プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

三沢今朝治

2019-12-24 11:27:38 | 日記
1962年

東映・水原監督は二十三日午前、東京大田区調布南町の自宅に宮沢スカウトを呼び駒大・三沢今朝治一塁手の獲得について話し合った結果とることにきめた。同選手はすでにノンプロ熊谷組入社が内定しているが、三沢は東映入りを希望。松商学園の先輩宮沢スカウトにその希望をもらしていた。しかし東映では早大・鈴木(悳)選手の入団がきまっていなかったことと「一塁手は二人も必要がない」という意見が球団の中にあって決定がのびのびになっていた。三沢選手は近日中に熊谷組の了解を求めたうえ、東映と契約を結ぶことになっている。

三沢選手「熊谷組にお世話になる予定だったが、できるならプロ野球で自分の力をためしたかった。シーズン中に西鉄の伊藤スカウトと東映の宮沢さんから話があったのでプロでやることに決心した。宮沢さんは松商学園の先輩だし、東映に親しみを感じていたので入団したいと思っていた。幸い希望通りになってうれしい。熊谷組とは話し合って円満に解決したい」

三沢今朝治 松商学園出身。松商では三十三年夏の選手権大会に出場、三十四年高校の先輩小林監督に誘われて駒大に入学。一年のときからリーグ戦に出場したが、故障がつづいてレギュラーになったのは昨秋から。そのシーズンに四割二分二厘で首位打者になった。今春は三番に抜てきされたが、苦手の外角球をライトに流すことをマスターして四割三分五厘で再び首位打者になり、エース泉とともに駒大初優勝の原動力となった。秋は三割六分五厘(打率二位)で惜しくも三シーズン連続首位打者の記録をつくることはできなかったが、三シーズン連続ベスト・ナインに選ばれた。長打力(今春2ホーマー)があるわりにやわらが味あるバッター。1㍍72、73㌔、左投左打、二十三歳。

東映・宮沢スカウト「水原監督と会って、三沢君のことについて話し合い、きめた。素質のある選手なのでプロにはいっても十分やっていけると思っている」

駒大・小林監督「三沢が東映にはいることは宮沢スカウトから聞いた。彼は熊谷組に入社が内定していることでもあるし、問題のないように、そちらの方(熊谷組)をきれいにかたづけてから東映にはいりたいといっている。本人がプロでやりたいと希望していたが、その夢がかなえられたのだからよかった」
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バレニイ

2019-12-24 11:07:05 | 日記
1955年

近鉄はジョージ・A・バレンティ遊撃手と十一日同球団事務所で仮契約した。正式契約は同選手の乗務の都合上来年一月上旬になる。バレンティ遊撃手は五尺八寸、十九貫、二十四歳。イリノイ州ハーヴェイ生れ、シカゴ・ハイスクール、イリノイ大建築科出身。五十三年来日、五十四年除隊し、その後米軍小倉キャンプの軍属として働いていた。
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上崎克公・上崎泰一

2019-12-24 09:53:27 | 日記
1963年

中日は七日午後、球団事務所で飯塚商のバッテリー上崎克公(かつとも)投手(18)=1㍍72、63㌔、右投右打=上崎安一(18)捕手=1㍍71、65㌔、右投右打=の入団を発表した。同選手は双生児で、高田代表は「大成するかどうかは別として球界のザ・ピーナッツだ。兄弟バッテリーで売り出したい」と得意顔だった。
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山田勝国

2019-12-24 09:46:03 | 日記
1962年

近鉄ではこのほどノンプロ東洋高圧大牟田の山田勝国外野手(18)=博多工出、1㍍79、75㌔、右投右打=の獲得に成功した。山田選手は高校時代中堅手で四番を打ち、三年間の通算打率四割、七ホーマーをはなっている。今春卒業と同時に東圧入りした。地元西鉄も高校時代からねらっていた。
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坂口俊一

2019-12-24 09:35:43 | 日記
1962年

中日は二十九日、二軍の坂口俊一マネジャー(24)=1㍍70、76㌔、右投右打、外野手=を来シーズンから選手に復帰させ後任は東京駐在の菅野彰一スコアラー(24)=法大出=を決めた。背番号は未定。
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宮本勝寿

2019-12-24 09:29:19 | 日記
1962年

近鉄ではこのほど大阪商大付属高・宮本勝寿選手(18)=1㍍74、75㌔、左投左打=の入団を正式にきめた。同選手は八月の公募テストに合格、その後、藤井寺の練習に参加していたもの。高校時代は投手だが近鉄では打力を生かして外野手に使う見込み。なお宮本と同時に第一次テストに合格した伊佐投手(京都・山陽電機)は不採用となった。
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