山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

広瀬川と大年寺山散歩

2018年09月30日 | 神社・仏閣

とある休日、大好きな広瀬川から野草園、大年寺山公園を徒歩で散歩することにしました。

早速猫ちゃんに出会いました。

写真撮っていい?と猫ちゃんに聞くと、逃げずに撮らせて頂くことができました。

洋猫のミックスも毛がふわふわモフモフしていて、かわゆいですね♪

散歩のテンションUP↑です。

広瀬橋の欄干から。

かつて広瀬橋は長町橋と呼ばれていました。

長町橋は大水で度々流され、その度に架けなおされたそうです。

橋の右岸上流側には木流堀の出口と、材木を引き上げる木場があり、付近に運送業者(伝馬、駕籠かきなど)が多数住んでいたそうです。

橋の南詰め西側に置かれたもので、後に人柱になって埋められた娘を供養した碑だという伝説が生まれ、橋姫供養碑とも呼ばれ、一時近所の十八夜観音堂に遷されたそうっです。

そこで働く人々は、文政6年(1823年)に流された橋のために橋供養の碑を建て、橋姫明神社という祠が作られ、橋供養碑はその脇に移されたそうです。

鳩が全然私を怖がりません。

対岸には河原町で、仙台地下鉄南北線の駅があります。

清々しい眺めです。

この日は休日でしたので、貸ボートで楽しんでいるファミリーや、カップルさんがおられました。

「鎧渕」

なんですかこの石碑は?

かつては、広瀬川にかかる宮沢橋の近くに鎧淵と呼ばれる淵があったそうです。

奥州藤原氏の時代、鎌倉から攻められた奥州藤原氏は、仙台のいまの榴ヶ岡に本陣を張り、鎌倉からの兵と戦ったそうです。

広瀬川に網をはり、川を渡れいようにしたそうですがこと敗れ、藤原氏軍は敗れ、藤原氏の武士が広瀬川の淵にはまり、よろいかぶとをつけたまま淵に沈んでしまったと言われています。

広瀬川にかかる広瀬橋から愛宕大橋にかけてが古戦場と言われていますが、いまは、広瀬川改修で「鎧淵」は分からったそうです。

どうりでこの辺りにはお寺さんが多いのも納得ですね。

さて、黄檗宗 大年寺。

大年寺は、京都府宇治市の萬福寺を総本山とする黄檗宗日本三叢林の一つの寺です。

両足山と號し、釈迦如来を本尊としています。

山頂には墓地と公園があります。


元禄9年(1695)11月24日、四代仙台藩主伊達綱村公が自ら鍬を祀って茂ケ崎の地を拓き、(当時)宮城郡若林の廃寺 小蓬山 仙英寺の遺址を此処に移し、新に堂塔を建設して両足山大年寺とし、同10年3月、下総國向島弘福寺普應鐡牛和尚を開山始祖とし、8月落慶の祝典を挙げたそうです。

只、唯一の遺構である惣門は、五つの切妻屋根を有し、外観的には高麗門の形式を左右に複雑にしたもので、建築年代は享保元年(1716)と推測されます。
前には、皷山道霑筆の「東桑法窟」の額を掲げ、昭和60年9月4日、仙台市指定文化財となっています。

大神宮。

山門をくぐると、あああぁ~、という絶望的な印象。

整然と石が積み上げられており、なにかここでちゃんとしないといけないような、そんな感じがします。

顔に汗がにじんできて、ちょっと小休憩。

そして上ります。

伊達家のお墓。

格子越しに覗くとこんな感じ。

元禄から寛永、正徳、享保に至る伊達綱村・吉村時代が当寺の最も隆盛を極めた時代で、二十塔院が開基されていたそうですが、安永から幕末にかけて残存していたのは十八塔院で、何れも明治維新後に頽廃、悉寺となってしまったそうです。

ランニングの方、ちょうどお墓参りの方、色々で・・・。

仙台中心部こんな眺めです。

無尽灯廟が解放されていました。

綱村公墓所 です。

綱村公は万治2年(1659年)3月8日、伊達綱宗の嫡男として生まれ(伊達政宗の曾孫)、わずか2歳(満年齢で1歳4か月)で家督を相続しました。

その後、綱村は13歳ながら自ら政務を執り始め、まずは防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収め、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力したそうです。

父の正則による伊達綱村の後見を目的として、幕命により綱村は、1674年に万寿殿と婚約。

万寿殿の父の稲葉 正則は、江戸時代の譜代大名、老中、大政参与、相模小田原藩2代藩主で、正室の父毛利秀元から茶の湯を学び、学問・宗教を通して林鵞峰、吉川惟足、鉄牛道機らと交流を深め万治元年に隠元隆琦と対面してから黄檗宗へ傾倒。

稲葉 正則は、隠元の弟子の鉄牛を小田原へ招いて紹太寺と弘福寺の創建を行ったそうです。

延宝5年(1677年)に綱村と万寿殿は、結婚し、その後、扇千代丸、高姫、伯姫を儲けましたが、全て夭折してしまいます。

その後、綱村公は、仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、元禄2年(1689年)から3年(1690年)にかけて日光東照宮修復総奉行井伊直興の御手伝として東照宮の修復を果たしますが、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩仙台財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと天和3年(1683年)に藩札の発行を行なうものの、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。 と言われています。

元禄16年(1703年)、養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居しました。

万寿殿は、宝永3年7月4日(1706年8月11日)に夫に先立って死去、享年48歳。

伊達忠宗の正室孝勝院などと同前に、菩提寺として開元山 万寿寺が建立されました。

 

なんと私の祖父祖母のお墓が、万寿寺で(現:萬寿寺)です。