山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

仙台散歩④大満寺

2009年08月18日 | 
さて、愛宕神社は大満寺と愛宕山山頂を二分しています。
神社の裏手を目指して歩くとすぐに、山門などの隔たりなく、何か違う雰囲気に包まれます。
その場所が、大満寺の敷地です。
愛宕神社を調べると、かつての広瀬川の歴史と深い関わりがあります。
愛宕山北登り口の付近にあった誓願寺前から対岸の土樋に渡り、清水小路方面に向かって渡場があり、荒町通りから南の上土樋三丁目を結ぶ道が誓願寺通りと呼ばれたそうです。
下流には宮沢渡場がありました。
誓願寺の場所は、今は大満寺ではないかと推測されます。
私なりにWEBを調べてみました。

天正五年(1573年)、中古荒廃無にして千躰仏も散失し荒れるがままになっていた時代、今から401年前、正新町帝の天正元年、龍泉院三世量山廣寿和尚が虚空蔵堂を再造して大満寺を中興し、この頃から大満寺は、曹洞宗になったのではないかと推測されているそうです。
大満寺が中興される以前の歴代の住職は不明である。それ以前は、密教系の天台宗か、真言宗でないかと思われており、現在、虚空蔵大菩薩、十二支守本尊、千躰観音などが祀られています。

さらにここからは、大満寺副住職であり、ホームページ管理者の西山円明様のページをしばし引用させていただきます。 


大満寺は、その昔現在の青葉城址にあった。

虚空蔵山大満寺は、今から800年位前、奥州藤原氏が創建したと伝えられている。
平泉四十八鐘の一つは、実に当山に置かれたものであるが、維新前、藩の財政窮乏の犠牲となり消失したものであるとは古老の伝えるところである。

仙台青葉城には、長泉寺、龍泉寺、光禅寺、玄光庵、大満寺の五ヶ寺があり、大満寺の虚空蔵堂が主塔であったので、この城を「虚空蔵城」とか、「虚空蔵楯(館)」とか号し、国分能登守(こくぶのとのかみ)の居城となった時、それを千躰城と改めた。
『伊達治家記録』によると、『城辺に千躰仏を社るが故に千躰城と号す』と記されている。

その千躰仏とは、現在、虚空蔵堂に安置されていたものを指している。
虚空蔵堂下の石段の中腹に千躰堂跡といわれる場所があるが、そのお堂が何年頃朽ちてしまったのかわからない。
そのため、現在までは、千躰仏を虚空蔵堂の中に合祀していた。


慶長五年(1600年)、伊達政宗の時代になって千躰城は、千代城に変わったと封内風土記に記されているそうです。

以上



虚空蔵堂。
江戸時代初期のもので代表的仏道建築で現在、仙台市の文化財。
その堅牢さは、昭和53年6月12日夕刻の宮城県沖大地震の時、現在建築よりはるかに木造建築としてすぐれていることを実証させたとか。

虚空蔵堂の御本尊は、虚空蔵大菩薩で脇仏に日光菩薩、月光菩薩が安置されており、厨子は普段はしまっているそうで、守護神として、厨子の傍に不動明王、昆沙門天も安置されているとか。

十二支の丑寅の年に御開帳されるそうです。

また千躰仏は戦災で大満寺とともに焼失し,疎開し一部の約450体が難を逃れ、そのうち約300体は800年前の原仏が見られるともいいます。






万治二年、伊達第二代藩主忠宗公葬去により忠宗公の遺言もあって、政宗公霊廟近くに感仙殿を造営することになった。
経ヶ峰は高低あり、適当な場所がないので、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂の所在地が平坦で最適地なために、これらを、現在の愛宕山の西と、その麓に遷座させたのである。
この時の普請奉行が、小説『樅の木は残った』で有名な、原田甲斐宗輔であった。



愛宕神社と違うルート、つまり大満寺の参道を降りてみました。
立派な山門です。



本堂は、愛宕山の中腹にあるようです。

さらに大年寺山へと続く>>

広瀬川散歩③ 愛宕神社

2009年08月17日 | 
8月2日、広瀬川のボート乗り場が復活したその日、広瀬川周辺を散歩してみることにしました。
以前、ブログにて紹介いたしましたが、今日は続きです。
愛宕堰から石垣町を経て、白い鯛焼きを食べながら、愛宕神社へと向かいます。



愛宕神社の鳥居をくぐると、長い長い階段が続きます。



やっとたどり着いたころには、息がハーハーでした。
裏門から坂道を登りきったところに、無料の小さい駐車場があります。
車で来たほうが楽ちんです。



江戸時代の頃、愛宕神社は普賢菩薩を本尊として合わせまつっていたそうです。
八大菩薩を十二支に割り当ててその年の生まれの人を守護するという守本尊の信仰により、普賢菩薩が辰年と巳年生まれの人を守護することになっていることから、神仏分離で普賢菩薩が除かれてから現代に至っても、愛宕神社は巳年生まれの人からの篤い信仰を集めているようです。



愛宕神社は戦国時代には伊達氏の本拠だった米沢にあったが、米沢でいつ建てられたかは不明。
伊達政宗の転封に従って岩出山に移転し、慶長5年(1600年)に政宗が本拠を仙台に移すことを決めると、愛宕神社も移転することになる。
伊達氏に従って転々としたのは愛宕神社ばかりでなく、多くの寺社と町が移転して仙台城下町に土地を割り当てられたそうです。(wikipediaより)

私の記憶に新しいのが、竹駒神社も同じ変遷を辿り、どんと祭りで仙台を代表する神社として今に至ります。





樹齢350年のエドヒガンから眼下には、広瀬川の清流がゆるりと流れています。



仙台駅前の高層ビル群を眺めながら、さわやかな風に吹かれると、先ほどまでの汗が、心地よい涼しさにかわります。



愛宕神社ご神木の「夫婦杉」は樹齢350年。



境内には、勝鬨神社や稲荷神社が祀られています。

境内を裏手にまわると、大満寺へと続きます。

次回へ続く>>


夏祭りで、頑張ります!

