さて、愛宕神社は大満寺と愛宕山山頂を二分しています。
神社の裏手を目指して歩くとすぐに、山門などの隔たりなく、何か違う雰囲気に包まれます。
その場所が、大満寺の敷地です。
愛宕神社を調べると、かつての広瀬川の歴史と深い関わりがあります。
愛宕山北登り口の付近にあった誓願寺前から対岸の土樋に渡り、清水小路方面に向かって渡場があり、荒町通りから南の上土樋三丁目を結ぶ道が誓願寺通りと呼ばれたそうです。
下流には宮沢渡場がありました。
誓願寺の場所は、今は大満寺ではないかと推測されます。
私なりにWEBを調べてみました。
天正五年(1573年)、中古荒廃無にして千躰仏も散失し荒れるがままになっていた時代、今から401年前、正新町帝の天正元年、龍泉院三世量山廣寿和尚が虚空蔵堂を再造して大満寺を中興し、この頃から大満寺は、曹洞宗になったのではないかと推測されているそうです。
大満寺が中興される以前の歴代の住職は不明である。それ以前は、密教系の天台宗か、真言宗でないかと思われており、現在、虚空蔵大菩薩、十二支守本尊、千躰観音などが祀られています。
さらにここからは、大満寺副住職であり、ホームページ管理者の西山円明様のページをしばし引用させていただきます。
大満寺は、その昔現在の青葉城址にあった。
虚空蔵山大満寺は、今から800年位前、奥州藤原氏が創建したと伝えられている。
平泉四十八鐘の一つは、実に当山に置かれたものであるが、維新前、藩の財政窮乏の犠牲となり消失したものであるとは古老の伝えるところである。
仙台青葉城には、長泉寺、龍泉寺、光禅寺、玄光庵、大満寺の五ヶ寺があり、大満寺の虚空蔵堂が主塔であったので、この城を「虚空蔵城」とか、「虚空蔵楯(館)」とか号し、国分能登守(こくぶのとのかみ)の居城となった時、それを千躰城と改めた。
『伊達治家記録』によると、『城辺に千躰仏を社るが故に千躰城と号す』と記されている。
その千躰仏とは、現在、虚空蔵堂に安置されていたものを指している。
虚空蔵堂下の石段の中腹に千躰堂跡といわれる場所があるが、そのお堂が何年頃朽ちてしまったのかわからない。
そのため、現在までは、千躰仏を虚空蔵堂の中に合祀していた。
慶長五年(1600年)、伊達政宗の時代になって千躰城は、千代城に変わったと封内風土記に記されているそうです。
以上
虚空蔵堂。
江戸時代初期のもので代表的仏道建築で現在、仙台市の文化財。
その堅牢さは、昭和53年6月12日夕刻の宮城県沖大地震の時、現在建築よりはるかに木造建築としてすぐれていることを実証させたとか。
虚空蔵堂の御本尊は、虚空蔵大菩薩で脇仏に日光菩薩、月光菩薩が安置されており、厨子は普段はしまっているそうで、守護神として、厨子の傍に不動明王、昆沙門天も安置されているとか。
十二支の丑寅の年に御開帳されるそうです。
また千躰仏は戦災で大満寺とともに焼失し,疎開し一部の約450体が難を逃れ、そのうち約300体は800年前の原仏が見られるともいいます。
万治二年、伊達第二代藩主忠宗公葬去により忠宗公の遺言もあって、政宗公霊廟近くに感仙殿を造営することになった。
経ヶ峰は高低あり、適当な場所がないので、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂の所在地が平坦で最適地なために、これらを、現在の愛宕山の西と、その麓に遷座させたのである。
この時の普請奉行が、小説『樅の木は残った』で有名な、原田甲斐宗輔であった。
愛宕神社と違うルート、つまり大満寺の参道を降りてみました。
立派な山門です。
本堂は、愛宕山の中腹にあるようです。
