バオーさんから、写真は実物とはかけ離れることもあるというお話がありましたが、私もそう思います。
写真の限界でもあるわけですが、表現の手段としては、実物とかけ離れていても良いわけです。
私はと言うと、もともと記録が主ですから、実物に近く写ってほしいと思っています。
子供の頃から父のカメラで写真を撮ってきましたが、深く勉強はしていませんでした。
子供が障害と先天異常を持って生まれましたので、長い命ではないかもしれない、生きた証を見たままに記録に残したいと勉強したのが始まりです。
以前書いた「それでも写真を撮るわけ」にこのことを書きましたが、今も写真に対する気持ちは変わっていません。
進歩がないのか頑固なのか・・。
添付したような写真もたくさん撮ってきました。
「好きなもの=撮りたいもの」はだいたい成り立つけれど、「撮りたいもの=好きなもの」というのは、当てはまらない場合もあります。
「それでも写真を撮るわけ」
写真は、文字通り写しであって本物ではない。
例えば風景写真。実際には視覚だけ出なく、日差しや空気を肌で感じ、鳥のさえずりや葉ずれの音を耳で感じ、草の匂いや花の香りを鼻で感じ、からだ全体でその場の雰囲気を感じ取っている。できあがった写真が、いかに立体感や質感があるとか、空気感がよく表現されているとか言っても、現実のそれとは大きく異なる。
人物写真でもそうだ。魅力的な女性がとらえられていたとしても、それは1枚の紙切れであって、その人の頬や髪に触れられるわけでもなく、言葉を交わせるわけでもない。
写真は写真なのだからあたりまえである。最初から分かっている。でも、ときにふと虚しくなることがある。
それでも写真を撮り続けるのは、記録だからである。それが現実とは異なっていたとしても、曖昧な記憶よりは遥かに鮮明に残ってくれる。そして、その写真を通して、撮ったときの状況や、その前後周りの状況が思い起こされてくる。
旅先や日常の生活の中で、はっと思う瞬間がある。二度とは返らない時がある。そういったものを見たまま感じたままに残しておきたいと今日もシャッターを切る。残された写真に自分の姿は写っていなくても、いつもそれを撮った時の心の動きは映っている。
ところで、記録とは何でしょう。過去にこだわることでしょうか。
いいえ、こういう言葉があります。
「もし過去にこだわれば、現在を見失う。しかし過去を無視すれば、未来を見失う。
過去に大きく根を下ろしてこそ、未来の種が芽生え花が開くのだ。」
※追記は、
こちら。
記録とは、自分の記録であると同時に被写体の記録でもあります。