山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

文芸評論家の死

2024-09-26 00:03:48 | 日記2024

数日前、ある文芸評論家の方が亡くなったというニュースが流れていた。
その人は63才だった。(今調べたら、福田和也という方である。)

そのニュースが、なぜかずいぶんとショックだった。
自分の年齢では、人生があまり残っていないということを突き付けられた感じだった。

この人は、文芸評論家として活躍してきた人である。
普通、60代の人は、もうすでに色々なことを成し遂げたあとなのだ。
もちろん、生きていれば70・80代も何かを成し遂げることができるであろうが、それはこれまで築いてきたものの上に成り立つことである。

・・・

私は、実は学生時代は、文芸評論家になりたいなんて、大それたことを思っていたのだった。
学生時代は、結構本も読んでいた。
自分で作品を書くことはできないので、人の書いた作品を研究し論じるのがいいなんて思っていた。

しかし、今は年に1冊も本を読まないような人間になっている。
そんなことが何十年も続いているのだ。

文芸作品を趣味として読む事さえもしなくなっているんだから、今さら、そのようなものになりたかったなんて言うのも本当におこがましいことだ。

それから、仕事を辞めてヒマになったら、老後はまたじっくり小説を読んだり、研究したりしたいなんて、ひそかに思っていたのだが・・・

いやいや、もうそれって遅きに失してるでしょ。

なんかもう脳みそもさび付いちゃって、何を読んでも記憶にさえ残らないようになっているし、それ以前に、読もうと思っても集中もできないようになっているのである。

やはり、若い時にやらないとダメなんだ。

もう終わってるんだ。

・・・

この福田和也という人のことを、私は知らないのだけど、考えて見ればそりゃそうなのだ。
この人は同世代なんだから、この人が文芸評論家になったころには、私はいっさい、文芸とは何の関連もないことをして生きていたのだった。

そうして、私は今も生きていて、毎日文芸作品ではない実用文書の誤字脱字をひたすら発見し、修正するばかりの仕事だ。

そんな仕事をしていながら、自分のブログは誤字脱字だらけで、支離滅裂な文を書いている。

そういえば、今日も仕事で校正をしていたのだけど、
「、 、」読点がふたつ並んでいるのに気づかずスルー
文末に「。」が無いのにスルー
最終的に、校正ルールで発見。

ああ、こんなものにも気づかなくなってしまったのだ。

・・・

人間が一生のうちに何か大きなことを成し遂げるには、それ相応のエネルギーが必要である。
小説を書くにしても、評論を書くにしてもだ。

もともと能力はないが、1つのことに取り組むような根性も集中力も執念もないのだから、何も成し遂げられないわけである。

自分はこの年まで、いったい何をしてきたのか?と思うと、
毎日、朝から夕方までパートタイマーで働いて、ひたすら地味な下請け作業に取り組むだけだ。

その労力を考えたら、頑張っているのかもしれない。
偉大なことを成し遂げる人が居る一方で、毎日小さな作業を続けていることだって、それはそれで小さいものをいっぱい成し遂げたってことになるのだろう。

だから、自分の人生はこれで良しとするしかない。

今さら何もできないので、ただ健康で楽しく暮らそうと思うようになった。