プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

永本裕章

2021-02-08 11:22:56 | 日記

1971年

カープの新人となれば、なんといっても佐伯。だからキャンプ地・日南を訪れる評論家諸氏の目は佐伯に集中、ファンの視線も佐伯を追い求めている。しかし一方で地味だが、日増しに首脳陣の評価を高め、ある意味では佐伯以上と力を買われている新人投手がいる。地元盈進高から入団した永本裕章投手が、それである。この永本が首脳陣の目を奪ったのは、自主トレの最中。軽いピッチングをしたとき、投手担当の備前コーチが、思わずうなった。「実にいいフォームをしている」177センチ、76キロ。外木場を、もうひと回り大きく、たくましくしたからだつき。しかし、これは意外な喜び方でもあった。というのは、タマの速さは抜群との情報を得てはいたが、大変に制球力が悪く三振か四球といったタイプの投手と聞かされていたからだ。さらには昨年の夏、右ヒジを痛め、このため半年近くもマウンドを踏んでいなかった。「ヒジを痛めるくらいだからフォームもよくはあるまい」首脳陣が、そう判断していたのである。「永本はほとんどの球団からマークされていた。三年生の夏にヒジを痛めなかったら、ビッグスリーに劣らぬほど騒がれていたんじゃないか。その彼をとれたのは、うちにとって本当にラッキーだった」二年生のときからマークし、獲得した藤井スカウトは、日増しに高まる後輩の永本の評判に大喜びだ。永本の日南入りは、卒業試験のため、ナインより一週間遅れた。しかし、自主トレに参加していたとあって体調は十分。連日ナインと同じ練習量を積極的に消化している。まだピッチングこそしていないが、女房役のベテラン田中捕手は「いい投げ方をしているなあー、ムダがまるでないよ。ソト(外木場)の入団時よりいいんじゃないか」とべたほめ。「ホンマ、ワシらより速いタマを投げるんと違うかいな」とその外木場も感心しきり。外木場より速いタマはともかく、地元では球威の点では佐伯にも負けないといわれるほどだからたいしたもの。とにかく二年生の秋地区予選で対北川工をノーヒット・ノーランにさばき、三年生の春には対尾道商戦で、連続九三振、通算二十一三振を奪っている。佐伯も奪三振の面では永本にかなわないのだ。「ヒジは、もうまるで痛まない。半年間投げなかったのが幸いしたようです」とは永本だが、この男、やたらと向こう意気が強い。「佐伯といったってボクとたいして力に差はない。ビッグスリーなんて、たいしたことないですよ」といった調子。これも永本株上昇に一役買っている。「ボクの持ち味は速球だ。これまでも、そのことだけを考えて投げてきた。コントロールの悪かったのは力の配分を誤ったからだと思う。力み過ぎです。だけどバランスがうまくとれたときは自分でも驚くほどタマが伸び、そんなときは相手のバットがかすりもしなかった。このキャンプではしっかり足腰を鍛えて、もっと速いタマを投げられるようにしたい。課題は制球力です」と永本は不敵にいう。かつて南海に籍を置いていたことのある実兄・勲二さん(26)からプロのきびしさを教えられているだけに、新人にありがちな浮ついた面がまるでない。先日、かつての名投手杉下茂氏(現評論家)から「君のフォームはいかにも投手らしい。いい投げ方をしているよ、カープにはもっとも必要なタイプなのだから、がんばれよ」と激励されて永本はいっそうの自信を得たようだ。備前コーチのいう「秘密兵器・永本」がコントロールの面で狂いがなければ佐伯以上のヒーローになりそうだ。

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桑田武

2021-02-08 09:32:43 | 日記

1982年

プロ野球には、半永久的に破られないだろう、といわれる記録がある。王の868ホーマー、張本の3085安打、野村の3017試合…これらのなかで意外に見落とされがちなのが、桑田さんが34年に作ったルーキー31ホーマー。打高投低の傾向が年々強まるなかで、この大記録はアンタッチャブル。田淵も原も及ばなかった。「思い切りのよさが作った記録でしょう」と懐かしそうに振り返る桑田さんは、いま、横浜市内の大手建設会社の営業課長さんだ。もちろん、プロ野球での桑田さんの足跡。この新人本塁打記録に尽きるわけではない。一シーズン3サヨナラホーマー。2試合連続逆転サヨナラホーマーなど滅法、勝負強い打者だった。ポジションも三塁。大洋版燃える男だった。「私は監督さんに恵まれたと思いますね。三原さん(現日本ハム相談役)には、4打席3三振でも一打席に価値ある一打点を稼げ、4の4でも打点がゼロなら意味がない、とよくいわれた。こんな言葉が思い切りのよさを引き出してくれたのでしょう」中大時代は、4年間で4ホーマー。「とても、思い切りのいい打者とはいえなかった」(桑田さん)のだから、飛躍的な成長があったわけだ。元祖燃える男長嶋は、この桑田さんのバットのおかげで、千載一遇のチャンスを逸することになる。36年が、長嶋にとって三冠王が最も近くにあった年だった。大洋が全試合を終了した時点で桑田さんと長嶋との打点差が10。が、巨人は10ゲーム以上残していた。十分、逆転可能だ。「ところが長嶋さん、たしか2打点しかあげられなかった。プレッシャーがかかったんでしょうねえ」王の出現で、以後三冠王の可能性が消えていっただけに、長嶋には痛恨のシーズン。それだけ、桑田さんの思い切り打法が光るのである。その思い切りが身上の桑田さん、どうにも思い切れない痛みに直面したのが1年半ほど前。日大藤沢高から中大に進んだ長男の武将さん(20歳)が、野球部の合宿から脱走。「野球も大学もやめて、プロボクサーになる」といい出したのだ。「よりによって、一番危険なスポーツを選びおって、他に別なスポーツがありそうなものなのに、と思いましてね。とにかく絶対反対でした」しかし、武将さんの意志は固く父子戦争は三か月続いた。とうとう父親が折れた。「あの時はホトホト弱りましたよ」と桑田さん。だが、好きこそもののなんとやら、「野球のような集団競技より個人競技に向いている」(桑田さん)という武将さんはメキメキ腕をあげ、プロのライセンスを獲得、そして7月30日、横浜文化体育館でデビュー戦。ミドル級4回戦で、武将さんは見事2回、3分2秒でKO勝ちを収めた。「あんなドキドキの思いを味わったのは生まれて初めてでも、一度この道に入ったんだから。世界が見えるまでやれ、と私はいうんですよ」桑田さんは武将さんに、24歳までに世界レベルまで行けなかったらスッパリあきらめろ、といい渡している。しかし、それまでは援助を惜しまない。「海外へ武者修行させることも考えています」父は左手だけだったが、息子は両手にグラブをはめる。それだけの違いなのかもしれない。

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