がストーリーの中心をなし、読者はその流れを追うだけで十分なはずなのに、大河に注ぐ数々の上流からの支流が「くどい話」なのだ。支流は受活村の生活に割り込み、また村としても良かれと思って受け入れた社会思想や社会システムに他ならず、支流は村に何をもたらしたか目を背けたくなる歴史的背景そのものである。この否応無しのまさに「くどい話」の反復に、近世から現代にかけての中国の過去の辛い仕打ちを決して忘れないぞ、記憶の忘却を許さないぞという信念と凄みが感じられた。