さらに大年寺山へと続く>>
神社の裏手を目指して歩くとすぐに、山門などの隔たりなく、何か違う雰囲気に包まれます。
その場所が、大満寺の敷地です。
愛宕神社を調べると、かつての広瀬川の歴史と深い関わりがあります。
愛宕山北登り口の付近にあった誓願寺前から対岸の土樋に渡り、清水小路方面に向かって渡場があり、荒町通りから南の上土樋三丁目を結ぶ道が誓願寺通りと呼ばれたそうです。
下流には宮沢渡場がありました。
誓願寺の場所は、今は大満寺ではないかと推測されます。
私なりにWEBを調べてみました。
天正五年(1573年)、中古荒廃無にして千躰仏も散失し荒れるがままになっていた時代、今から401年前、正新町帝の天正元年、龍泉院三世量山廣寿和尚が虚空蔵堂を再造して大満寺を中興し、この頃から大満寺は、曹洞宗になったのではないかと推測されているそうです。
大満寺が中興される以前の歴代の住職は不明である。それ以前は、密教系の天台宗か、真言宗でないかと思われており、現在、虚空蔵大菩薩、十二支守本尊、千躰観音などが祀られています。
さらにここからは、大満寺副住職であり、ホームページ管理者の西山円明様のページをしばし引用させていただきます。
大満寺は、その昔現在の青葉城址にあった。
虚空蔵山大満寺は、今から800年位前、奥州藤原氏が創建したと伝えられている。
平泉四十八鐘の一つは、実に当山に置かれたものであるが、維新前、藩の財政窮乏の犠牲となり消失したものであるとは古老の伝えるところである。
仙台青葉城には、長泉寺、龍泉寺、光禅寺、玄光庵、大満寺の五ヶ寺があり、大満寺の虚空蔵堂が主塔であったので、この城を「虚空蔵城」とか、「虚空蔵楯(館)」とか号し、国分能登守(こくぶのとのかみ)の居城となった時、それを千躰城と改めた。
『伊達治家記録』によると、『城辺に千躰仏を社るが故に千躰城と号す』と記されている。
その千躰仏とは、現在、虚空蔵堂に安置されていたものを指している。
虚空蔵堂下の石段の中腹に千躰堂跡といわれる場所があるが、そのお堂が何年頃朽ちてしまったのかわからない。
そのため、現在までは、千躰仏を虚空蔵堂の中に合祀していた。
慶長五年(1600年)、伊達政宗の時代になって千躰城は、千代城に変わったと封内風土記に記されているそうです。
以上
虚空蔵堂。
江戸時代初期のもので代表的仏道建築で現在、仙台市の文化財。
その堅牢さは、昭和53年6月12日夕刻の宮城県沖大地震の時、現在建築よりはるかに木造建築としてすぐれていることを実証させたとか。
虚空蔵堂の御本尊は、虚空蔵大菩薩で脇仏に日光菩薩、月光菩薩が安置されており、厨子は普段はしまっているそうで、守護神として、厨子の傍に不動明王、昆沙門天も安置されているとか。
十二支の丑寅の年に御開帳されるそうです。
また千躰仏は戦災で大満寺とともに焼失し,疎開し一部の約450体が難を逃れ、そのうち約300体は800年前の原仏が見られるともいいます。
万治二年、伊達第二代藩主忠宗公葬去により忠宗公の遺言もあって、政宗公霊廟近くに感仙殿を造営することになった。
経ヶ峰は高低あり、適当な場所がないので、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂の所在地が平坦で最適地なために、これらを、現在の愛宕山の西と、その麓に遷座させたのである。
この時の普請奉行が、小説『樅の木は残った』で有名な、原田甲斐宗輔であった。
愛宕神社と違うルート、つまり大満寺の参道を降りてみました。
立派な山門です。
本堂は、愛宕山の中腹にあるようです。
さらに大年寺山へと続く>>