山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

仕事の影響

2005-08-22 21:09:51 | 未分類過去
昨年の秋まで、私は日本語学校に勤めていた。
今、思うと、まるで現在は催眠術から覚めたような気がするのである。

37歳のときに、日本語教師養成講座420時間を受け始め、5年まえ40歳で日本語教育能力試験に合格して、非常勤講師として採用された。
それからは、日本語学校で週に2~4日日本語を教え、地域の日本語教室で日本語ボランティアもしてきた。この7年くらい、とにかく日本語教師になるために勉強し、なってからは日本語を教えるために無我夢中になってやってきたように思う。
仕事は楽しくやりがいがあったが、どうしても準備で徹夜ばかりしていた。やはり40歳という年齢で新しい仕事をベテランのようにこなしていくのは大変だった。そのほかにもいろいろ外国人問題や雇用問題なども発生して心労もあったし、別の仕事を兼業した時期もあり、そっちの人間関係などでも疲れてしまった。
睡眠不足では記憶力もなくなるようで、仕事帰りに買ってきた食べ物をそっくり玄関に置いたま、翌日まで忘れていて腐らすようなことも多かった。
台所はめちゃくちゃで、いつも汚れた食器が山盛りになっていた。当然部屋もごちゃごちゃで、汚れた衣類もたまる一方だった。

今思えば、決してそれらをする時間がなかったわけではないのだが、心にそれをする余裕がなかったとしか言いようがない。何を置いても授業の準備をしなければという気持ちがいつもあって、家事を後回しにするとうことが重なり、たまった家事を消化するのには、さらに多大なエネルギーと時間を要するようになってしまっていて、手がつけられなくなっていたのだった。

今、私は日本語学校をやめて事務的な仕事をしている。基本的に決まった時間内で働けばいいし、やるべきことを普通にやっていけば何の無理も迷いも困難もなく処理できるという仕事である。与えられたものを処理していくという単純な作業の繰り返しなのだが、それがいかに心の安らぎを得られるものかと言うことが驚きだった。

また、今、パートタイマーで働いている会社は、それはそれはきれい好きというしかない。
社員はみんな昼食後に歯を磨き、持参の弁当箱を洗っている。トイレはウォッシュレットがついていて、芳香剤も絶やさない。仕事場にはよく手入れされた観葉植物が置かれ、業者が管理している。電話機をきれいにして受話器の脱臭剤を取り替える業者も入っている。いらない書類はすぐにシュレッダーにかける。ゴミは可燃物・不燃物・生ゴミにあらかじめしっかり分けている。
自分の仕事が終わると書類をファイリングして、記録すべきことをし、最後に勤務報告を書くというようなことで、ひとつ終わったらそれを片付けてから次へという流れで、中途半端ということがない。
几帳面な世界というのだろうか。そんな中でずさんな性格の私も、ずいぶん感化されてきた。しかも、仕事で扱う商品が脱臭剤とか殺菌効果のある物質とかもあるため、仕事上それらについての文書などを読んでいると、なぜか自宅の匂い物質までもどうかしなければいけないような気がしてきてしまうのだ。

この会社に勤め始めてから半年あまり経ったある日、私は日本語関係の無用な書類の山に耐え切れなくなって、コピーした絵カードやらあまったテスト用紙やら記念にとってあった学生の作文やらを一気に捨て、机や本箱を整理した。そして、このときから私はもう今後日本語学校で働くことはないと確信した。少なくとも以前の資料をひっくり返して探し回るようなことはしないと確信している。

長年、食器洗いが大嫌いだった私が、今では汚れた皿が一枚でも残っていると気持ちが悪くていられないような変貌を遂げた。床の上に何かが置かれているのも気分が悪いし洗濯物もためずに洗い、アイロンをかける。そのようの整えられていることが普通であるという当たり前の意識に戻ることができたわけである。
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人生の曲がり角

2005-08-22 01:08:49 | 未分類過去
しばらく前から、ブログというものをやってみようと思っていたのだが、なかなか実行に移せないでいた。
テーマを決めたいと思ったのだが、それが全然決まらない。
日記ならば、思いつくままに自分の書きたいことを書いてりゃいいのだが、人様の目にふれるとなれば、いくらかマシな内容にしたいと思うわけである。
しかし、その日に即席に書くものが、そうそうまともな意義のあるものになるはずもない。
そんなことでぐずぐずしているわけであるが、外に向って訴えたいことは確かにたくさんある。それが何であるかをこの数日考えていた。

私は最近あるものを喪失した。いや、捨てた。
それは40歳にして念願かなって身につけた資格による仕事であり、数年それを続けて 
きたのだが、自身の能力と環境の限界を知り、その活動が、自分に苦痛をもたらすばかりであることに、気づき始めたのである。そして昨年から、それをだんだん縮小していたのだが、ついに全面的に離れることを決意した。

それをしなくなった私は、今、ぜんぜん違う分野の仕事を始め、以前のものに費やしていたエネルギーを使うことがなくなった。そして、今は自由な安らぎの時間を持ちつつも、まるで何か療養生活をしているかのような気がしないでもない。
だから、何かまた新しいものに身を投じたいと思っているのだが・・・、人生のなかで大切なことって何なのだろうか、打ち込むに値するものとは何なのだろうかと思わずにはいられない。

いつだったかテレビでやっていたが、昭和30年代半ばくらいに生まれた女性たちは、常に何かに向かって進んでいかなければ気がすまない人が多いそうだ。自己向上心に取りつかれているとも言える。そのようなエネルギーがあるのはいいことだが、いつも自分自身の現状には欲求不満のようなところがある。そして、何かを追い求めることに没頭しているので、周りのひとに安らぎを与えられないと自分で思う。追い求めることを追い求めているともいえ、それは一種の病気なのではないだろうか。もしかしたら、追い求めないことこそがいいことなのかもしれない。

今ふと正気に戻って今までの自分の生き方を見つめてみると、欲望を達成できなかった現実と、自分勝手なことをしてきたツケを目の当たりにして、絶望とも後悔ともつかない複雑な気分にとらわれてしまう。しかし、それでもさらに性懲りもなく目標を見つけて突っ走りたがる自分がいる。

人生もう半分以上来ただろう。先が見えてきてしまうこのごろだが、軌道を修正しつつ、やはり自分の思いのままに進んで行くという生き方は変えられないと思う。
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