大年寺のふもとの裏山に続く小道を発見し、昔の街道を思わせる雰囲気の、石畳が残る杉木立の道を歩いてつかの間、アスファルトの細い道路に出て、向山の宮沢テニスクラブを横目で見てゆるい坂を上ると、やがて開放的な公園に出ました。
これが、大年寺公園なのですね。
まだ一部工事中でしたが、かつてこの土地の所得をめぐり、二転三転したことがまだ記憶に新しいのは私だけでしょうか。
wikipediaには、このようなエピソードが書き記されています。
仙台市は石井亨市長のもとで伊達家の墓所も含め大年寺山に公園を整備する構想を立て、土地取得を進めた。
この過程で仙台市が1991年と1992年に4倍の費用で土地を購入したことが1993年9月に明るみに出た。
市民団体の仙台市民オンブズマンは、土地を売却した4社を相手取って代金返還代位請求訴訟を11月に起こした
。最高裁まで争われたこの裁判では、予算・決算報告を起点にして計算した監査請求期間1年をすぎてからの請求は認められないとの判決が2003年に確定した。
市税の使われ方が実際こんな状況では、日々あくせく働いて納めた税金が、貴重な財源が、泡のごとく知らず知らずに消えていく現実は、一市民として悲しすぎではありませんか?
さて、大年寺山は仙台市都心部の南側に回り込んだ愛宕山と大窪谷地を隔て南方にある山で、標高119.5メートル。
古くは野出口山、また茂ヶ崎と呼ばれ、広瀬川も近く、県内3社共同のテレビ等が立ち並んでいるのが特徴です。
伊達家の墓地の扉は閉め切られていて、伊達家の家紋「竹に雀」が施されています。
「竹に雀」は上杉氏に養子を入れようとしたときに頂戴したもの。
伊達家の家紋は全部で9あり、十六葉菊、五七桐、蟹牡丹、竪三つ引両、竹に雀、九曜、鴛鴦の丸、ナズナ、雪に薄等会うそうです。
このように紋が多いのは、それだけ歴史が長く、伝統がある家であることの証でもあるそうです。
伊達綱村の頃の1696年、廃寺になっていた仙英寺を茂ヶ崎に移し、大規模な寺院の造営に乗り出し、翌年には黄檗宗の鉄牛和尚が招かれ両足山大年寺を開いたそうです。
これ以後は伊達家代々の墓所となり、江戸時代にはその保護を受けて広壮な伽藍を営んだそうですが、当時の大年寺は、全国の黄檗宗の寺院の中でも規模が大きいものであったそうです。
また、明治には廃仏の風潮を受け伊達家が仏式を止めたため荒廃し、その時代の建築物は南の入り口にある惣門のみなのだとか。
伊達家との関係が切れた黄檗宗は、昭和の初めに大年寺を再興し、現在の大年寺に至ります。
この地点は中世には茂ヶ崎と呼ばれ、茂ヶ崎城が置かれた場所でもあります。
天気が良ければ、水平線が確認できるかもしれません。
また長町副都心が一望できます。
余談になりますが長町副都心と呼ばれる広大な敷地は「仙台市音楽堂」が計画されていましたが白紙。その後の中国人投資家による「空中中華街構想」も白紙。
結局、仙台市民病院が移転することに決定しました。
もと国鉄基地を買い取ってまで、そういう使われ方をする必要があるのかと思うだけでも、力が抜けます。
長い階段を下りると風情ある山門に出ます。
山門の途中、古墳時代には中腹にたくさんの横穴墓が作られたそうで、看板さえないのですが、山の北側に大年寺山横穴墓群、南側に二ツ沢横穴墓群と茂ヶ崎横穴墓群があるらしいです。
小さい横道らしきものが確かにありました。
黄檗宗の大年寺です。
同じ山続きにも、広瀬川周辺にも黄檗宗の寺院が今でも点在します。
大年寺山は、伊達家家臣の佐藤さんが山を守るように任じられ、今に至るとも聞きますし、私がまだ若かった頃、山の山腹には窓に鉄格子がかかる不気味な建物があったりした記憶もあります。
昼は仙台平野で過ごすカラスの群れが、夕方になると大年寺山の寝床に戻っていく様子をみると、仙台在住、佐伯一麦さんの「遠き山に日は落ちて」を思い出します。
私の家の窓にはいつも、切り取った絵のように、緑溢れる大年寺山が見えます。