2009年08月04日 | つぶやき
こんばんは。
今日は、お知らせしておきたいと思い、ブログを書きます。

夏祭り関係の仕事と、資格のためのサークルの役割やら、その他いろいろと時間に追われる事柄を抱えてしまい、すみませんが、今週はブログをお休みさせて頂きます。

私のつたないブログを読んで下さる方が一人でもおられる以上、厚かましいのかもしれませんが、あらかじめお断りしておいたほうがいいと思いました。
ご理解いただきたく、お願い致します。

仙台散歩③は8/10以降にUP致します

しばらくの間のお休みとなりますが、皆様、くれぐれもお体を大事にして下さい。

仙台散歩②愛宕堰付近

2009年08月03日 | 
広瀬川の貸しボートを楽しんだ後、さらに上流を目指して歩きました。

普段、宮沢橋下の川面や草むらをヨチヨチ歩いていたマガモたちは、ボートの出現を敬遠してか、こちらに移動し身を寄せ合っていました。



です。

マガモとアヒル(?)の仲睦まじい夫婦が今年の春に、雛を産み仲良く育てていました。
こんなに、大きく育ったのですね。

調べてみると、アヒルは人間がマガモを飼いならして作った品種。
ほんとうは同じ種類なので、いっしょにいるとすぐになかよくなってしまう。
また、カルガモなどほかの種類のカモとも、すぐに雑種ができちゃうそうです。
両親の姿が二分されていて、ハイブリットだとすぐわかります。



愛宕堰付近からは、仙台駅へ向かう側の遊歩道は無くなり、一旦は石垣町に出なければいけません。



この場所からまっすぐ広瀬川を下流へと延びる大きな水流と、小さな水流は七郷堀へと延び、仙台平野の水田地帯を潤します。



石垣町に出ると、小さい商店街に出くわします。
最近オープンした、白い鯛焼き屋[藤屋」さんを覗いてみました。



(少し前の)焼きたてのクリーム鯛焼き(140円)を歩きながら食べることにします。

真っ白な鯛。
尻尾の先までクリームで満たされ、もちもちした触感が和のテイストです。
弾力のある歯触りが、病みつきになりそうです。
他に、チョコレートや、限定の桜、黒ゴマ、抹茶などなど。
別の味も、試してみたくなりました。



仙台散歩①宮沢橋貸しボート復活

2009年08月02日 | ドライブ
今日は、広瀬川周辺を歩いてみることにしました。(撮影日:8/2)



「郡山堰」の水量はいつもより多く、大きめの流木が引っかかっていました。

鮎と思しき小魚が数匹、水量増しの堰の前で飛び跳ねていました。



かつて昔、宮沢橋の下にボート乗り場があったそうです。

「仙台のデートスポットと言えば、宮沢橋の下でボートに乗るのがお決まりだったのよ。知らないかい?」
最近広瀬川関係のかたに言われて、おぼろげにではありますが、記憶にあるような、ないような気がして…
その、ボート乗り場が復活しますと最近のニュースで報道されていましたが…

まさか、今日が復活の日だったのです!



本日だけは無料でボートに乗れます、と言われ番号札を頂き、ボートが空くまで、少し待つことにしました。
82番でした。
そろそろ、終了の時間なのだとか…

ぼんやり川面を見ていると、不思議な気がします。
この場所は冬の間、白鳥やガンなどの飛来地となります。

微妙な浅瀬もある場所です。
乗り上げてしまい、シドロモドロになっている家族もいました。


この宮沢橋にまつわる、渡し船の歴史を調べてみました(wikipediaより)

江戸時代初め、仙台城が建設されて間もない頃、新たに整備された奥州街道は宮沢渡しの地点で広瀬川を渡っていた。
後に橋がかけられたらしく、寛永14年(1637年)に舟町の橋が流されたことが知られる。
しかしその頃から城下町が河原町まで拡張され、そこに長町橋(現在の広瀬橋)が架けられると、宮沢橋のほうでは橋も渡し場も廃止された。

江戸時代の宝暦のころ(1751年 - 1763年)に再び渡し場が設けられたが、文政のころ(1818年 - 1829年)に廃止された。
文久2年(1862年)に林藤助が近くの宗禅寺の援助でこの渡しを再開した。
明治4年(1871年)に中断したが、2年後の明治6年(1873年)に再開した。
渡し賃は江戸時代に3文、明治時代に3厘であった。



渡し船は橋の代わりの役目をなし、橋ができてからは、渡し船の代わりにボートが恋のかけ橋を担っていたのかもしれませんね。

順番を呼ばれて、ボートに乗ると、ボートは、スイー、スイーと風を切って進むます。
川の真ん中あたりから見る広瀬川の景色も、なかなか面白いです。



崇禅寺緑地に限りなく近づいてみました。
川岸から見ると、ここは鳥たちの住処のようです。
上陸できるのか、以前から気になっていました。

その先は愛宕堰となります。

「皆さん、戻ってきてください~♪」
マイクで呼ばれたので、楽しい楽しいボートの時間はこれでおしまいです。



最後は自分でも漕ぎたくなりました。
意外と簡単で、凄く楽しいですね。


場所:宮沢橋下
定休日:水曜日
料金:45分利用 500円