3月11日の東日本大震災の日は、毎年仕事先で「黙祷」していましたが、今年はお休みで自宅にいました。
あの日は2011年だったから、もう7年も時間が流れたのですね。
私自身「思い」は手放し、「記憶」はいつまでも忘れたくないという気がしています。
あれから、いろんなことが変わり過ぎました。
生きるためには「受容れる」しかないのだと思います。
人伝いで、震災で家を失った知人が福島原発の作業員になっていると最近知り、心が痛みました。
考えれば、どこかの「誰か」が命がけで「何かを守るため」にハイリスクを背負って生きている。
そんなんなのに、作業員の生き方や考え方含め、ナイーブすぎて焦点があたらない、という社会構造、報道機関にはガッカリしてしまうしかないですね。
少し私の事を書かせてください。
高校を卒業して、かつて「閖上」という海岸で、初めてサーフィンをしてみたんです。
なにも知識はなく、友達もいなくて、ただただ好奇心だけで、今考えれば無謀ですよね。
その日は海が荒れていて、サーフィンのやり方も解らないから、プクプクとボードの上で浮かんでるだけだったのに、スゴイ波が次々と押し寄せてきて、私はボードから転覆したんです。
海の中に落ちるとグルグルかき回されて、まるで私は洗濯物のようでした。
空の明るさがかすかに見える、砂に叩きつけられる、グルグルグルグルその繰り返し。
そうしているうちに鼻にも耳にも、口にも水が入ってきて、水飲んでしまったらもう・・・。
いろんな記憶がササッと、映画でも見ているかのように、これ「走馬灯?」って。
「人生これでも良かったな」と、そう感じているうちに、どこからかくぐもった声が聞こえて来たんです。
「つかまれ、つかまれ・・・」
私は、本能的に手を伸ばしたと思います。
砂浜のところに来て「生きている!」と感じました。
ずっと助けて頂いた方にお礼を言いたかったのですが、名前を聞いても「無謀なことはやめなさい」としかられた記憶しかなく、どなたが私の命を救ってくれたのかは、今も解りません。
まだ高校を卒業したばかりのことで、走馬灯を見て死を覚悟し、今となっては倍以上の時間を生きていますが、あの時命を助けて頂いたからこそ、得られた幸せも沢山すぎるほどあります。
最近は生きるのが大変に感じることも多いですが、優しい夫と時間を過ごせる幸せは、ありがたいものです。
ただ、夫婦どちらかが先に死と向き合うというのは、どんなに頑張っても変えられない宿命です。
東日本大震災で、今なお悲しみと向き合わなければならないとしたら、辛すぎますね。
でも記憶は消す事ができませんよね。
でも、生かされたのならきっと、生き延びることが誰かのために必要だと思います。